――ばたばたと屋根を打ち付ける雨が酷くけたたましいものになってきた。そんな中でも終焉は屋敷に戻っておらず、ノーチェとリーリエは他愛ない話――と言っても、リーリエの一方的な自分語り――をし続けた。
ここは終焉の屋敷のみならず、街全体を森が覆うように群生しているのだという。魔法の概念が知られるこの世界では、自然のものにも多少なりとも魔力が宿っているようで、その森には不思議な現象が起こり続けるようだ。
具体的に言えば、全く出られないのだ。その森の中から。
普通、森に迷い込めば人間は平行感覚や方角を見失い、迷うことが殆どである。しかし、この街を囲う森は感覚を奪うといったもので人を迷い込ませるのではない。聞いた話によると、道がないのだ。
その森は薄暗く、おぞましいといった雰囲気のものではない。寧ろその逆――異様なまでに清々しく、木々の青さは心を落ち着かせるものの一部である。若草の香りや、流れる川の水はどこの何よりも純水で、最早神々しさまでもを覚えさせてくるほど。
その光景はまさに穢れなき聖域そのもの。とある一部の人間はそれを〝森の聖域〟と称すようになった。
リーリエは街を囲む森の中にある小屋に身を寄せて過ごしているという。大自然にまみれ、薬草を煎じ、時折訪ねてくる人間の病を治すことから「魔女」とさえ呼ばれているようだ。
ああ、だから魔女なのか。ノーチェはリーリエの話を聞きながらそうぽつりと呟くと、女は首を左右に振って「違うのよ」と静かに話す。
「……ううん、違わないけど……何て言うのかしらね~……正式には『魔女』じゃないの。――『原罪の魔女』っていうのよ」
「…………原罪……?」
ほう、と吐息を洩らしながらリーリエは「そう」と言う。話を聞くに、その名称はリーリエが自ら名乗ったそうだ。それがいつしか簡略化されてしまい、今では魔女とだけ呼ばれるようになったのだ。
原罪というからに女は何かしらの罪を犯したのだろう。真っ当な人間に見えて自分の罪をはっきりとさせる人間も居るというのに、この世の中はまるでそれを認めようとしない者ばかりだ。それどころか自分の方が正しいとさえ錯覚しているのだから、罪を認めている者が報われる日はやってくるのだろうか。
ノーチェは一度口を開きかけたが、思うところがあったのだろう。開きかけた唇をくっと噤んで小さく俯いた。――それ意図がリーリエには理解できたようで、女は小さく笑いながら「いいのよ~」と笑う。
「気になったんでしょ? 信用されるためだったら、私は訊いても怒んないわよ」
ほんの少し低いテーブルに肘を突きながらリーリエはにんまりと笑った。面白いものを見るような、しかし不快にはならない妙な笑い方だ。
ノーチェは自分の頭の中を見透かされたような気がして、思わずぐっと体を強張らせる――。だが、訊いてもいいのだと女は言ったのだ。自分の傷を抉るような真似を、ノーチェには同じようにできるだろうか。
「…………何かしたのか」
ノーチェは簡潔に、それでいて神経を逆撫でないよう小さく吐息を吐くように呟いた。その小ささは雨音に掻き消されてしまうのではないか、と思えるほどだ。
――だが、今広い屋敷にはノーチェとリーリエの二人しか居ない。その小さな呟きさえも広い集めるように、リーリエはその呟きに「そうねぇ」と遠くのものを見るような目をした。
「――埋めたのよ、私。私の可愛い、かわいい娘を、雪原に」
「…………え?」
唐突に訪れた静寂。雨が降り頻っている筈なのに、その音が置き去りにされてしまったかのように遠く聞こえる。ぼたぼた、ばたばたと音を鳴らしている筈のそれが、ノーチェの意識を覚まさせるように掻き鳴らされているだろうに、彼の目はリーリエの瞳に釘付けだった。
何せあまりにも遠いのだ。ルビーのように輝くその瞳の見る先が、まるで埋めたという娘に向いているかのように。遠く、遠く――自らを責め立てるような、恐ろしい静寂を湛えている。
「多分ね」――その静寂を切り裂くようにリーリエが後を付け足した。「それを行ったと思う。しかし、その記憶がまるで無い」と言いたげな口振りだ。信用を得るためならばリーリエは話すと言ったが、実際それが嘘か本当か、ノーチェには分からなくなった。
「――時に少年。タオルの類いを用意してあげたらエンディアは随分と助かると思うわよ~?」
その重い空気を切り裂いたのはやはりリーリエだった。自分がしてしまったことを自分で拭い取るような発言だ。
それにノーチェはハッとして肩を微かに震わせる。暫く前に見た終焉は確かに雨具の類いを持ってはいなかった。恐らく雨が降る前に屋敷に帰る予定だったに違いない。何かが原因でその予定が狂い、雨に見舞われ、濡れて帰ってくる可能性が大いにある。
雨宿りをしているという可能性は極めて低い筈だ。何せ終焉は来客があることを知っている。その日にわざわざ帰りが遅くなるなど、あの男がするようには思えなかった。
「そう、だった」ノーチェは慌てるように立ち上がった後、足早に浴室へと向かう。柔らかく花の香りが心地のいいタオルを一つ、手に取った。屋敷の主人が帰ってくるならば、多少の気遣いを見せるべきだろう。終焉はノーチェの主人ではない。――主人ではないからこそ、ほんの少し、人間らしい行動を取ることにした。
死にたいという気持ちはある。だが、殺される見込みがないのだ。それならば多少の恩でも売って、後々願いを叶えてもらえばいいだろう。
そうしてノーチェが浴室からタオルを持ってきた直後、硬く閉ざされていた扉が音を立てて開いた。
「遅かったわね~お帰り」
リーリエは帰ってきた家主に目を配らせながらひらひらと手を振る。その目線の先、終焉が全身から水を滴らせながらその場から動かずにただ手袋を外す。ぐっと見える白い肌――その手が、徐に男の前髪を掻き上げた。
「………………」
水も滴るいい男、というのはこのことを指すのではないか、と思うほど妙に艶かしいものだった。濡れる頬がやけに見慣れない色気を漂わせてくる気がする。
サイドに流す髪から落ちる滴が足元を濡らしていくが、男は特に気にするようすもなくそっと長いコートを脱ぎ出した。水に濡れたそれは酷く重く、着て歩くには向かないようなものになっていた筈。それを脇に抱えて終焉が靴を脱ごうとした頃、ノーチェが漸くその足を動かした。
見慣れないものは見ない方がいい。思考の半分以上を奪われてしまうから。現に今までいうほどの顔を見てこなかったノーチェは、終焉のいやに綺麗な顔立ちに目を奪われてしまっていた。
「…………これ……」
全身がずぶ濡れの終焉にノーチェはおずおずとタオルを差し出した。何故多少の怖じ気を覚えているのかというと、――終焉の顔が全く変わらないからだ。
ノーチェは確かに終焉にタオルを差し出した。――しかし、それを見る終焉の目は酷く冷たく、まるで何の感情も見られない。リーリエとはまた違った血のように赤い瞳と、月明かりのように目映い煌めきを持つ金の瞳はじっとノーチェを見つめているが、鋭い眼光がよく目立つ。
余計なことをしていると咎めているような目がやけに恐ろしかったのだ。普段は多少の変化があるような気がするのに、今はもう、蔑まれているような感覚が拭えない。
ノーチェは思わず「ごめん、なさい……」と小さな謝罪を溢してしまった。そうでなければならないような気がしたのだ。終焉がそれを望んでいないと分かっていながら、それを言わなければならないような気がした。
「少年が用意してくれたのよ、ちゃーんと受け取ってあげなさいな」
助け船を出すようにリーリエが客間からひょいと顔を覗かせた。仕方ないと言いたげな母の顔をして、二人に声をかける。マーメイドドレスを模したその黒いドレスは驚くほど女によく似合っていて、妖艶――ではなく、どこか勇ましさを感じられた。
そんなリーリエに終焉は漸く口を開き「居たのか」と呟く。その声はやはり低く、出掛ける前のものとは異なっていた。寒気すら覚えられるであろうそれにノーチェは小さく俯くと、差し出していたそれを軽く下ろす。言われて受け取るのならば初めから要らないということだ。つまり、彼は余計なことをしてしまったのだ。
――しかし、下ろした手の先にあったのは雪のように白い手のひらだった。
「……助かる」
そう言って終焉はそれをノーチェから取り上げると、濡れた自分の頭へとかぶせる。その口振りと態度は渋々受け取った、と言い表しているようで、ノーチェの胸の奥に小さな蟠りが生まれた気がした。
それをどう捉えたのだろうか――終焉は徐にノーチェの頭に手を伸ばす。今までの行いからすれば、撫でられるのだろうと分かっていた筈だった。――だが、ノーチェは反射的に殴られることに対する身構えを取る。男の変わらない表情がどこか恐怖心を誘っているような気がした。
「――…………」
ふと、ノーチェが顔を上げれば、すぐ間隣を終焉が歩いていったのが見えた。身構えたことが男の不快感を呼び覚ましたのか、「あの」とノーチェが言っても振り返ることもなく、水を滴らせながら部屋へと向かう。
「何かあったのかしらね~」と言ってリーリエは取り残されたノーチェの頭を撫でる。慰めるように、優しく撫でて「泣かないの」と声をかける。
「……泣いてねぇけど……」
訝しげな顔つきで、ノーチェはぽつりと言葉を洩らした。――しかし、リーリエは気にも留めず「不器用なのね」と続ける。
「あんたも、彼も。……でもまあ、安心しなさい! 今に戻ってきて無駄に頭を撫でてくるわよ!」
そう言った直後、終焉が部屋から戻ってきたようで、ノーチェの体を引き寄せてリーリエから剥がす。「余計なことは話してないだろうな」と聞き慣れた低い声がすんなりと耳に届いた。それは、先程の声色とは少しだけ異なっているような気がしたが――、説明のしようがないほど、感覚的なものだった。
引き寄せられ終焉の腕に収まったノーチェは茫然としていると、冷たい手のひらが頭に押し当てられる。それは縦横無尽に動いてはノーチェの頭をこれでもかというほど撫で回し、彼はとうとう体のバランスを失うまであった。
「濡れた手で触れるわけにはいかなかったからな……」
わしゃわしゃと片手ではなく両の手で弄ぶように撫でてくるそれは、特別嫌なものではなかった。――だが、やりすぎの域に達しているように思え、ノーチェは咄嗟にその手を掴む。「……もういいだろ」そう言って顔を上げると、終焉は妙に物足りなさげな顔をして、むぅ、と唇を尖らせた。
しかし男はすぐに納得すると、客間へと足を向ける。その服装は多少ラフなもので、黒地に白いラインがよく目立つベストだった。いつの間にか濡れていた筈の体や服はすっかり乾ききっていて、終焉の見た目は軽快そのもの。原理は分からないが、それなりに不思議なことが起こったのだろう。
ノーチェは先程の男の様子を気にしないよう首を横に軽く振った。人である以上、不機嫌になることは当然なのだ。
その様子を見かねたリーリエはノーチェの傍に寄ると、「無駄に撫でられたわねぇ」と言って客間へと赴く。分かっていた理由は積み重ねた時間が物語っているのだろう。そのくせ、彼は終焉が女ではなく、自分を選んでくることにますます違和感を覚えた。
そろりとノーチェは客間を覗くと、リーリエと終焉が向かい合って席についている。どこか緊迫した空気が漂っているような気がして、彼は首を突っ込まないよう物陰からぼうっと見つめていると、終焉が何やら不思議そうにティーセットを眺めている。
どうやら自分が用意したわけではないのに用意されていることが不思議に思えて仕方ないようだ。
「あの」
「……貴方が淹れたのか?」
勝手にキッチンへ入ってしまったことを告げようとしたとき、終焉がふとノーチェの言葉を遮るように問い掛ける。彼はそれに曖昧に答えてやろうと思って口を開いたが、間髪入れずにリーリエが「そうよ~」と自慢げにカップを持った。
何故やたら自慢げなのか、ノーチェは確かに気になったが――理由は明白だ。終焉がノーチェが淹れた紅茶を飲んだことがないのだ。
むぅ、と終焉が眉を寄せて女を睨む。口にはしていないが、確かに「何故自分は飲んでいないのにお前は飲んでいるんだ」と言いたげな目をしている。彼はそれにいくらかの意外性を覚えてしまった。こんなにも子供らしい目をすることがあるのか、と知らない顔を見れたのが不思議で仕方なかった。