――そして、話は冒頭へと戻る。
ノーチェは自分でできると言って脱がそうとする終焉の手を掴んでいるが、終焉は大人しくしろと言って服に手をかけている。ノーチェが十分な抵抗を見せていられる以上、彼の言うように致命的な怪我は請け負っていないのだろう。
しかし、妙な責任を感じているからか――終焉はその手を一向に退かそうとはしなかった。まるで、怪我を負ったのは自分が傍にいなかった所為だと言いたげに。
「――……はあ」
すると、突然終焉が参ったと言わんばかりに溜め息を吐き、手を離す。惜しみなく、呆気なく。それに、抵抗していたノーチェは一度重心を前に倒しかけて、咄嗟に足を踏み出して体勢を持ち直した。
そして「どういう風の吹き回しだ」と言うようにちらりと終焉を見やると、男は呆れるような顔付きで――且つ無表情のまま、ただノーチェを見つめている。その呆れるような表情はまるで、時間が勿体ないと言い表しているようだった。
ただでさえ終焉は一人で身の回りのことを成し遂げようとしているのだ。特にこれからは風呂や夕飯が待ち構えている。恐らく、終焉は夕食作りに精力を尽くしたいのだろう。「時間が勿体ないからな」と口を洩らす様は、先程の攻防戦に疲労さえも覚えているようだ。
――勝った。
無意識にそう勝敗を決め付けたが、ノーチェは一つ一つ丁寧にボタンを外していく。本当ならば逃げてやってもよかったのだが、目の前の男がそれを許すようには思えなかった。そんなことをしてしまえば次こそは無理矢理にでも服を剥がされかねない。
そう思ったノーチェは必要最低限と思われる露出をする。服のボタンは外した。しかし、殴られた箇所以外は見せる必要もないだろう、と腹部のみ服を捲り上げて終焉に見せてやる。
――それに、男は納得していたようだった。
彼の体は酷く傷だらけだ。それでも終焉の第一声は「肉付きが悪いな」の一言で、ノーチェは軽く首を傾げる。体つきは確かによくはなかったが、それよりも目を惹くのは鳩尾付近にある青い痣と、いくつかの傷痕の筈だ。殴られたときの古い痕は多少肌に残ってしまっていたが、切り傷に比べれば何てことはなかった。
だというのにも拘わらず、終焉は単純にノーチェが痩せていると呟いた。まるで異なる着眼点にノーチェは「変なやつ」と口を洩らす。
「変で結構。一応軟膏でも塗っておくか」
そう言って終焉が取り出したのはチューブタイプの塗り薬だった。手で口を捻り、慣れた手付きで指の腹に白い塗り薬を載せる。その色が相まって終焉の黒い爪がよりいっそう際立った。終焉が普段から手袋をしているのは爪を隠すためだろうか――ノーチェが茫然と思考を巡らせている間に、終焉は患部へと指を滑らす――。
「……?」
それに気が付いたとき、奇妙だと言わざるを得なかった。先程湿布を貼られたときには対して気にも留めていなかったが、ノーチェはそれが分かると途端に気になって仕方がない。
黒い爪を持ったその手がいやに冷たかったのだ。通常人間ならば血液が流れている以上、体が温まる筈だというのに、男の手はよく冷えていて水のように冷たい――いや、まるで氷のようにヒヤリとしていた。その手は絶え間なく塗り込むようにノーチェの腹を撫でているが、何故だか体温が奪われる一方で、終焉の指など温まる兆しもない。
そんな不可思議な現象に意識を奪われていたとき、ノーチェはふと裏通りでの出来事を思い出す。――赤髪の男、ヴェルダリアが挑発的に呟いたあの一言を。
「化け物風情が」――そう言われてしまえば胸を刺されてしまうような一言が終焉に投げられた。直後の終焉は顔色一つ変えず、寧ろ怒りに満ちていたような表情ばかりを湛えていて、言葉など気にしている様子もなかった。
いくら奴隷であるとはいえ、ノーチェでさえも「奴隷風情」以上の言葉など投げられた記憶もない。――けれど、それ以上のものを槍のように投げられてしまえば、思うところはあるだろう。
男が投げられた言葉の理由はこの手にあるのだろうか。氷のように冷たく、まるで死人を彷彿とさせる手が、ノーチェを慈しむように懸命に薬を塗り込んでいく。一向に温まらず、それどころか多少の寒さまでもをノーチェは覚え始めてきた。冷え性という程度の言葉には収まらないほどの、可笑しな冷たさだった。
終焉はその理由を知っているのだろう。自分が「化け物風情」だと言われる理由を理解しているのだろう。男はノーチェのことを十分すぎるほどに知っているようだが、やはりノーチェは終焉のことを何一つ知りやしない。
あまりにも一方的なその状況に、ノーチェは重々しく唇を開いた。
「……匂いを辿ったって何」
化け物と言われる直接的な理由は訊く気にはならなかった。咄嗟に思い出したのは、終焉が彼を追った際に辿ったらしい、匂いというもの。ノーチェにはこれといって終焉の匂いなど分かる気にもならないが、ボディーソープや洗髪剤などの香りは気にすれば分かる程度だ。
――それでも人混みの中を辿るほどの嗅覚など、彼は持ち合わせてはいない。更に言うならば、街中は花や洋菓子の類いで甘い香りに満ちていたのだ。人一人の特徴的な香りなど辿ってこられるものなのだろうか。
終焉のあの口振りは、自らを人間以外のものだと例えているようだった。嗅覚の鋭い獣のような印象を強く受けるほど。
――そう、例えるならば、男に似合うものは狼だろうか――。
「……簡単な話だ。アレが私に向かって言っていただろう、『化け物風情が』と」
「………………」
「そういうことだよ」
つぃ、と腹部を撫でていた指が躊躇なく離れていった。少しも温まらなかった手が、塗り薬の蓋を閉める。きゅっと小さな音を立てて閉まったそれを、終焉は躊躇いもなく救急箱へと入れた。
その流れる動作を見つめていたノーチェは、ゆっくりと服を戻し、丁寧にボタンを閉めていく。男が自身を卑下するように化け物だと言った理由を考えてみたが、それらしい理由はまるで見当たらなかった。何せ、終焉の見た目は誰がどう見ても人間らしいそれで、ただ人並み外れた嗅覚を持ち合わせている程度だとしか思えないのだ。
パタン、と救急箱の蓋を閉じる音が鳴る。終焉は徐に立ち上がると、「買い出しに行くか」と言った。街に赴いたはいいものの、食材らしい食材は一つも買ってはいなかったのだ。これではまともな食事の準備すらできないのだろう。
ノーチェはそんな終焉の様子をじっと見つめていた。力仕事なら得意な分、彼は荷物持ちくらいならできるだろう、という視線を投げかける。その瞳には何の感情も込められてはいないが、昨日彼は言ったのだ。――どんな待遇を受けていても、自分は奴隷なのだと。
その視線に気が付いたのだろう――、終焉はノーチェの特徴的な目をじっと見つめ返す。「怪我人なのだから安静にしていろ」と言い張るように、冷めた目を向けているつもりだった。
――しかし、その程度で引き下がるノーチェではない。
彼は何も言わず負けじとその目を見つめ返すだけだった。怪我人だろうが何だろうが、今まで受けてきたのだから何も問題はない、と言いたげだ。目は口ほどにものを言う、というように、両者の視線はどれもこれもやたらと意味を含んでいる。
「…………はあ……」
――数分の沈黙の末、その空気を引き裂いたのは終焉の重い溜め息だった。