癒えない渇き

「……それでこうしてきたわけか」

 眼前でそう呟く男に、ノーチェは驚きを覚えた。道中までの記憶がないものの、不思議なことに彼は男を押し倒し馬乗りになっているようだ。床に散らばっている黒い髪は、普段なら丁寧に三つ編みに編まれているもの。それが今では髪留めを失ったようで、風に舞ったかのように広がっている。
 ノーチェの手は男の首もとへ。今にも爪を立ててしまいそうになっているというのに、男はいやに余裕そうに笑っている。
 それに――――不快感はない。ただ、こうなることを読まれていたかのような違和感はあるものの、理解されているのなら話は早いと彼は思った。
 思った、が。思うように息ができず、言葉も上手く紡げない。

 彼にとって目の前にいる男は上司のような存在だ。圧倒的な力を持ち、実力で捩じ伏せられた経験が、彼の胸をジリジリと焼く。それ以来なるべく反抗をしないよう、信頼を勝ち取れるよう忠誠すらも誓ったというのに、――――この様だ。

 自分の決意など塵にも等しく、ちっぽけなものだと思った。
 今まで頼られることも、頼ることもなかった分、仲間というものに慣れることがなかった彼は、初めて頼られることの嬉しさを知った。自分の実力が認められたようで嬉しく思っていたのに、もっともっとと強情る気持ちが抑えられずにいた。
 特に男に頼られることはこの上ない喜びで。この男にならと、全てを委ねるつもりで。――――自分が守れるようになりたいと、思っていたはずで。
 ――――それがどうして、自らの手で傷付けようとしているのか、理解ができなかった。

 先程の吸血で血は十分に補給できているはずだ。証拠に眩暈もなければ息切れもない。手足が冷える感覚も、気怠い感覚もない。今すぐにでも立ち上がり、普段のように動けるほどの体調だ。
 ――――しかし何故かノーチェの体は動かなかった。それどころか頻りに飢えを訴えていて、目の前のそれを食らえと本能が囁く始末だ。喉の渇きでヒリヒリと焼けつくような感覚が苦しくて、いっそのこと勢いよく歯を突き立ててやろうかと思うほど。
 その衝動を抑えつけ、ノーチェはこの場から何とか退こうとするが――――代わりに口を突いて出てくるのは、渇きを満たそうとする叫びだった。

「…………くれるんだろ……」

 普段の威勢の良さはどこへやら。ぽつりと呟かれた言葉に、ノーチェ自身が滑稽だと笑いたくなった。生意気にもほどがある言動を繰り返す自分が、時折弱々しくなってしまうことが彼は嫌いだった。
 それでも、口を突いて出る言葉は弱々しくも渇望する言葉だったのだ。

「欲しがったらくれるんだろ、なあ…………!」

 ――――そう声を上げた途端、プツンと小さな音を立てて男の服が開かれる。黒いコートの向こう、白いシャツの小指ほどのボタンがとかれて、日に焼けていない白い肌が眼前に現れる。
 あの日、雨の日に見た、女を彷彿とさせる白い素肌が、ノーチェの瞳を惹き付けた。
 一点の傷跡もない首筋が食らってみろと言わんばかりにさらけ出される。ごくりと生唾を飲み込み、その素肌に釘付けになる彼は本能が「これだ」と囁いてくるのが分かった。脳髄から求めているのは目の前にあるこれなのだと。食らい付き、歯を突き立て、皮膚の下にある血液を目一杯飲み干せと言うのだ。
 そんなノーチェの背を押すように、男は服をめくり、露わになった首筋を大きく見せる。形のいい唇が弧を描きながら、「欲しいんだろう」と言葉を紡いだ。

「ほら、――――おいで」

 窓が開いた執務室。散らばった書類が、風に吹かれてパサパサと音を立てる。よほどのことでなければ誰も訪ねてこないその場所で、ノーチェは衝動のままに男の首に歯を突き立てた。