秋に染まる屋敷の庭で

「――ノーチェ」

 ――そうぼんやりと考える彼に、終焉が不意に声を掛ける。黒い手袋をした手が扉の取っ手を握ったまま、ノーチェへと顔が向けられていた。
 彼は俯いていた顔を上げて咄嗟に「何」と呟くと、男がじっとノーチェを見つめたまま唇を開く。

「小屋はどうだった? 森の中だからあまり暖かくはなかったかと思うが」

 屋敷と小屋の比較でもされているのではないかと身構えてしまった。もしも、彼が「自然の方が好き」と答えたのならば、終焉はどのような行動に出るのだろう。
 興味深そうに――は見えないが――ノーチェの言葉を待つ終焉は、恐らく何をどう答えても彼の意見を肯定する。ノーチェが快適だったと言えば、彼にとってより良い場所を、男は提供しかねない。
 ――けれど、ノーチェの答えは決まってひとつしかなかった。

「…………寒かった……から、こっちのがいいな……」

 ぽつり、呟かれた言葉に見上げていた終焉の顔が僅かに強張ったような気がした。何か癪に障るような言葉を述べてしまったのだろうか。どうにも予想外でしかない男の反応に、ノーチェは少しずつ自信を失っていく。

 嘘でも小屋にいた方がよかったと言うべきだっただろうか。――しかし、彼はもう、屋敷の快適さと終焉の手料理に体が慣れてしまっている。今更この場所を離れる気は毛頭ないが――、出ていけと言われたらどうすればいいのだろうか。

 募り募った不安がノーチェの体を後押しするように、彼の手は不思議と終焉の黒いコートを掴んでいた。それに気が付いたのは、男が不思議そうな顔付きで静かに自分の腹回りを見始めたからだ。
 無意識に子供じみたような行動を取ったことに、ノーチェ自身も戸惑いを隠せずにいる。咄嗟に手を離し、「ごめん」と呟けば、男は首を左右に振って「気にしていないよ」と柔らかく言った。
 そのまま扉を開けて屋敷の中へと足を踏み入れる。ノーチェもまた終焉に倣うように屋敷へと足を踏み入れ、何気なく「ただいま」と言った。
 ――すると、終焉がおかえり、と小さく口を洩らす。

 何気ない日常の一部ではあるが、その当たり前の言動が妙に嬉しく思えてしまった。

 エントランスを越えた辺りで鼻を擽るのは甘い香り。朝早くからノーチェが帰宅するとは思っていなかったのか、男は頬を掻いて「朝食を用意するべきだった」とひとりごちる。恐らく一人の時間を楽しもうと、得意な「甘いもの」を作っていたに違いない。
 そう考えていると、廊下の向こうからひょっこりと顔を出したリーリエが終焉の顔を見た。

「朝ごはんは?」

 ――なんて、あって当然だと言わんばかりの口振りで終焉に問い掛ける。僅かに眉間にシワを寄せて頬を膨らませる様は、女性と形容するには少しばかり幼い行動に見えた。

「……もう少し遅くなると思ったんだ」
「私は料理が作れないのに?」
「…………それもそうか」

 呆れたように再び溜め息を吐き、終焉は女の問いに答えた。
 だが、リーリエもリーリエでノーチェに美味いものを食べさせられる自信など少しもなかったのだろう。街に出て買い食いをするよりは、終焉の手料理を満足するまで食べる方がお得だと、リーリエなりに思ったのかもしれない。
 そのことを踏まえながら自分の欠点を述べた女に対して、男は納得するように頷いていた。それはそれで他人に対して失礼じゃないかと、彼は終焉の背にいながら思っていたが、女もまた頷くものだから思わず首を傾げてしまう。

 常識がないとか、デリカシーがないだとか、そういった言葉が飛び交わないのも長く連れ添った結果なのだろう。

 ――そう思うや否や、再び彼の胸には何かがつっかえるような違和感が生まれた。
 何だろう、これは。
 胸に手を当てて眉間にシワを寄せていると、リーリエと終焉は何やら話をしながら廊下を歩き進めてしまう。もしかしたら自分の知らない二人がいる、という事実に酷く疎外感を抱いてしまっているのだろうか。
 しかし、ノーチェは終焉やリーリエに「知られている」ような口振りで話し掛けられたことがある。夢で見た男と同じように、自分もまたそのうち思い出す切っ掛けがあるのかもしれない。

 ――なんて思って立ち止まっていると、廊下を歩く足音が少しずつ近付いて来ているのが分かった。

「少年~! 今日は朝から天気もいいしお外でご飯――じゃなくて、お菓子食べましょ~! お茶会ってやつ!」

 顔を上げるよりも早くリーリエはノーチェの肩を掴み、前後に揺らして満面の笑みを浮かべて話す。ぐらぐらと揺れる視界と、頭に響くような女の言葉にほんの少しの嫌気を覚えていると、リビングから出てきたらしい終焉が現れた。

 その手には確かにお茶会に使っていたティーセットと、出来立ての洋菓子達が所狭しと並んでいる。その量は到底朝一番で作ったとは思えないほどの量だ。
 香ばしく焼かれたクッキー。タルト生地まで作ったのではないかと思わせる生チョコタルト。手のひらサイズに収まる程度のカップケーキに、いつの日か見たことのあるラスクが並べられている。
 もしや夜通しで作っていたのではないのだろうか。
 自分がぐっすり眠っている間にも男は忙しなく動いていて、休む暇も持ち合わせていなかったのかもしれない。日常的に家事を全てこなしている終焉を思うと、彼の体に染み付いた奴隷としての意識が咄嗟に体を突き動かす。
 リーリエがエントランスへと向かった途端、両手が塞がった終焉の代わりにそれを持とうと手を伸ばして――

「おっと」
「…………」

 ――しっかりと終焉に避けられてしまった。
 相も変わらず男はノーチェを決して「奴隷」として見ているわけではない。だからこそ、まるで本能のように動き出すノーチェの動きを予測して、携えているものを明け渡さないように動いたのだ。
 それがノーチェには酷く不満で、思わず頬を小さく膨らませて不服の意を示す。
 すると、終焉は漸く見てわかるほどに笑い、ノーチェの横を通り過ぎた。

「肌寒い季節だから、何か羽織るものを持って外においで」

 ほんの少し振り返り、髪がなびく姿を見ると、到底恐れられている人物だとは思えない。
 終焉の言葉にノーチェは小さく頷いてみせると、男は満足げにエントランスへと向かっていった。開かれた扉から入る風も、色付く紅葉も、確かに季節の移り変わりを示している。
 肌を撫でる風が先程よりも少しだけ暖かくなったように思えたが、寒さを感じることには変わりない。

 終焉に言われた通りノーチェは階段を上り、与えられた部屋へと赴き、タンスやクローゼットを漁る。いつの間にか揃えられている冬物の服を手に取って肩に掛けてから、足早に二人が待つ庭へと向かっていった。
 外に出るとやはり冷たい風が頬を撫でるが、庭にいる二人は特別気にする様子もなく、着々と準備を進めている。出来立ての洋菓子を一足先に堪能しているリーリエは、この上なく幸せそうな表情を浮かべていて、ノーチェに気が付いた終焉は彼を手招く。

「おいで」

 以前なら嫌だと思えていた筈のその言葉がやけに心地好くて、彼は終焉の元へと駆け寄った。

「出来はいい方だと思うよ」

 そう言って終焉は駆け寄ってきたノーチェの口に、一口サイズのクッキーを放り込む。さっくりとした食感も、相変わらずの丁度いい甘さも、ほんの少し苦味のあるチョコチップも、どれもやはり美味しいと言わざるを得ない。
 だからこそ彼は小さく頷いてから「おいしい」と呟いて、終焉の顔色を窺った。

 特別不愉快に思っている様子はない。ただ、柔らかく笑みを湛えて「そうか」と言うものだから、彼の感想に満足しているのだろう。

 用意された席に座ると同時、終焉もまた白い椅子に腰を掛ける。
 美味しい美味しいと何度も言うリーリエ。飽きもせず砂糖とミルクを思うままにティーカップへと注ぐ終焉。奴隷の暮らしとは随分とかけ離れてしまったノーチェ――。

 こんな日が続いたらいいな、と何気なく思う彼の背を、冷たい風が撫でていた。