素肌に滲む青、乳白色に染まる水面

 食器がぶつかり合う音がいやに響く部屋で、ノーチェはパンを一口。真っ白なシチューにつけてはちまちまとそれを食べ進める。具がいくつも入ったシチューには、固さが特徴的のフランスパンがよく合った。それをナイフで切り分けて丁寧にバスケットに盛り付けた辺り、終焉は見目にもよく気遣っているようだ。

 数分続いた沈黙の後、終焉はノーチェを屋敷に残したまま買い出しに行ってしまった。――勿論、ただ彼を置き去りにしたのではなく、やるべきことを残してからだ。

「じゃあ……風呂で……」

 そう呟いた終焉は表情はどこか遠慮しているように見えた。恐らく性格上、誰かに何かを頼むといったことは苦手なのだろう。微かに目を逸らしながらノーチェに呟くその様子はどことなく可愛らしさを持っているように見えた――が、ノーチェも気が気でなかった。
 彼は知っている。終焉の手間も惜しまないような、掃除の行き届いたやけに綺麗な浴室を。タイルの隙間から、戸の角まで、隅から隅まで掃除が行き届いてしまっている浴室を。その場所に足を踏み入れ、手を出すなど奴隷である自分が許されるだろうか――。

「……ただ沸かすだけなので……」

 ノーチェを見かねてハッとした様子の終焉は、咄嗟に言葉を続けた。恐らく本人は気が付いていていないだろうが、ノーチェの表情はどこか怯えるような――それでいて圧倒されるような小動物のそれによく似ていたのだ。終焉は何か恐れられるようなことはしていない筈だと首を傾げながらも、彼に説明をする。
 終焉とてそこまで時間をかけるつもりはないのだろう。沸かすだけのことをしたのなら、その後は自由に過ごしていて構わないと言った。沸かした風呂に入るもよし、自室にて茫然とした時間を過ごすのもよし、回り足りない場所があるのならば歩き回るのもよし、――ただし無理はしない範囲で、というのが男の指示だ。
 それにノーチェはほっと胸を撫で下ろした。余計な手を加えるよりも、言われたことを淡々とこなせるだけの作業に安心感を覚えたのだ。――直後、自分は死にたがっているのだから反抗すれば良いのでは、と首を傾げたのは言うまでもない。
 終焉は唐突に「シチューが食べたい」などと言うと、やはりノーチェの頭を撫でてエントランスの扉に手をかける。

「すぐ戻る」

 そう言って出ていった終焉に、こくこくと首を縦に振りながらノーチェは見送った。じくじくと痛む頬に何気なく手を添えながら、頼まれた浴室へ向かうと、やはり使用感のない綺麗な空間が広がっている。隅から隅まで換気が行き渡り、到底カビなどの発生を許さないと言っているようだ。
 ノーチェはそれに相変わらず圧倒されながらも、浴槽の栓を閉め、ちらと横目でパネルを見る。街から多少離れているというのに、随分といい設備を持っているようで、ボタンを押して時間が経てば自動的に風呂が沸く仕組みになっている。
 これでは抗議した意味がないじゃないか。――そう思いつつ手探りでそれを押していけば、一呼吸おいて多少の音を立てながらお湯が勢いよく飛び出している。後は時間が経てば沸いてしまうだろう。

「…………やることねぇじゃん」

 なんてことを呟きながら、ノーチェは浴槽の蓋を閉める。――見れば見るほど違和感のある、黒い浴槽を横目に、彼は戸を閉め、そっと浴室を後にした。
 やることもなく、何気なく階段を上り、与えられた部屋へ赴く。重苦しい黒光りする扉を開けて、見た先にあるのは多少慌てて用意してしまって、まともに片付いていない一室。布団は捲られ、部屋着は床に落ちている。
 改めてその状況を見ると、ノーチェは言い様のない呆れを覚えた。これが成人した男の有様なのかと、溜め息を吐く。恐らくこれだから終焉に子供のような扱いを繰り返されるのだろう。たとえ愛されているとしても、子供扱いなど御免だった。
 ノーチェは頭の片隅にある記憶を頼りにパタパタと部屋着を折り畳んでいく。慣れない手付きだからだろうか――、妙に歪なそれにあまり納得しなかったが、仕方がないと言って妥協を見せる。その後に立ち上がって寝具へと向き合うと、柔らかく軽い布団を丁寧に畳み始める。
 所謂羽毛布団、というやつだろう。羽のようにとはいかないが、毛布よりも軽くふわふわとした印象が強く、畳んだそれに一度だけダイブを決める。ぼふん、と大きな音が鳴った気がした。久し振りの寝具はいつまでも新鮮で、一人で正気を取り戻せば「何をやってるんだ……」と呟きを洩らす。
 そうして分かったのは、この屋敷の大抵のものが高いだろう、ということだ。起き上がり座り込むノーチェがいるこの寝具一つとしても、弾力は心地好く、枕は低反発のもの。それが恐らく各部屋に用意されているのだろうから、相当な資産を持っているのだろう。

「……あの人何なんだ…………?」

 単調な思考でものを言うなら相当な資産家だ。――しかし、その程度だけでは済まないだろう。憶測で物事を決めるのはどうかと思うが、ノーチェは終焉をただの資産家で終わらせるつもりはない。
 第一「終焉の者あんな名前」なんて、誰が好き好んで名乗るだろうか――。
 ぎっ、と音を立てて軋む寝具を後目にノーチェは部屋を後にする。多少のねだりが許されるのなら、備え付けてある本棚にいくつかの本でもねだるのがいいだろう。そうすればいい暇潰しになる筈だ。
 彼は階段を下りた後、流れるように終焉の部屋へと足を運んだ。どうせ暇を潰すなら確実に本のある家主の部屋で本でも嗜もうという魂胆だ。ノーチェは部屋の扉を開けると、相変わらず手入れの行き届いた部屋を目にする。――しかし、他の部屋とは異なって人間味のある多少なりとも使用感が現れている部屋だ。
 その部屋に足を踏み入れ、軽く本棚を物色する。ノーチェが知る言葉から、全く読めない言語まで丁寧に取り揃えてあった。どこか並びが変わっているような気がしたが、ノーチェは気にせず適当な本を手に取る。そして、ほんの少し芽生えた好奇心に負けて、部屋の主の物と思われる椅子へと腰掛けた。
 キャスターなどの付いたものではないが、それの座り心地はかなり上々。抱き留めるかのようなクッション性と、寄り掛かり甲斐のある背凭れはかなり癖になりそうなものだった。思わず「おお……」と声を洩らし、数分その機能性を堪能した後、ノーチェは手に取った本をパラパラと捲る。
 それは――黒い背表紙の見慣れない話だった。

『――いくつかの事象を招いた後、その結末は必ずと言ってもいいほど、同じものへ辿り着く。それを呼び起こすのは他でもない黒い獣――六本の尾を持ち、耐え難い空腹をその身に抱え、自らの食欲を満たすためだけに世界を喰らい続けるという。
 確証も得られないお伽噺にも似た、架空の話だと思われているのだから、幻想物語か何かかと思える。――しかし、ルフランにある教会の面々はそれを信じているようで、軽蔑の意を込めて獣に名前をつけたそうだ。だからだろうか、黒い獣をこの街が好いていないのは。
 ――尚、この街にはやけに多くの言い伝えが蔓延っている。一つのものを信じるのは懸命とは言えないだろう。かくいう私は、その話を信じてその名前を口にすることは止めた。この本を読んでいる読者にも、警告の意を込めて文末に書き記しておくので、名前を聞いたとしても言ってはいけないと思うといい。

 彼のものの名は――』