珍しく手の込んでいない料理にノーチェは瞬きをひとつ。終焉が嫌いそうなレトルト食品なんてものが鍋の中でぐつぐつと温められている。その様子を見守る終焉の様子を見かねて、彼は驚くように「今日は作んないの」と問う。
何せ終焉は午前中の買い物で沢山のものを買った筈なのだ。紙袋にごろごろと転がる野菜や果物などを見て、今日もまた手の込んだものを作るのだと疑いもしなかった。目の前にある雪平鍋で温められているそれが、ノーチェの考えを打ち消すように存在を主張している。
ノーチェの問いに終焉は「作りたかったんだがな……」と口を洩らしながらふとその場所を離れた。向かう先は食器棚で、真っ白で汚れひとつない皿を取り出すようだった。雪平鍋の隣にある昨日の残り物に、これも食べるのだろうかと何気なく手を翳す。
終焉は決まってスープの類いを用意するものだから、余ってしまった残り物も朝食や夕食として出てくることも少なくはない。寧ろそれくらいが丁度いいと思えるほど、男は必ず新しく料理を作るものだから、毎回勿体ないなどと余り物を見送っていたのだ。
翳した手のひらに伝う仄かな温もりは彼の考えを肯定するようで、思わずほう、と吐息を吐いた。奴隷でろくに食べられなかったという事実がここまで思わせてくるなど、微塵も思わなかったのだ。食べる人間は紛れもなくノーチェ自身であるということが何よりも億劫なのだが――。
――パリンッ
ぼんやりと鍋を眺めるノーチェの耳に届いたのは、ガラスが割れる甲高い耳障りな音だった。ハッとして彼は顔を見上げると同時、窓から溢れる目映い光にふと意識を奪われる。森の中に雷が落ちたようで、先程見たものよりも遥かに大きく光る空が、随分と目障りに思えた。
窓を眺めるその視界の端に黒い影がただ茫然とうつむいている。長い髪が靡くこともなく流れたまま、足元に落ちたそれを何も言わずに凝視していた。何も言えずにいるのだと気が付く頃にノーチェは無意識で歩み寄って、黒い髪に手を伸ばす。
絹糸を彷彿とさせる手触りに彼は「女みたいだ」と頭の隅で思いながら、「なあ」と声をかけた。すると、終焉がハッとした様子で大きく肩を震わせる。
「……手が滑ってしまった」
小さく呟かれたその言葉はあまりにも低く、とても小さかった。蚊の鳴くような声だと言われて納得できるような声量に、ノーチェは視線を足元へ落とす。目線の先には白かった深皿が割れてしまって見るも無惨な姿へと変わり果てている。いつの日にか見た花瓶の破片のように先端を尖らせて、ところどころ小さな欠片を散りばめていた。
男はあくまで自分が手を滑らせていたという事実を前面に押し出していたが、彼は瞬きをしてから「別に隠さなくてもいいだろ」と小さく呟く。ノーチェの言葉にゆっくりと視線を向けた終焉は、言葉の続きに酷く怯えているように見えた。
「何を」――そう苦し紛れに呟いた言葉に、ノーチェが核心を突くように話す。
「――アンタ、雷怖いんだろ」
「――……」
そう呟いた途端、立ち尽くしていた終焉がすとん、と膝を床に着けた。長く黒い髪が項垂れる終焉に倣って床へと垂れてしまう。力無く落ちた体にノーチェは僅かに驚きを覚えながら、男の目の前で膝を曲げた。
終焉は俯いていて表情を確認することは難しかったが、男が酷く落ち込んでいるような様子であることは薄々気が付いていた。項垂れてしまった頭に軽く手を乗せて、普段やられているように小さく頭を撫でてやる。普通ならやりそうもない行動を取ったのは、彼の中で「そうしなければならない」という妙な先入観が語りかけてきたからだ。
初めこそはただ挙動が不審だとしか思っていなかった。部屋に籠もりがちのくせに目の届くところに居たり、あからさまに驚いたり、唐突に逃げるように姿を眩ませたり――何かに怯えているのだとは思っていた。その原因が雷にあるとは思ってもいなかったが、特別悪いことではない。――寧ろそのくらいであれば多少の親近感さえ湧くものだ。
彼もまた酷く苦手とするものがある。恐れるものがひとつくらいあれば「完璧」を体現している目の前の男も、不思議と人間味を帯びてくるのだ。この男は化け物ではなく、ただの人間に過ぎないのだと――。
「…………失望したか」
ぽすぽすと何気なく頭を撫でていたノーチェに、ふと終焉が唇を開く。ぽつりと呟かれた言葉は雨音に掻き消されそうなほど小さく、やけに頼りないものだった。「……失望?」堪らずノーチェが終焉の言葉を繰り返すが、男は何の反応も示さずただ俯いているだけだ。
そこで彼は目の前の男が失望されることをやけに恐れているのだと、ふと気が付いてしまう。理由など分かる筈もない。――だが、常に見掛けているのは「完璧」である分、終焉の中で譲れないものでもあるのだろう。
ノーチェは撫でる手付きを軽く叩くようなものに変えて「……アンタ、変だな」と小さく呟く。僅かに揺れる終焉の髪から覗く金の瞳は珍しく不安にまみれていた。
「……失望するも何も、俺、別にアンタのことそこまで知らないし……」
「…………」
どう声を掛けてやろうか。ノーチェは思案を繰り返しながらうぅん、と唸る。
「…………アンタ……俺の嫌いなもん知ってんの……?」
唸ってから彼は終焉へ問い掛けると、男は小さく「知っている」とノーチェに返す。明かした筈もないそれを知られていることに疑問を持つのは無駄なのだと、彼は胸のうちでひたすらに言い聞かせた。
「じゃあアンタ、失望したの……」彼は何気なく問われたことを返してやると、終焉は勢いよく顔を上げて、僅かに眉を顰めながら「そんな筈がないだろう」と言葉を紡ぐ。人間である以上好き嫌いがあるのは当然だと言って、視線を足元に落とすものだから、ノーチェはどうしたものかと頭を捻る。
終焉は「人間ではない自分に欠点などあってはならない」というような口振りばかりで、流石のノーチェも多少の呆れを覚えてしまう。何を言っても自分を許しそうにない言葉に「頑固な奴」と小さく悪態を吐いてやって、再びうぅん、と唸った。
特に気にしないでいい筈の事柄に首を突っ込んでしまうのは何故だろうか――。
「……アンタって『完璧』じゃないといけないの?」
ノーチェが何気なく紡いだ言葉に、終焉の瞳が大きく揺れた気がした。
「何つーか……うんと……仮にそうだとしても、苦手なもんあるときは別に気にしなくていいんじゃないの……って…………思う……?」
言いたいこと分かんねぇかもしれないけど。彼はそう控えめに言うと、小さく終焉の顔を覗いた。怒られたり、呆れたり――なんていう感情は湧かないだろうが、泣いているような様子に思わず顔を見てしまったのだ。
――勿論終焉は泣くなどという行動は取らなかった。ただ驚いたように目を見開いて、ゆっくりとノーチェの顔を見たのだ。
透き通った両目に射抜かれてノーチェはぐっと息を呑むと、堪らず視線から逃れるように顔を背ける。普段の獣のような鋭さはどこにも見受けられなかったが、見られ続けるのも酷に思えた。
「……何」とノーチェが言葉を紡ぐと、男は「いや……」と口を洩らす。
「…………光と、音が苦手なんだ……」
――そうして意を決したように呟かれた理由は、子供のようなものだった。
「完璧」を体現していた終焉にも勿論苦手があるのだろう。それがただ子供と同じようなものであっただけで、彼は少し意外に思いながらも再び頭を撫でてやる。男はノーチェの手を受け入れるように小さく俯いて、曲げた膝元で微かに手を握り締める。
本当に苦手なのだと実感するのは次に雷が存在を示し、音を掻き立てた頃だ。ごろごろと耳障りな音が鳴った後、目の前が一瞬だけ明るくなるような錯覚に陥る。特別雷が怖いと思っているわけではないノーチェは窓の方を眺め、「今日は酷いなあ」なんて思う。その手元で更に体を小さくした――ような気がする――終焉に気が付いて、頭を捻った。
こんな状態になるのでは夕食の用意など簡単なものではない。終焉が嫌々レトルト食品に手を伸ばすのも頷けてしまって、はあ、と鍋を見る。未だぐつぐつと温められているそれがいつまで経っても皿に移されないのを見かねて、どう男を落ち着かせてやろうかと考えるのだ。
食事にしたいわけではないが、妙に見放せない。光なら目を逸らすだけでも十分に遮れるだろう。問題は音であるだけで、意識がある以上聞き届けてしまう終焉の耳はどうしようもない。
――何か凄い敏感らしいし。
心の奥底で終焉に知られないように呟いた。
耳元で呟いてしまった言葉に終焉は今まで以上の反応を見せてしまっていて、敏感ではあるのだと確かに分かる。その度合いがまだ計り知れないだけで、男は雷の音さえも間近で聞いているかのように聞こえてしまっているのかもしれない。
さて、どうしたものか。
――そう思っている間にも雷は追い討ちをかけるように空から音を降らせていて、終焉は拳を握り締めながらずっと俯いている。男の中の自尊心が邪魔をしているようで、終焉は決して逃げるような様子を見せなかった。ただ唇を噤んだまま耐えているのだ。
それだけでは音など遮断できないと思っている彼は一度キッチンを見回した後、気が付かれない程度の溜め息を洩らしながら終焉の顔を両手で包む。何か音を掻き消せるものがあればと思っていたが、そんなものがある筈もなく、思い至った行動を取るべく男の顔を引き寄せる。
終焉は驚くように瞬きを数回繰り返したが、ぐっとノーチェの胸元に収まって状況を理解する。遮るものがないのなら、別の音を聞かせればいいのだというように、終焉の耳元で心臓の音が確かに鳴っていた。
温かく、一定で、落ち着いていて、確かに生きている証しだ。
「…………ノーチェ……?」
思わず終焉が彼の名前を呼ぶと、ノーチェはバツが悪そうな声色で「あー……」と呟く。
「…………ちょっと……良くなるといいなって」
完全には消せないけど。
そう小さく呟かれた言葉に、終焉はほんの少し躊躇うように身じろぎをして――「…………すまない」と弱音を吐いた。
雷が落ち着くまでの間だと思っていたが、そういえば風呂があるのだとノーチェが溜め息を吐いたのはここだけの話である。