目まぐるしい世界に響く鐘の音

 朝よりも随分と日が高く昇り、空の青さが増してきた昼時の頃。ノーチェは終焉に手渡されたクレープを受け取る。黄色の薄い生地に、花や春に因んだように桜色に彩られたホイップクリームが特徴的な洋菓子。イチゴやバナナを挟んでチョコレートソースをかけ、軽く巻いただけのそれを、不思議そうに見つめる。
 噴水広場の人の多さは異常だった。流石広場というだけあるのだろう。飾りつけは道中のそれとは比べ物にならないほど、華やかで豪華にも見える。家の窓から窓へと繋がれた三角旗は数を増やしていて、ところどころに小さな花束が飾られている。――それでも、市場の方よりも遥かに見渡しやすいと思えるのは、広場にいるのが子供達が多いから、という点にあるだろう。
 祭り事限定なのだろうか――熊ともウサギともつかない着ぐるみを着た誰かが、風船を片手に子供達に接している。その隣では長い風船を巧みに操り、捻り、動物のようなものを作り上げる者がいる。その隣では子供達が紙吹雪のようなものを舞い上げては楽しそうに笑っていた。
 それをノーチェは桜色のクレープを片手に不思議そうに見つめる。子供達の間を縫って辿り着いたベンチに座って、辺りの景色を見渡してみる。どこもかしこも祭り騒ぎで、この間の奴隷強奪の騒ぎなどまるで嘘のようだ。隣を見遣れば終焉がクレープに齧りついていて、これまた珍しいものを見せられているな、という感覚に陥る。
 思えばノーチェは終焉が何かを口にしているところを一度も見たことがない。基本的に男は観察するようにノーチェの食事を見ているだけで、食べようとは一切しないのだ。もしや口にしていないのではないか、――などと思ったが、目の前の光景を見れば食べないことはないのだろう。恐らく、終焉はノーチェの見ていない間に食事を済ませているのだ。

「…………ん」

 人の食事を見るのがやけに珍しく思え、終焉じっと見つめていたノーチェは、目を向けられて初めて自分が終焉を見つめていることに気が付かされる。単に食事に珍しさを覚えたと言えば覚えたのだが、もう一つ彼の目を惹くのがその行動だ。
 全身を黒で彩ったと言える無愛想な男が、甘いものを――それも随分と可愛らしい桜色のものを食べていると、多少の意外性があるものだ。ノーチェはそれにも気を取られ、自分のことも後回しにじぃっと終焉を見つめている。

「……甘いものは苦手だったか……?」

 ――不意に終焉がクレープに口をつけるのを止め、微かに不安そうにノーチェに問い掛けた。それまで齧りついていたクレープはノーチェの手の中にあるものと同じで、彼はそのクレープを見ると「……あまいもの」と口にする。

「そう言えば貴方はここに来て自分から甘いものも食べていなかったな。……好みが変わったか?」

 見つめているものは男曰く「甘いもの」だそうで、今までそれを全く意識していなかったノーチェは漸くそれを認識する。食べ過ぎれば胸焼けが起こりそうなそれは、子供達に好かれそうな味をしている。いつの日かの日常ではそれを進んで口にしていたような気がするが、今となってはまるで高価なものに思えるほど、縁遠いものになってしまっていた。
 そう言えばこれが甘いものだったんだっけ、とノーチェはそれを一口。味気のない生地の中に包まれたクリームと果物が程好く甘味を掻き立てる。――しかし、どうだろう。ノーチェはその桜色のクレープを口にしたが、どうにも物足りないような気がして、咀嚼が疎かになる。
 季節限定だと思われるそれは美味しいかと訊かれれば、確かに美味しいと言えるほどの甘さを持っているのだが、何かが足りないような気がしてならないのだ。
 そして、そんなノーチェの考えを見透かすように隣から「物足りんな」と終焉が呟く。

「やはりどれもこれも私が作った方が美味い」

 ――なんて呟いていて、ノーチェは「そうだろうな」と何気なく思う。何せ料理も菓子作りも妙に上手いときたものだ。自ら進んで、というわけではないが、数回口にしただけのノーチェでもそれはよく分かる。だからこそノーチェは「そう言うなら作ればいいのに」と溢した。すると、終焉は「その手があったか」とやけに真剣な顔付きで口許に手を添える。
 しかし、男は時折食べるらしい市販のものも好きなのか、「また今度だな」とだけ言ってノーチェを待つように深くベンチに座り直した。気が付けば終焉のクレープはもぬけの殻で、もそもそと食べ進めるノーチェは急かされているような気分に陥ってしまう。

「ああ、急がなくていい」

 そんな考えを見透かすように終焉が口を開いた。騒がしくも眩しい街並みを見て「面白いな」とだけ口にする。どうやら男は祭りの参加自体が初めてにも等しいようで、時折辺りを見渡してはぼうっと見入る様子が窺えた。
 辺りは甘い香りで満ちている。それは洋菓子ばかりではなく、誰も彼もが持ち合わせた花の所為だろう。一輪の場合もあれば、花束を抱えている住人も見かける。流石は花祭りと言ったところか。――ノーチェもクレープを口にしながら辺りを見つめていたが、然程興味が湧かない。
 花祭りだというくせに花はもらえなければ、花への興味も全くない。恐らく終焉はこの華やかさをノーチェに見せてやりたかったのだろうが、生憎今のノーチェには景色や場所程度で心が動かされる、といった感動を覚えることができない。
 それよりも彼は今目の前のクレープに熱中していて、周りなど見渡す余裕もないのだ。
 もそもそとノーチェは太陽に晒されているクレープを食べ進める。先程よりも遥かに見た目が小さくなりつつあるが、終焉ほどの食の進め方は見せられないだろう。お陰で持ち手の部分は随分と温かくなってしまった気がしてならない。恐らく、手持ちの方へと向かえば向かうほど味が落ちていってしまっているだろう。
 ああ、勿体ないことをしたな。――なんて思いつつ溢れ落ちそうなイチゴを一つ。仄かな甘酸っぱさが口いっぱいに広がって、口内を刺すような刺激に思わずノーチェはきゅっと目を瞑った。クリームのお陰でいくらかは緩和されたそれに、溜め息を溢すと、終焉が「ノーチェ」と彼の名を呼ぶ。

「…………」

 それにノーチェは何も答えず目を向けた。食事が遅いと文句を言われるのかと思ったのだ。

「少し気になるものがあるので向かいたいのだが、貴方も行くか?」

 ――しかし、ノーチェの考えとは裏腹に、終焉はどこか子供のような瞳を持ちながら向こうを指差して誘いにきただけだった。
 何があるのかとちらりと見やると、その先には多少の行列ができた屋台のようなものだった。やたらとファンシーな飾りつけで、売っているものは見慣れないアメのようなもの。ノーチェにはそれが何なのかは分からないが、終焉が気になると言うほどだ。魅力のある何かであることは間違いないのだろう。
 行くかと誘われたノーチェは手元のクレープを一瞥し、首を左右に振る。クレープが食べかけなので集中したいだの、足が縺れやすくなっているので休みたいだの、何かしらの理由を取って付けようとした。
 だが、ノーチェが首を左右に振ったのを見て、終焉は「そうか」とだけ呟き、勢いよく立ち上がる。今の今まで無表情を飾っているとは思えない好奇心の塊にも見えた。心なしか、男の周りには柔らかな空気というよりは、キラキラとした何かがふわふわとまとわりついているようにも見え、ノーチェはクレープを咥えたまま茫然と見やる。

「じゃあ少し離れるからな。祝い事であり人目が多い。恐らく何もないと信じたいが、多少の警戒はしていてくれるか? 万が一何かあったら私に――」
「いいから……気になるんだろ……」
「…………行ってくる」

 男の口調は出会ってから一番の饒舌に思えた。
 咄嗟にノーチェは終焉の言葉を押し退けるよう、口を挟み、早く行けと言わんばかりにじっとりとした目付きで終焉を見上げる。誰よりも背が高いくせに誰よりも子供染みた人だと思った。
 そんなノーチェの様子を見かねた終焉は一度動きを止めると、会話を止められたことにふて腐れたのか、軽く唇を尖らせてむぅ、と声を上げた。そして、「行ってくる」と言ってどこか名残惜しそうにしながらも、ノーチェを背に悠々とした足取りでそれへと向かう。
 噴水の向こうに行った先、並んでいるものは何なのだろうか。
 小さく開いた口で食べ進めるクレープはもう随分と温まってしまっていて、美味しいというにはかなり物足りないものになっていた。味気のない柔らかな生地が少しずつ飽きてきてしまい、どうしたものかとそれを見つめる。
 季節限定だと思われるそれを食べようにも、どうも口が動かなくなりつつある。しかし、捨てようにもあまりにも勿体ない。
 背を丸めながらぷらぷらと足を動かしていたノーチェは、ほう、と息を吐くと徐にベンチから立ち上がる。正直薦められたものではないが、終焉に押し付けてしまうのが一番のような気がした。
 顔を上げてよく見れば、噴水の向こうにある列の中に一際異質なものがあった。女や子供が多い場所に、誰よりも背が高く、何ものにも染まらない黒を纏った長髪の男が腕を組んで大人しく並んでいるのだ。

「…………うわ……」

 その異様な光景にノーチェは思わず声を上げて立ち止まる。流石の彼もフードをかぶったままあの列へ声をかけるのは躊躇いを覚えたようだ。そうすれば、自然と人の目が集まることに間違いない。終焉の言う〝教会〟も、ノーチェを追っているであろう〝商人〟も彼らを見付けてしまう可能性が格段に上がるだろう。
 人目が多い中での面倒事は極力避けたいような気がした。――ノーチェは立ち尽くすのもどうかと思い、先程まで座っていたベンチへと踵を返す。
 ――同時に街に響き渡る大きな鐘の音が鳴った。

「――……!」

 彼が見たのは、鐘の音と共に空高く立ち上る噴水と、金切り声にも似た大きな歓声だけだった――。