さあさあと降り頻る雨が鬱陶しかった。憂鬱な気持ちを抱えたまま、ぼんやりと空を仰ぐ。今にも空から落ちてきそうな鈍色の雲が、どんよりと空を覆い尽くしている。そこから降り注ぐ雨は、時間が経つにつれて粒をひとつひとつ大きくしていった。
バタバタと木の葉を打ち鳴らす雨音が酷く厄介で、隙間から叩きつけてくる雨粒が痛みを伴って。彼は舌打ちをする気力すらも絞り出せず、重い手を動かしながらフードを目深にかぶり直す。手足の先から熱が奪われ、冷えていく感覚が現実との解離を早めてくる。胸の奥に滞り続ける居心地の悪さは、懸命に呼吸を繋ぎ止めようとする彼の意識を揺らがせた。
絶え間なく流れ続ける赤い血が止まることを知りもしない。しくじったと気がつく頃には全てが手遅れで、フードをかぶり直した手は力なく地面へと落ちた。若草が倒れる音すらも聞こえずに、ほんのり湿った感覚が僅かに伝ってくる。言葉にもできない気持ちの悪さを覚えたが、手指ひとつ動かすことにも倦怠感を覚えてしまう今の体では、手を動かすこともままならなかった。
――――何度も後悔を重ねたことはある。少しくらい自重して、加減というものを知らなければならないと思ったことはある。そうでなければいずれ死んでしまうと、口煩く言われているのだ。
焦燥感。――――一刻も早く自分の価値と存在を証明させなければならないという、謎めいた焦り。原因は明白だ。早く役に立つ人間であることを証明しなければ、信頼を勝ち取ることなどできないからだ。他の誰にもない、価値があるのだと――――知らしめてやりたかった。
その結果として、何度も知人に迷惑をかけているのが現状だ。とうの本人に気が付かれていないとは思うものの、知人には定期的に「加減ってものを覚えろ」と言われることがある。彼にとって貴重な血液供給者である知人は、これといって文句を言うことはないものの、痛そうに首元をさすった。
少しばかり草臥れた後ろ姿を見送った彼は、それでも不機嫌そうに顔を顰めるだけだった。
――――仕方がないのだ。自分が有能であることを知ってもらうにはこれが一番だと、彼は信じて疑わなかった。刃を振るい、力の差を見せ付ければ自ずと認めてもらえるはずだと思っていた。
――――そう、信じて疑わなかった結果がこれだ。
絶えず流れる血は雨に流されて地面を這う。魔力も絶え絶えでろくに傷口も塞ぐことがままならない所為か、出血が止まる気配はない。辺り一面が鉄の匂いに包まれていて、なおのこと気分が悪かった。貧血による寒さと、吐き気がどうしたって彼の体を蝕み続ける。
街は遠く、人気のない森の中で小さく体を抱えた。ぼろぼろに傷付いた腕は普段よりも血色が悪い。加えて少しだけ震えているのだから尚更滑稽に思えてくる。ハッ、と自嘲気味に笑ったものの、その強がりは一瞬にして消え去る。死に対する恐怖など初めから持ち合わせてはいないが――――、このまま認められずに死ぬなど、虚しさが募るだけだった。
しかし、体はどうしたって動く兆しはない。何せ彼は自らを傷つけ、大量の出血をしているのだ。自身の血液を使った魔法の欠点と言えば、己の体を大切にできない点だろうか――――そう、何度も考えたことがある。何度だって言われてきたのだ、体を大切にしろと。
けれど、自他共に認める彼の戦闘への意欲は、自分の体を大切にすることなどできやしないのだ。
だからこそ彼は木陰に身を潜め、ゆっくりと体を小さく丸めた。さあさあと細かく降っていた雨は、気が付けば大粒のそれへと変わっている。雨宿りのためにと木陰に隠れたにも拘わらず、柔らかく吹く風は冷たい雨を彼の体へと運んだ。
――――寒い。どうしようもないほど。
少しでも休めば体の調子は戻るかと思っていたが、降り続ける雨がそれを許してはくれなかった。一分、一秒、時間が経つ度に奥歯がカチカチと音を立てていくのが分かる。寒さで手足の感覚が失われ始めていくのも時間の問題だろう。初めは滑らかだった視界も、今ではざらりとした灰色の世界が広がっていて、良好とは言えないものに変わっていた。
血が欲しいと体が訴えているのがよく分かる。喉の渇きがヒリヒリと口の中を痛め付けていくのが分かる。近くに生き物さえいれば贅沢も言わずに渇きを潤そうと思ったものの、生憎の雨で動物たちすらも姿を見せなかった。
知人に連絡を取る手段もない。つまり――――彼は、絶体絶命というものに直面しているのだ。自分で自分の血を口にするなど無意味なことをする気力もなく、ただぼうっと地面を眺めていた。
――――さみぃ、と小さく洩れた言葉が、誰かに届くなど思わずに。
しんなりと草臥れた若草が踏み締められる僅かな音を聞いた。耳鳴りで他の音など聞こえていないに等しいというのに、その足音だけは確かに聞こえてきたのだ。恐らく、それほどまでに生き物の存在を求めているのだろう。手放しかけていた意識を懸命に手繰り寄せると、誰かが確かにゆっくりとこちらへ近付いてくるのが分かった。
喉の渇きが増していく中で、彼はピクリと食指を動かす。灰色の視界の中で、一際目立つほどの黒が眼前に立ち塞がった。ザアザアと強くなり始めた雨をものともせず、ただ黒いコートのポケットに手を入れたまま彼を見下ろしている。その足元には墨を溶かしたかのように、一面が黒に彩られた犬だか狼だかがそれに懐いているかのように彷徨いている。
それが、誰かなど明白で。かろうじて保てている意識の中で、彼は「しくったな」と思った。こんな情けない姿を見せるつもりは毛頭なかったのだ。
それは何かを口にしていたようではあるが、肝心の彼はその言葉が聞き取れず、返事もままならなかった。ザアザアとけたたましい音が耳を劈く。耳を塞いでしまいたい衝動に駆られたものの、手は相変わらず動かなかった。
彼が返事をできないでいると、それは目線の高さに合わせるようにその場に屈み込む。ぬかるんだ地面にコートの裾やら何やらがつくのも気にせずに、プチプチとボタンを外しながら衣服に隠されている素肌を晒した。
日の光を避け続けた白い肌が眼前に晒される。雨に濡れ始めたそれを見るや否や、ごくりと生唾を飲み込むのが分かった。今まで力も入らなかったはずなのに、それを見た途端に衝動が彼を襲う。
白い肌に歯を突き立てろ、強く噛み締めて飲み下せ――――と、本能が囁く。
相手が誰であろうとも、生存本能はただ彼を突き動かした。
――――しかし、思うように体が動ききらない。今にも飛びかかりたいという衝動を目の前にしているというのに、彼はすんでのところでピタリと手を止め、ぐっと歯を食い縛る。あたかも「待て」と指示を食らった犬のように、目の前にご馳走があるにも拘わらずにギリギリと手を握り締めた。
あまりにも強く握りすぎて肉に爪が食い込んだのでは、と錯覚するほどの痛みが一瞬だけ彼の意識をはっきりとさせる。身体中に刻まれているはずの傷は唸りを上げなかったというのに、手のひらのそれはズキリと痛みを発した気がした。
――――丁度そのとき、それがゆっくりと唇を開く。静かに、必要最低限の開閉だけを繰り返し、言葉を紡ぐのだ。
「――――、――――――――」