夕暮れに鳴く鳥が声を上げている哀愁漂う時間に、彼らは屋敷で妙な言い争いをしていた。
「……っいいから……! このくらいは自分でできるから……!」
「怪我人は大人しく従うべきだ……っ」
ギリギリと音を立てているかのような攻防戦が繰り広げられている。暑苦しいコートを脱いだ終焉はノーチェの服のボタンに手を掛けていて、ノーチェは脱衣を手伝われまいと必死の抵抗を見せる。終焉の手を引き剥がすかのように、彼はその手を開こうとかろうじて残っている力を振り絞り続けた。
時間をかけて裏道を通り、屋敷へと帰りついた終焉は手始めにノーチェの手当てをしようと道具を携えた。動くのに邪魔なコートは赤いソファーへ投げ捨て、手を洗いに行かせたノーチェの戻りを待つ。道中ノーチェが足元をふらつかせていたものだから、終焉は思わず彼を抱き抱えてしまった。
その所為だろう――手洗いから戻ってきたノーチェの表情がどこかふて腐れるようなものになっている。眉を顰め、口を閉ざし、しぶしぶといった様子で終焉の元へ近付いた。「随分とふて腐れているな」と終焉が言おうとも、ノーチェはそれに答えることはなく、赤いソファーへと腰を掛ける。
彼に残る多少のプライドがよしとしなかったのだろう。まだふて腐れるだけで済んでいるのは、ろくに人目につかなかったからだろうか。
終焉はノーチェにこちらを向くように声を掛ける。まずはよく目立つ顔から手当てをするようで、いくつかの道具を出して終焉はノーチェへと向き直った。ノーチェは従うように終焉に顔を向けているが――その表情は無愛想で不機嫌そのもの。冷めた無表情の終焉は、心中でくつくつと笑いながら「そんな顔をするな」と言う。
「仕方がないだろう。あのまま歩いてしまえば貴方が倒れてしまったかもしれないのだ」
そう言って口許の傷口に消毒を染み込ませた綿を軽く当てる。じわりと焼けるように襲う痛み――反射的にノーチェは目を閉じて、体を強張らせる。綿には止まりかけていた赤い血がじわりと染み込んでいて、心なしか手当てをする終焉の動きがぎこちない。
ノーチェの具合を考慮してのぎこちなさなのだろうか。――痛みに慣れ始めたノーチェはゆっくりと目を開ける。同時に綿が離れていくのを見て、彼は軽く唇を尖らせながら「そうじゃない」と呟く。
「もっと他に運び方があった筈だろ……なのに、何で女みたいにお姫様抱っこなんてしたんだよ……」
――どうやら彼が気にしているのは「運ばれた」ことよりも、「運び方」に文句があったようだ。ノーチェはじろりと終焉を睨むように見つめると、終焉は手当て道具を持ちながらきょとんとした表情を浮かべる。まるで、それが当然だと言わんばかりの態度に、ノーチェは言い表しようのない混乱を覚える。
終焉は一言だけ呟いた。「その方が顔が見えるから」と。顔が見えて、且つ安定を求めた結果の行動だと。
それにノーチェは混乱した後、終焉がこういう人なのだと無理矢理自分を落ち着かせるに至った。そうでなければ何もかも納得いきそうになかったからだ。ただでさえ男は怪我の手当てをしてくれている。これ以上の迷惑など、かけるべきではないだろう――。
ふと、ピリピリとフィルムを剥がす音が鳴る。見れば、終焉が手のひらサイズの白い湿布を手にノーチェの顔を見つめている。そして、フィルムを剥がした常温の湿布を、ノーチェの青い頬にゆっくりと貼った。――くさい、とノーチェは小さく口を洩らす。
彼の端正な顔立ちは、ところどころ傷を背負ってしまっていて、見るだけでも痛々しさが身に染み渡るほど。それは、微かに触れてみれば傷を負う本人が一瞬だけ顔を顰めてしまうほどなのだから、余程のことなのだろう。ノーチェ本人はそれほど気に留めていないようだが――、終焉はそうは思わなかった。
「次は殺しておくから」
そう口を洩らしたのは、他でもない終焉だった。貼られた湿布の上から頬を触られているノーチェは、その言葉に茫然として微かに目を丸くする。何せ、終焉の表情が言葉と一致していないからだ。怒りを露わにしながら口にするなら理解できるというのに、終焉はただどこか物寂しげな表情を浮かべたままだった。
思わず「物騒……」と呟いたノーチェには、誰かを殺すなどという想像が一切できやしない。ましてや生きている人間に刃を突き立て、肉を裂くなど、想像しただけで血の気が引くものだ。
この人は暮らしどころか生き方さえも自分とは真逆なのだろう――ノーチェは自分にはできないことをやってのける終焉をじっと見つめる。ノーチェに対する接し方からすれば、人殺しなど行うには見えなかったが、街で出会ったヴェルダリアへの接し方を見ればそうでもないのかもしれない。
――そう思えば、この屋敷に独りで住んでいる理由が何となく分かった気がした。それが正しいものか、確証は得られないのだが、やはり彼は「そういうものなのだ」と思うことにしているのだ。
「…………もう平気」
ゆっくりと自分に痛みが走らないよう、ノーチェは添えられていた手を剥がす。終焉は「そうか」とだけ呟いて大人しく手を下ろす。――何か言われるかと思っていたノーチェだが、その終焉のおとなしさを見て妙な安心感を覚えた。
――だが、終焉はその程度で終わるような男ではなかった。
ノーチェは手当てが一段落したものだと思い、何気なく席を立とうと重い腰を上げる。二人きりの雰囲気は妙に耐え難いものがあった。やることが与えられないのならば、せめて与えられている部屋に引きこもるべきだろう――そう思い、座り心地のいいソファーから徐に立ち上がったのだ。
「…………?」
立ち上がる際に使った手を引いたのは他でもない終焉だった。男はいやに澄んだ瞳でノーチェを見つめていて、まるで、今から告白でもするのではないか、という錯覚を与えるほど。初対面にして「愛している」と告白を受けたノーチェでさえ、その真っ直ぐな視線が堪らなく嫌に思えた。
そうして暫くの沈黙が続いた後、終焉はゆっくりと唇を開いたと思えば――。
「脱げ」
――と、そう一言だけ言葉を置いた。
一瞬だけ、ノーチェは目の前の男が何を言っているのか理解できなくて茫然とする。彼自身、見目の良さゆえに半ば無理矢理体を求められたことも、強いられたこともあった。その経験がまともな思考を忘れさせたのだろう。「……は?」とノーチェが思わず呟いた言葉に、終焉は首を傾げる。
頭の片隅では分かっている筈だ。終焉は体を求めてくるような性格ではないと。――しかし、何の脈絡もなく「脱げ」と言われて、ノーチェも「はい分かりました」と易々脱ぐような人間ではないつもりだ。自発的にそれを促す程度なら、理由がはっきりしない限り彼は脱ごうともしないだろう。
ノーチェは終焉が何を理由に脱げと言っているのか、じっと言葉の続きを待っていた。首を傾げ、真面目な表情――もとい、無表情を飾ったその顔を、多少の瞬きを繰り返しながら見つめていた。
それを男は脱げないものだと解釈したのだろう。終焉はノーチェの手を引きながら徐に立ち上がると、ボタンが留まっている箇所へと手を伸ばす――。
「……いや…………いやいや……」
突然の終焉の行動に、ノーチェは軽く首を左右に振りながらボタンを外そうとする手を掴む。まるで介護されているかのような状況に、かろうじて残る抵抗が唸りを上げる。
――思えば終焉に鎖を切られて以来、無くしたと思っていた欲が少しずつ思い出せているような気がした。その点において――いや、家に置いてくれていることや、対等な人間として接してくれていることについて、諸々と感謝をするべきなのだろう。
しかし、それには限度というものがあって、ノーチェにも許せるものと許せないものがある。例えば、このように世話を焼かれすぎることが、成人男性として許すことができないのだろう。
そんなノーチェを前に、終焉はただ無表情のまま「そう抵抗するな」と手に力を込める。
男曰く、怪我をしているのだから世話を焼かれるべきらしいのだ。屋敷まで歩いている間にも足が縺れ、ノーチェは躓くことが多かった。彼は「平気」としか言わなかったが、それを見て歩く終焉の心持ちは落ち着いたものではなかっただろう。
それが今になって全面的に現れているものだから、若干の悪意さえ感じられるほどだ。ノーチェは必死の抵抗を見せているためか、終焉は力を込めることも許されていないようで、両者共にその場に踏ん張っている様子もよく分かった。