甘色の口約束

 刻一刻と近付いてくる自分の誕生日に、彼は気怠そうに「はあ」と溜め息を吐いた。
 ノーチェは昨日の部屋の一件で、終焉にどこか近寄りがたい雰囲気を感じていた。
 しかし、終焉は相変わらず無表情を顔に飾ったまま、彼の身の回りの世話を焼いている。朝食は何がいいだとか、夕食はどうしようだとか、部屋の設備に不満はないか、だとか。そんな他愛ないことばかりだ。
 彼もそんな男に合わせるようにぽつりぽつりと言葉を返したが――やはり、気になって仕方がないのだ。

 ――妙に埃まみれの部屋に置き去りにされた、一冊の手帳が。

「――ノーチェ」
「ッ!」

 びくり。不意に名前を呼ばれたノーチェは、肩を揺らしながら数十センチ高い顔を見上げた。金と赤の澄んだ瞳が随分と不安げに――しかし相変わらずの無表情で――じっと彼を見下ろしている。時刻は夕暮れ時。窓から微かに見える夕日が、嫌でも視界に移る。
 「な……んでもない」――咄嗟に呟いた言葉を置いて、ノーチェはさっと終焉から目を逸らした。昨日のものを引き摺っていると知られれば、再び否応なしに捩じ伏せられる威圧感を与えられると思っているからだ。ただでさえ男の威圧的な雰囲気が苦手だというのに、更に強いものを与えられるなど、気が気でない。
 しかし、終焉に逆らえば何をされるのかが未だに分からないときたものだ。極力逆らうことはしないのが吉だろう。
 そんなノーチェの意図を察したのか、終焉は黙って視線を戻し、トンと物音を立てた。手元には包丁と、造りのいいまな板と、食材が転がっている。ぼんやりとしていたノーチェは、自分が先程から終焉の手伝いとしてキッチンにいることを思い出した。
 色鮮やかに染まった野菜が、形を崩すことなく切り分けられていく。刃渡り数十センチの包丁がストン、とまな板に音を鳴らした。瑞々しい野菜には悪いが、彼はその様子が酷く嫌で仕方がなかった。
 きゅっと音を鳴らしながら彼は横目でそれを見つめていた。終焉の料理をする様は確かに似合うものがあったが、ノーチェには手元にある包丁が彼の意思を削いでくる。
 あの煌めく銀色がまるで凶器のように見えて、皿を握る手が僅かに震えた。

「拭き終わったのか」
「え、あ、いや、あの」

 ふう、と溜め息を吐くように終焉はノーチェへ言葉を投げた。どうやら料理の下拵えをしている合間にも、横目でノーチェの様子を窺っていたようだ。ぽつりと呟かれた終焉の言葉には感情が含まれておらず、彼は堪らず皿を持つ手に力を込める。
 ミシ、と小さく軋むような音が鳴った気がした。
 ノーチェは慌てて皿を置き、無言のままじっとそれを見つめる。突然の終焉の言葉に慌てたとはいえ、皿を割りそうになるなど、誰が許してくれるだろうか。真っ白で汚れひとつないこの皿を割ってしまえば、一体どの程度の請求をされるのか、彼は頭を真っ白にする。
 タオルを握る手に力を込めていると、「割るなよ」と男は呟いた。弁償云々の話ではなく、あくまでノーチェが怪我をすることを恐れている、という話だ。
 相変わらず身の回りではなく、自身を優先する態度にノーチェは訝しげな目を向ける。澄ました顔で下拵えをこなす男の横顔は、まるで絵に描いたように綺麗な顔だった。こんな男が自分を愛しているというのだから、世も末なのだろう。
 ノーチェは置いた皿を手に取り、戸棚へしまう。陶器特有の高い音が耳障りに思えた。割らずに済んでよかった、と思いながら、彼は視界の隅に終焉を映す。
 自分の行いも確かに危ういものがあったが、それよりも終焉の行動が気になるのだ。本人はこれっぽっちも気が付いてはいないだろう。未だ規則正しくまな板の上に落ちて音を鳴らす包丁が、次第に男の手元へ近付いていく。――にも拘らず、終焉はただぼんやりとどこかを見つめながら、手を緩めることがないのだ。
 速度を落とすこともなく、終焉の白い手の節を刃が掠めたとき――

「手……」

 ――と、彼は咄嗟に口を洩らした。
 すると、終焉はハッとしたような顔で「……ああ」と言葉を紡ぐ。ぼうっとしていた、なんて言って切っていたそれの下拵えに再び取り掛かる。瞳は未だぼんやりとどこかを見つめているようで、心配された筈のノーチェが男の身を案じた。

 相も変わらず終焉は時折咳き込むと、電池が切れてしまったかのように眠ることがあった。当然のように日中の男は椅子に腰掛け、腕を組みながらゆっくりと呼吸を繰り返す。物音で起きることもあれば、一定時間の間は決して目を覚まさないことが多々あった。
 そんな姿をノーチェは何度か見かけてはタオルケットをかぶせてやって、終焉が目を覚ますまでソファーで寛ぐ。現状死ぬために生きるのに終焉が眠っていても支障はない。――だが、家主が眠っていては彼は何をしていいのか分からない。
 終焉はあくまでノーチェを奴隷として扱わないが、ノーチェは未だに奴隷の意志を持っているのだ。
 ――そんな彼が今日に至るまで不意に目にしたのは、終焉の、白い肌だ。
 男の肌は白い。シミや吹き出物などの汚れがなければ、かさついた様子もまるで見受けられない。その色と肌触りは女のようだと形容しても差し支えがないほど。終焉の肌は目を見張るほど、綺麗なものだった。
 しかし、ある日何気なく見てしまった男の肌の色は白かった。先日目にしたものの方が悪そうに見えていたが、それは一日経った後も白さを増している。先日以降触れた試しはないが、その蒼白さは死体だと揶揄されても可笑しくはなかった。
 そんな終焉が何食わぬ顔をして料理を手掛けているのを見ると、何かと不安になってしまう。ぼんやりとしている間に手を切りそうだとか、包丁を落としそうだとか。目を逸らした途端に意識を失うのではないかと思うのだ。

 眠いなら眠ってしまえばいいのに、と何度言っただろうか。
 戸棚を閉めたノーチェは何気なく終焉の元へ近寄って、「今日は何を作んの……」と小さく問い掛けた。普段何を言わずとも聞かされる夕食が、今日ばかりは聞かされていないのだ。
 近寄って訊ねてきたノーチェに、終焉は一度ノーチェの顔を見つめる。
 初めて会った頃よりも遥かに血色がよく、ここ最近は肉付きもよくなってきた気がする。表情こそは変わらないが、ほんの少し感情を読み取れるような気がするのは、気のせいだろうか。
 ――なんて思考を巡らせていると、終焉の顔を見上げるノーチェの眉が僅かに動いた。小さくだが、彼の額にシワが刻まれる。「……聞いてんの」――そう、不機嫌になったような声色が終焉の意識を揺さぶった。

「……何だったかな……考え事をしていたら忘れてしまった」

 ぽつりと紡がれた男の言葉に、彼は唇をへの字に曲げる。ムッ、と不機嫌な顔を作ったつもりだ。実際のところ、露骨な変化が現れてくれたのかどうかは分からないが――眉間が妙に痛むのは気のせいではない。
 また不調なのに休みもしないのか、とノーチェは愚痴のように溢した。それを聞き届ける終焉は、「問題はない」の一点張りだ。顔は未だ蒼白さを増していて、時折陰で咳き込むくせに、休もうともしない可笑しな人物で、彼は溜め息を吐く。こんな調子で夕飯が完成するのかと、酷く不安になったのだ。
 ――進んで食べるほどではないけれど。
 彼はじっと終焉を見つめた後、言っても無駄だなのだと言わんばかりに溜め息を洩らした。はあ、とあからさまで呆れがちの溜め息そのものだ。まさか自分がここまで他人に干渉するなど、思ってもみなかったことだろう。ノーチェの溜め息に、終焉は小さく眉を顰めた。

「私も忘れることだってあるよ」
「…………そうじゃない」

 気が付いている筈なのに、敢えて検討違いの言葉を紡いだのだろう。数秒の間を置いた後、ノーチェは終焉の言葉に首を横に振った。確かに終焉が何かを忘れる、ということ自体がやたらと珍しく思えるのもまた事実。しかし、彼が懸念しているものはそれではないのだ。
 首を横に振った後、彼は終焉の目をじっと見つめてやった。普段は見つめられる側であるが、見つめてやることもたまにはある。そのときばかりは普段の威圧感など感じられることもなく、居心地が悪いわけではなかった。
 だからこそ、ノーチェ自身が目を逸らすまで、ガラス玉のようにやけに透き通った両の目を見つめてやるまでだ。

「……………………」

 ――そして、互いの視線が交差する妙な時間は、唐突に終わりを告げる。
 視線を逸らしたのは他でもない、終焉だった。
 つぃ、と声を出すこともなく、男は彼の目から逃れるように目を逸らす。挙げ句にはそっぽを向くように、僅かに顔を逸らしてくるものだから、なおのこと怪しい。何かを隠しているのは明白で、それによって体調が悪いのならやめさせるべきだろう。
 ――最も、彼自身に多大なる影響が与えられるかはまた話が別なのだが。屋敷に置かせてもらっている以上、やはり男のことも気にかけておくべきだと思うのだ。

 堪らずノーチェが唇を開き、「なあ、アンタ」と言葉を紡ごうとする。――すると、終焉は身を翻して「後は一人で平気だ」と言った。

「先に風呂に行っておいで」

 そう言って終焉は下拵えを済ませた野菜たちを容器に移し、端へ寄せると、包丁とまな板を手に取る。それを流水で注ぎ、軽く洗った後にラックへと立て掛けた。
 終焉はノーチェに惜しげもなく背を向けた後は着々と夕食の準備を進め始める。棚から鍋を出したり、木べらを持ち出したり、体調が悪そうな素振りなど一切見せてはいない。寧ろ不調などこれっぽっちも感じさせない様子なのが、彼にとっては酷く疑わしいものだった。
 これじゃ話なんて聞いてはくれないな。
 ――ふう、と再三溜め息を吐いて、ノーチェは終焉の言葉に従うようにキッチンを出た。
 黒い扉を押し開けて、赤黒い絨毯が敷かれた廊下を素足で歩く。相変わらず素足に布の質感が伝うが、ゴミのようなものが一切付かないのも男のお陰なのだろう。これもまた毎日続けている賜物であって、一切の休息を取ろうともしないのだ。
 彼は脱衣室の扉を開けて、ラグの上へと足を踏み入れる。洗面台や洗濯機が並ぶ部屋に、じんわりと湯気が沸き立っている。熱がこもる季節に湯気は酷く鬱陶しく、薄ら汗が滲み出るのは不快だった。
 半開きになった浴室の扉を開き、じっと中を覗き見れば普段と変わらない浴槽と、湯船が顔を覗かせる。白いタイルに、汚れひとつ見当たらない壁と天井。異質に思えるほどに黒く造りのいい浴槽に、仄かに甘い香りのする白い湯船。
 ――いつの間に準備したんだ、と彼は頭を抱えたくなった。

 やはり男はある程度のことは自分で済ませてしまう傾向がある。目を離した隙に手を出されたら最後、ノーチェも口を挟むことはできない。一度仕事を与えられた立場としては、家主には大人しく命令してもらいたいものだが――あまりにも上手くいかないものだ。
 結局与えられた仕事は終焉のサポートだけ。しかも、ほんの些細なことときたものだ。男が他人に手を出され、調子が狂わされてしまうことを嫌うのなら特別不快には思わない。――だが、終焉に限ってそうだとは思えないのだ。
 ここ最近は言葉を聞かないが、男の行動で何となく分かってしまう。
 どう足掻いても終焉はノーチェを「一人の人間」として認識して、愛しているのだ。行動の節々からは彼を奴隷だと思わせないものすら感じられる。力仕事をしようものなら避けられたり、洗濯をしようものなら代わりに洗濯物を畳ませたり、と様々だ。
  一通りの行動に共通するのは、あくまで「体を使うこと」を極力避けられていることだろうか――。

「……そこそこ体つき良くなってきたと思ってるんだけどな……」

 衣服をカゴに入れて、浴室へと足を踏み入れたノーチェは壁掛けの鏡を視界に入れる。相も変わらずどうすれば外れるのかも分からない黒い首輪が、僅かに光を反射して輝いた。首を絞めるほどではないが、窮屈な首輪だ。その奥に小さな違和感を抱いて、ノーチェはぐっと身を乗り出すように鏡を見た。
 微かに空いた首と首輪の隙間から見えたのは、薄らこびりついた傷痕だ。日を避けていた比較的白い肌に、変色したようなものが窺える。恐らく初めの、抵抗心があった頃に付いてしまった傷だろう。
 よくよく見れば、彼の体にはそれなりに大きな傷痕がいくつも刻まれている。勿論認知はしていたが、こんなにも大きかったのかと、多かったのかと疑問に思うほどだ。いくら無頓着になったとはいえ、それに対する意識が薄れていたのは想定外だった。
 ノーチェが自負している通り、彼の体つきは以前よりも良くなっていた。反面、力仕事がない所為で筋力が落ちているような気がするが――それは終焉に強請れば済む話だ。
 それよりも先程から気になるのは、自分の意識だった。

「……こんなに前向きだったかな」

 きゅっと水道の蛇口を捻り、シャワーを浴びる。次第に濡れていく髪の毛を、しっかりと濡らしてボトルを取る。何気なくちらりと視線を動かせば、以前見かけた筈の剃刀はどこにも見当たらなかった。恐らく自傷行為を懸念した終焉がどこかへと隠したのだろう。
 そんなことしなくても何もしないのに。
 ――そう思いながらシャンプー剤を十分に泡立てて、頭を洗う。しっとりと濡れた髪に甘い香りを漂わせながら、もくもくと泡立つそれにぼんやりと思考を進めた。
 不思議と前向きになってしまったのは、終焉が首輪の一部を破壊したお陰だろう。加えて慣れない安定した生活に、十分な食事だ。このことが相まって思考回路が変わってきているのだろう。そう思えば、やはり感謝というものをしなければならないような気がした。
 ――とはいえ、ノーチェ自身にできることなど限られているのだが。
 ――そうこうしている間に十分に洗い終えた頭を、彼は再びシャワーで流す。熱すぎず、冷たすぎず。ずっと浴びていようかと思ってしまうほどだ。
 その中で彼はぼんやりと瞬きをひとつ。納得がいかなかったのか――「……また洗ってもらおうかな」と小さく口を溢した。