「じゃあ、ちょっと借りるわね」
片方しか見えない目を細め、リーリエは終焉に告げる。
唐突に決まった一日だけの外泊に備え、男が手早く身支度を済ませてくれた。手軽なバッグに日常生活に必要な物だけを押し込み、寒さに凍えないようにと上着をノーチェに着せる。
「支度くらい自分でやるのに」と何気なく呟けば、「この程度のことでもやらせてくれ」と終焉は言った。まるで、生涯の別れかのような言いぐさに、彼は唇をへの字に曲げる。
ノーチェの身支度を調えた終焉は、リーリエに向かって呆れるように注意を促した。
「頼むから酒は飲んでくれるなよ」
今日一日はお前一人ではないのだからな。
――そう釘を打つように言葉を呟いた終焉に、リーリエは眉を顰めていた。男の口振りだと、まるで毎日酒を嗜んでいるかのようだ。
リーリエは程好く酔いが回れば、笑い上戸へと変貌する。その姿を何度も目にしている彼からすれば、終焉の制止の言葉はとても有り難かった。
終焉という保護者――もとい、主人の目が届かなくなれば、女は酒を進めてくるかもしれない。
実際のノーチェは二十歳は越えているが、奴隷である以上、酒などの類いは全くと言ってもいいほど口にはしていない。もしかしたら記憶が飛んでいるだけで、口にしたことがあるのかもしれないが――リーリエほど酒に強くないのは確かだ。
「……仕方ないわねぇ」
男の言葉にリーリエが唇を尖らせる。美味しいのに、と拗ねる様子はまるで子供のようだ。
そんな風にふて腐れるなら、別に今日泊まりじゃなくてもいいんじゃないの――なんて、何度思ったことだろうか。
思い立ったら吉日という言葉があるように、リーリエが外泊の提案をすれば終焉は速攻で支度を調えた。絶対に手放したくないという言葉とは裏腹に、その行動は彼を屋敷から追い出すようにも見えてしまう。
もしかしたらこの人は、本当は俺なんて置いておきたくないんじゃ――なんて思いもしたが、口にすることは押し留めることに成功した。
何故ならノーチェ自信に、口を出す権利などないからだ。
「……本当は、森にすら行かせたくはないのだが、生憎私は街に詳しい訳でもないしな。気が済むまで話してやってくれないか」
ただ唇を閉ざして黙りを決め込むノーチェを他所に、終焉はほんの少し目線を下げて呟くように言葉を洩らした。
化け物ゆえに長生きはしているが、ルフランについて知っているわけでもない。――何せ、私はここでは嫌われものの類いだからな。
――そう告げた終焉に、ノーチェは僅かに眉を顰めた。
理由は最早明白だ。男が〝終焉の者〟であり、忌み嫌われているものだからだ。黒を身に付けた人間自体が遠巻きにされ、世界を滅ぼす〝終焉の者〟と直結されて、嫌われる。〝教会〟からは敵視されて、誰もが男の存在を許してはくれない。
だからこそ終焉は、街から離れた屋敷にたった一人、身を寄せているのだ。
それが、酷く気に食わない。
ノーチェの隣に立つリーリエも同じ感情を持っているのか、僅かに口許を歪ませて不機嫌そうな表情をしている。「そんなこと、自分で言う?」なんて軽口を叩くが、どうも言葉の端々に妙な違和感があった。
恐らくリーリエもノーチェと同じように、男が悪であるという認識を嫌っているのだろう。
「皆知らないだけよ。あんたがとっても料理上手で、家庭的で、一家に一人は欲しい逸材だって」
ほんの少し、呆れたようにリーリエは口を洩らすが、終焉はそれを聞き入れているようには見えなかった。
女の言葉を受け流し、ノーチェに近付いて相変わらず普段通りに頭を撫でる。一時的な別れが惜しいのか、黒い手袋をはめていない白い手が、名残惜しそうに頭を撫でた。
――ちくりと胸が痛む。それが、罪悪感から来るものなのか、他のものなのかは全く分からない。ただ、寂しげな終焉の表情が気になって、「すぐに帰る」とノーチェは呟いた。
彼なりの気遣いだ。しかし、終焉は首を横に振ったと思えば、「ゆっくりしておいで」とノーチェに告げる。冷たい手を下ろし、普段通りの無表情を湛えながら冷めた瞳をじっと向けてくるのだ。
どうして、なんて思いが募るが、男にも男なりの考えがあるのだろう。分かった、と言葉を洩らし首を縦に振る。わざわざ出迎えるためにエントランスにまで来た終焉を軽く見てから、リーリエの方へと向き直る。
必要最低限の荷物を手に持って、日が高く昇っているであろう空を思い浮かべながら、扉に手を掛けた。
「悪いようにはしないわ。あんたも、普段できないようなこと、済ませておきなさいよ」
ぽつりと呟かれたリーリエの言葉が、終焉へと放たれる。ほんの少し雲がかかった秋の空に、緑を失った草木を見て、肌寒くなった空気を感じる。彼らが何の会話をしたのかは分からないが、振り返ってみれば終焉が小さく頷いて、「分かっている」と言っていた。
リーリエが血のように赤く染まったヒールを鳴らして、ノーチェへと近付く。屋敷内に居るときには低かった目線が、少しだけ高くなったのを感じた。
「振ってやりなさい」と口を添えられて、扉が閉まる直前に小さく手を振ってやると、男が驚いたように目を丸くする。――と同時に閉まる扉に、少しだけ寂しさを覚えた。
「どんな顔をしてた?」
「……驚いてた」
石造りの階段を下りて訊ねてきたリーリエに応えれば、女は軽く笑う。女曰く、手を振られるなんて思ってもいなかったようだ。
赤と金の瞳が瞬いたのを見て、漸く澄ました顔を崩せた、と仄かな優越感を覚える。終焉は些細なことでは滅多に表情を緩めない。ノーチェの前ではいくらか気を抜いているようだが、それでも無表情である時間は長いのだ。
突拍子もないノーチェの言動に、終焉は不意を突かれてしまうことが多々ある。今のもまた男の不意を突いてしまったのだろう。
秋の空は移り変わりが早く、遠くの方には黒い雲が見える。雨が降るのか、降らないのか、判断はつかない。リーリエの歩く足取りは軽く、これから出掛けて遊びにでも行くのかと思えるほど。
どうして今日その日に泊まりに行くことが決まったのか、疑問が募るが口には出さない。
屋敷から数メートル歩いて、森を目の前にしてから女が軽く振り返る。直行してもいいけれど、ご飯でも買いに行きましょうか、なんて――笑う様は、こちらを気遣っているようだった。
「人がしっかり来るなんて久し振りだし、折角だから美味しいもの買いましょ!」
お金はちゃんと持ってるから安心してね。
そう言って笑いかけるリーリエに、ノーチェは頷いたのだった。