甘色の口約束

 風呂から出れば案の定食事の用意がされていた。
 広いテーブルに出来立てと思われる食事のセットがひとつ。浴室には適わないが、ほくほくと湯気が立ち、見た目も完成されたポトフが置かれている。その中の野菜はある程度塊のような形を保っていて、花の形には整えられていなかった。いい加減終焉はノーチェの存在にも慣れたのだろう。
 ポトフの他にはパンと、飲み物が置かれているだけだった。
 彼は椅子を引いて食事の前へと座る。芳しい香りのするそれは、やはりノーチェの食欲を揺さぶってくるようで。今まで全く鳴らなかった筈の腹がくぅ、と鳴った。案外腹が減っていたのかと、ノーチェは手元にある銀色のスプーンを手に取る。その煌めきは、使用したことのあるものだとは思えなかった。
 以前なら口にしたいとも思わなかった、ごろごろとした野菜を口に放る。十分に火が通ったそれは、噛めばすんなりと割れるほど柔らかく煮込まれている。噛めば噛むほど味わいが出てくるのはやけに面白いものだ。
 コンソメを使ったであろうその味わいの中に、僅かにまた別の味を感じた。酷く懐かしいそれに、正体は何かと彼はポトフを見やる。深く刻まれた味に隠されていたのは、ウインナーの存在だった。

「肉とか久し振りに見たな……」

 じっとウインナーを見つめて、彼はそれをスプーンで小突く、弾力のあるそれを掬い上げて口へと放り込んだ。そして、数回咀嚼を繰り返す。出汁が出た所為か、強い味は感じられなかったが、溢れたであろう肉汁に心が躍ったような気がした。
 ――すると、不意にキッチンの扉が開かれる。軽く開いた後、姿を見せたのは紛れもなく終焉ただ一人で、「どうだ?」と低い声で感想を求めてきた。ノーチェは相変わらず美味い、と言いたげに首を縦に振る。それを見た終焉は、安堵の息を洩らしながら彼の前の席へと足を運んだ。
 ――やはり可笑しい。
 席に着いた終焉を見るや否や、ノーチェは眉を顰める。彼の記憶と憶測が正しければ、終焉は今日一日甘いものを一切口にしていないのだ。
 普段何気ない日常の合間に甘いものを嗜んでいる姿を目にするのに、その様子を彼は一度も視界に入れていない。この食事でさえ、出来立てで、終焉は今の今まで後片付けをしていた筈だ。最近はその後に自身の食事と称したケーキの類いを持ってくる筈なのに――、何故か今日は何も手にしていなかった。

「……なあ」

 目の前の違和感が胸に支えるのを避けるため、ノーチェはぽつりと呟く。
 彼の言葉に終焉は「何だ」と言った。

「アンタ今日、もう寝れば」

 確信を得たような言葉を紡げば、終焉は瞬きを数回繰り返した。何故、――そう言いたげな視線がノーチェの体を射貫いてくる。威圧感のない純粋な疑問を孕んだ瞳だ。特別居心地が悪いと思わないが、違和感の残る彼は顔を顰めたままそれに応える。

「なんか変……体調悪いならもう寝ろって言ってるだろ」
「…………は、」

 何だそんなことか。
 ――そう言おうとしたであろう終焉の唇が、徐に閉じていった。そしてそのまま僅かに口をへの字に曲げたと思うと、むぅ、と唸り声を上げる。
 
 普段よりも強く顔に表れていたのだろう――。ノーチェの顔付きがやたらと訝しげなものであるのを認識したようで、それとなく流すための言葉を呑み込んだのだ。ノーチェもノーチェで、気持ち強めに言い聞かせる為と思った表情だったのだろう。そっと眉間に手を当てて、違和感を拭った。
 何度言っても聞いてくれないのなら、こちらもまた手を打つまでだ。特に一度味わった視線は忘れることもなく、彼は自分が投げられた目付きと言葉を脳裏に浮かべる。以前体感した終焉の、言い聞かせようとする体験が活かせるなど、微塵も思わなかった。お陰で終焉は受け流そうとしなくなったのだから、これはこれで良かったのだ。

 ――なんてことを思うノーチェに対し、終焉はバツが悪そうに視線を逸らした。そう言われたら休まざるを得ないが、休みたくはない。――まるで駄々を捏ねる子供のような素振りに、彼の食事をする手が止まる。何かを言い淀んでいるような気がして、「何」と呟けば、終焉は小さく唇を開いた。

「明日は誕生日じゃないか……なのに、何も言ってもらえないから」
「……別にいつももらってんじゃん」
「ち、違う」

 唇を小さく尖らせて子供のように呟く終焉に、ノーチェは正論をぶつける。
 彼は奴隷という立場でありながら、家主に衣食住全てを与えてくるのだ。誕生日があるといってもノーチェは既に二十歳を超えて、祝ってもらえて嬉しいと思える自信もない。
 そんな自分に一体何を望んでいるのか――彼は男の思考が気になった。
 終焉曰く、普段与えているものはあくまで男が勝手に与えているものであり、ノーチェ自身に強請られたものではないという。終焉はノーチェに「欲しい」と言われたものを贈りたいだけで、普段とは意味合いが異なるそうだ。

 それをノーチェは「ふぅん」という生返事で応えた。別に興味はないが、何となく聞いてみた、と言いたげな対応に、終焉が不機嫌そうに眉を顰める。「何にもないのか……?」と駄目元で聞いてくるような様子は、まさに泣きそうな人間そのものだ。逆にどうして欲しいものがあると思っているのか、問い掛けたくなる。
 そんな気持ちを抑え、ノーチェはスプーンでスープをひと匙掬って飲み込んだ。暑さが増している世の中だというのに、舌の上を転がって喉を通る旨みはいつまでも新鮮だった。
 それを堪能しながらどうしたものかと彼は頭を捻る。じっと見つめてくる終焉は、ノーチェの答えを得るまで席を離れないつもりのようだ。動く様子も見せずに言葉を待つ姿はまるで、犬のようだった。

「……じゃあケーキ」

 ――徐に紡がれた言葉に、終焉は呆気に取られたように「え」と言う。

「だからケーキ。アンタ作るの好きだろ……」
「いやでも」
「何……誕生日って言ったらケーキだろ……違うのかよ」

 ほんの少し鬱陶しそうな顔だ。言葉の隅々にその感情が見え隠れしたのだろう――「そうだったか……」なんて言って、終焉はほうっと吐息を吐く。元々人の誕生日を祝ったことがないのか、終焉はどこか意外そうな顔をしていた。
 もしかしたら物を贈りたかったのかもしれない。もしくは、終焉が甘いものを好む分、ノーチェ自身の好みではなく、男の好みのものを選んだと思われたのだろうか。
 終焉は考え込むような素振りを見せている。対するノーチェはパンを囓りながら、「味は何でもいい」と告げる。そうすれば余計な手間も思考も掛けさせず、男の好きにできるだろう。これといって要望も思いつかないノーチェにとって、今の最善の選択はこれだった。

「そうと決まれば準備をしないと」

 ――そう言って席を立つ終焉に、彼は間髪入れずに「休むんだろ」と指摘をした。すると、終焉はハッとした様子で彼の顔を見やり、そうだったな、と告げる。「なら風呂を済ませてしまおうかな」――なんて言って、軽い足取りで自室へ向かう様は、誰がどう見ても上機嫌そのものだった。
 ――無論、表情の変化など見受けられなかった。声色が多少弾んだ程度の変化だ。
 
 ここまできてしまえば、あの感情を表に出さない姿は最早曲芸の域ではないだろうか――。

 着々と量を減らし、腹を満たしていくノーチェは一人リビングに取り残された。――と思えば多少離れた所で扉が閉まる音が聞こえる。足早にやってきた終焉が颯爽と風呂に向かったのだろう。
 男のことだ。長風呂の後に何をするのかも分からない。屋敷にいる以上、主導権を握って、仕事を与えてくれなければ奴隷としての意識を失いそうだ。そんなことにならないよう、自室まで見送る必要があるだろう。

「……んまい」

 皿を持ち上げ、くっとスープを喉の奥に流し込んだノーチェは、誰に聞かれることもなく美味いと呟く。早めに終焉を休ませて、明日の調子が良くなったら更に手の込んだ料理が味わえるだろう。

 食事と共に、彼は明日のケーキを楽しみにすることにした。
 ――その「明日」が、面倒なことになるとも知らず、空になった皿にノーチェは満足気に息を吐いた。