――近くに雷が落ちたようだった。
読書を挟み、他愛ない会話を繰り返し、終焉に言われるがままにキッチンへついて行って鮮やかな手捌きを凝視する。半ば無理矢理昼食を食わされ、相変わらず部屋に戻らない終焉をぼんやりと眺め、開いていた本に視線を落とす。ドイツ語やフランス語だけでなく読めるものもあるのだから、退屈しのぎにはなった。
料理の本から童話まで、一体どこに隠していたのかと問いたくなるほど終焉は本を持ち出してきた。愛読者なのだろうかと思いながら何気なく本を一冊手にとって、パラパラとページを捲っていたのが始まりだっただろう。気が付けばノーチェさえもそれに没頭してしまって、時間の流れと雨の音を気にしなくなってしまった。
時折思い出したように終焉はぽつりと言葉を呟く。「本は好きなのか」と。男の声はやけに聞き取りやすく、没頭していたノーチェは一度視線を終焉に投げると「……暇潰しにはなる」と返す。嘘など吐いている筈もなく、活字を追うだけの作業でも没頭できるのだから、尚更だ。
彼の言葉に終焉は「そうか」と答えると、再び本に向かって視線を投げてページを捲る。ノーチェもまた倣うようにページを捲ろうとしたが、気が付けば手元にある本は最後まで読み終えてしまって、ゆっくりと本を閉じた。
随分と細かな字を追っていたからだろうか――目が疲れたような気がして、思わず彼は目頭を押さえる。心なしか頭も痛むような気がするのだ。細々とした字を目で追うのはもうやめた方がいいだろう。
――それでも時間を潰すのに打ってつけなのは読書だけで。彼は活字を追う代わりに写真やイラストがふんだんにあしらわれたレシピ本を手に取る。自分で作ろうなどとは到底思わないが、今まで終焉が作ったものがあるのかを確かめようと思ったのだ。
普通のものよりは厚みがあるからだろうか――ほんの少し重みを感じる本を開き、ページを捲る。小説などとはまた違った紙質にぼうっと思考を巡らせながら、ノーチェはそれを読み進めた。
終焉が今まで作ったことのある朝食から夕食まで、飲み物からデザートまで幅広く記載されている。大抵のものはこの本を一冊持っていれば作れるのではないかと思えるほどだ。見た目以上に軽いなどと思うノーチェは、普通の人間からすればその本が重いなどとは知ることはないだろう。
彼は無言でパラパラとページを捲り続ける項目はデザートだ。食べたいと思うわけではないが、終焉の好みを知っている以上、無意識でそれを見てしまうのだ。
そこには終焉が一度は作ったことのあるアップルパイや、クッキーがしっかりと記載されていた。多少のアレンジを加えることでより甘みが増すと書かれている辺り、男は抜かりなくそれを試した筈だろう。「あ、これあの人が作ってたもんだ」なんて思いながらノーチェは写真を目で追っていて――目についたそれをぼんやりと眺める。
それは、今までに終焉がおやつとして御茶会のときに出してはこなかったデザートの数々だ。甘いものを一通り熟知しているのかと思えば、そうでもないことはレシピを見ればよくわかる。プディングやパンナコッタなどのデザートが多種類記載されているのに、それを作った様子をまるで見たことがないからだ。
作るつもりはないのだろうか――。
ノーチェ自身が口にするかどうかなど視野に入れることもなく、本に没頭する終焉へ「……なぁ」と彼は声をかける。すると、終焉はちらりと互い違いの色を湛えた瞳でノーチェを見つめ、「どうした」と低く呟いた。
読書の邪魔をされた、などという意思は感じられず、ノーチェは思うままに「これとか作んないの」と問い掛ける。彼が指差したのは勿論、終焉が出してこなかったデザートの数々だ。
「………………」
ノーチェが指差したものを見た終焉は、僅かに顔を顰めると、口許に手を添えて「むぅ……」と小さく唸る。何か不機嫌になるようなことは言った覚えのないノーチェは、首を傾げていると――終焉が小さく「美味いのか?」と彼に問う。
「恥ずかしながら、私はここら一帯を口にしたことがなくてだな……」
「……そう」
口にしたことがないものは信用しない。――そう言いたげな口振りに彼は堪らず呆れるような言葉を呟いて、何気なく「全部甘い」とだけ告げる。すると、終焉は興味深そうに「ほう」と口を洩らすと考えるようにそれらを眺め、作ってみようかと呟いている。
口にしたことがないくせに、ノーチェの言葉はいとも簡単に受け入れることがいやに不思議で仕方なかった。何気なく「俺が言うと作んの」なんて呟いてみれば、終焉は「そうだな」とノーチェに返す。まるでノーチェが嘘を吐くとは思っていない、という口振りで返すものだから、彼は堪らず肩を竦めて「ふぅん」と口を溢した。
それはきっと、いつかの御茶会にでも現れるのだろう。
未来が手に取るように見えているような気がして、ノーチェはふう、と小さく溜め息を吐く。どう足掻いても食事を勧められてしまう状況が少なからず嫌だと思っていて、何気なく目を窓の方へと逸らした。
――そんな矢先、彼の視界に映る空の色が一際目映く光る。蛇のように、物語に出てくる竜のようにうねりながら空から落ちる閃光。瞬きをする間もなく光の後に遅れてきた耳を劈く音に、ノーチェは驚いて肩を震わせた。
空から地鳴りがしたような感覚だった。暗いからと点けていた灯りが点滅を繰り返して、一度消えたかと思えば持ち直すように点る。鈍色すらも確認できないほど暗く淀んだ空から雷が落ちたのだと気が付くのに数秒かかってしまった。
「……雷…………落ちたのか……」
ぽつり呟いた後、雨の音がいっそう酷くなるのにノーチェは気が付く。まるで水が入ったバケツを屋敷の真上で引っくり返されているような強い雨音に堪らず嫌悪を顔に滲ませると、ふと終焉を見やる。
数時間経った今では風呂の準備も十分で、他にやることといえば食事の用意しかない。――しかし、夕食の用意をするにはあまりにも早すぎる時間帯だ。先程は逃げるように風呂の掃除をしに行ったが、今回はどうなるのかが気になったのだ。
ゆっくりと確かめるように、ノーチェは反転した目を終焉へと向ける。すると、そこには一人の男が居た。
――滑らかな髪を肩や顔の横から垂らした一人の男が、肩で息をするように大きく呼吸を繰り返していたのだ。
「……あの」
ついノーチェがそう言葉をかけると、終焉は一度肩を震わせてノーチェの顔を見上げる。無表情に近く、それでいて不安に塗れるように眉尻が下がっているような気がしてならない。「あ、ああ……」と終焉は小さく呟くと、徐に立ち上がってノーチェに背を向ける。
ふらふらと歩いて行った先、出入り口で「今日は早めに夕食にしようか」と男が背中越しに語る。そのあまりの早い決断に彼は思わず「でもまだ夕方、」と言葉を洩らしたが――終焉はそれを聞き入れることはなく、覚束ない足取りで部屋を出ていってしまう。取り残されたノーチェは雨音を背に、軽く思考を巡らせた。
「……まさか…………でも……」
バケツを引っくり返したような酷い雨、暗雲の隙間から覗く稲光、光の後に遅れてくる雷鳴、普段とは異なった終焉の落ち着きのない様子――。ノーチェは終焉が出ていった先を見つめながら、呆れのような混乱を覚えてしまう。
何を隠すことがあるのだろうか。彼は男が未だ謎に包まれているとしても、それを抱えることが悪いことだと到底思えない。
――いや、悪いことだと思っているのではなく、終焉の自尊心が表に出すことを許さないのだろう。「いい歳をした大人」であるノーチェが世話を焼かれるのが嫌だと思うように、終焉もまたそれに対する嫌悪があるのかもしれない。
――そう思考を張り巡らせている間にも、二、三回唸るような音が屋根の上から――空から――降り注いだ。ごろごろ、と今にも落ちてきそうな勢いのものだ。
終焉を一人にしてもいいのだろうか。――そう思うよりも早く、不思議と彼の足は歩いていたのだった。