「お前なあ、ちょっとくらい加減をいてぇ!」
ブツ、と肉を刺す感覚を得てから生温かな液体が舌の上を這う。ノーチェはそれを喉を鳴らしながら飲み下した。供給者である知人――――友人のアウディンは、首を傾けつつ何かを言っているが、血に飢えている状態のノーチェには上手く言葉が聞き取れずにいる。何せ、本能が今すぐにでも喉の渇きを潤せと絶えず囁いてくるからだ。
獲物を逃がさないようにと相手の肩を力強く押さえ付けているが、押さえ付けられている本人は堪ったものではないだろう。人間という大部分は同じであるくせに、物理に特化した体を持つノーチェに、今にでも肩を折られそうな心地でいるのだ。
そんなノーチェに何を言っても仕方がないのは十分に知っているが、やはり友人という立場上物申せずにはいられなかった。――――だから彼は、ノーチェがいくら話を聞いていないとしても話を続けた。
「知ってるか? 巷じゃ俺達がデキてるんじゃないかって噂があるらしいぞ。いい迷惑だっつの」
こっちは好きで犠牲になってるんじゃないんだけどさ。
――――アウディンはそう言いつつ少しばかり抵抗すべく、肩を掴んでくる手を引き剥がしてやろうと試みる。
しかし、それに気が付いたノーチェは小さく指先に力を込めると、彼がまた痛みに呻く声を上げた。逃げも隠れもしないんだから押さえ付けなくていいだろ、と薄ら嘆くような声が聞こえてくる。
それでもノーチェは傷口から溢れてくる血を、じゅるじゅると音を立てて飲んでいくのだが――――ほんのり、違和感を覚えていた。
「――――…………?」
「……? もういいのか?」
舌の上に転がる生温い液体を飲み下していたものの、どうにも違和感が拭えなくてノーチェは首筋から離れる。普段口にしているものに変わりはないのだが、何かが決定的に違うような気がして首を傾げた。口許を手で覆い、その下で何度も口を動かす。錆びた鉄の香りは普段のものと全く同じのはずだ。
無駄にさらりとした舌触り、そのくせこびりつくような味わい。何も変わらない、のだが。
「な、何だよ……何かあったか…………?」
「いや…………変わんねぇ、けど…………」
何か違うような気がする。――――そう言ってノーチェは懐を探り、小瓶やら何やらを取り出し始める。その中身は赤黒く、禍々しい色合いの液体が入っていて、アウディンは傷口にガーゼを当てながら眉間にシワを寄せていた。
それがあるなら俺は別にいらないだろ、なんていう言葉を聞き流し、ノーチェは容器に入っている液体を片っ端から飲み干していく。
彼が持ち込んでいた容器に入っていたのは、殺人を行った際に何かあったときの予備として死体から採っていた血液だ。ノーチェ自身それに手をつけないようにと決めていたため、人目に晒すつもりはなかったのだが――――気味の悪さが拭えないためについ、手をつけてしまった。
片っ端から飲んだそれすらも特に変わりはなく、普段と変わらない鉄の味が口に広がるだけ。鼻腔を突き抜ける独特な香りは、血液を日常的に摂取していなければ次第に気分を害するものだ。その証拠に、アウディンはノーチェが血液を飲んでいく姿を見かねて、少しばかり嫌そうに顔を顰めていった。
――――しかし。
「……………………違う…………」
手元に携えた容器をその場にぽとぽとと落としながら、ノーチェは譫言のように呟いた。
違う、違う、これじゃない――――そう呟くノーチェを訝しげな顔で眺めつつ、アウディンは様子を窺う。何だか考え込む仕草を取り、唸り始めるノーチェは何かに苦しんでいるようにすら思える。眉間にシワを寄せて、口許を押さえる様は吐き気を催しているように見えた。
彼は頻りに「これじゃない」と呟き、頭を抱えていた。視界の端で友人が少しばかり心配そうに見つめているが、ノーチェ自身、それに意識を向ける余裕はなかった。何せ彼は、口の中に広がる違和感が拭いきれなくて酷く不快だったからだ。
お世辞にもスッキリだなんて言えない血液を口にしておいて、違和感など誰もが感じそうなものではあるが。口の中に残り続ける後味を、彼は忘れている何かと結び付けようと懸命になっていた。
濃厚だとか、後味がどうだとか、特筆すべき点がいくつもあるはずなのに、血液はどれもこれも似たり寄ったりの味をしている。ジュースだとか日常的に飲むようなものであれば記憶に残りそうなものではあるが、さすがのノーチェも味覚で血液型を判別できるような人間にはなれなかった。
直近だったか、数年前だったか。それすらも分からず懸命に記憶の引き出しをこじ開けていると、ノーチェの目の前に彼が「大丈夫か」と声をかけながらやってくる。傷口を片手で押さえながら、普段とは異なった様子の彼の肩を叩くと、ノーチェの肩が震えた。
ぽんと叩かれた拍子。彼はふと俯かせていた顔を上げると、アウディンの首筋が視界に入る。格別白いとは言い難いものの、喉仏の目立つ男らしいそれに、彼は「あ、」と小さな呟きを洩らした。
脳裏に一瞬だけよぎった光景が、今とよく似ているような気がして胸の奥が大きく高鳴る。まるで先程まで止まっていたと言わんばかりに、全身の血が身体中を駆け巡るのが分かった。
雨に濡れた頬。弧を描く唇。興味深そうに見つめてくる赤い瞳――――、唆すように呟かれた言葉が、ノーチェの鼓膜を揺さぶった。
――――欲しがれ、と。
「――――…………悪ぃ…………俺、」
「おいおい、まだ本調子じゃないだろ? 動かない方が」
ふらりと視界が大きく揺れるような感覚に陥りながら、ノーチェはぐっと彼の体を押し退ける。アウディンの言葉を遮るように首を横に振って、今すぐに行くところがあるのだと呟けば、彼はそれ以上止めようとはしなかった。
代わりに、戻ってきたら片付けをしろよと、ノーチェの背に向かって言葉を投げつけるのだった。
――――雨が降っていた。気怠い体に鞭を打つよう、冷たい雨が木陰から降り注いでいた。冷えきった体に寒さが募り、身動きも取れないことが非常に不愉快だった。辺りに生き物の気配もなく、このまま一人野垂れ死ぬのではないかと覚悟を決めた矢先に、それが現れて唆すように言うのだ。
欲しがれ、と。
欲しいだけくれてやる――――と。