素肌に滲む青、乳白色に染まる水面

 ――ピピッ
 不意に微かに聞こえたのは無機質な音だった。ノーチェは本に向けていた意識を取り戻し、咄嗟にその本を閉じて棚に戻す。あの音は恐らく風呂を沸かす際に使った機械の音だろう。自動というものはいやに便利で、自分が何をしていたのかをいとも容易く忘れさせてしまう。
 ノーチェは軽く小走りをして浴室へ向かうと、機械というものは便利なもので、必要以上のお湯を張らないよう自動的に止まっていた。ノーチェは先程の音を聞いたことはなかったが、恐らく彼の部屋が二階にあることから、音がそこまで届かなかったのだろう。
 閉めていた蓋を開くと、透明なお湯が湯気を立ち上らせながら顔を覗かせる。黒の浴槽にそれはあまりにも見にくく、軽く唇を尖らせて「むぅ」と誰かのように唸ると、ふと思い出した。

「……どこにあるんだ……?」

 浴室を出て脱衣所へ――ノーチェは辺りを見渡してその行方を捜す。
 棚には丁寧に折り畳まれた柔らかく肌触りのいいバスタオルと、かごが少し。あまり気に留めなかったが、近くには洗濯機が鎮座している。洗濯物が出てくる風呂場に洗濯機が存在しているのは随分と移動が楽になるな、と人知れず思った。
 そうして漸く見つけた探しものは、柔軟剤の隣に当然の如く居座っている。ノーチェはそれを手に取ると、何気なく振るった。――かなりの量が入っているであろう入浴剤が、音を立てて入れ物の中を縦横に駆け巡る。
 これで間違いはないのだろう。ラベルを見るが、当然それは間違えようのない入浴剤だ。白い入れ物に際立たせるよう、桃色に彩られた蓋を回し開けると、甘い香りのする白い粉末が凝縮されている。中に入っていた匙で掬うと、丁度いい量が収まった。
 「これだろうなぁ」彼は入浴剤を片手に浴室へ戻る。未だにほうほうと湯気を立たせるその湯船にふ、と入浴剤を入れて、全体に行き渡るよう混ぜてやれば見慣れそうな白い湯船が完成した。

「……確かにこれなら、よく見えるな……」

 先程までに認識しにくかったお湯と浴槽の境界線がくっきりと浮かび上がった。もしかしてこの為にあるのではないか、と思えるほどだ。
 ――すると、丁度よく扉の開く音が鳴る。帰ってきたのかと、彼は手を拭いてからエントランスへと向かう。そこにはビニール袋を片手に靴を脱ぎかけている終焉が居た。男はノーチェに気が付くと、甘い香りがしたのだろうか――「本当に沸かしたのか」と小さく口を洩らす。
 まるで予想外だと言いたげな発言にノーチェは何かを言ってやろうと思ったが、徐に口を止めると、そのまま「……おかえり」とだけ呟く。

「……ん」

 あくまで慣れていないと言いたげに遠慮がちに、終焉は「ん」とだけ洩らす。彼はそんな終焉に近付いて何気なく荷物を持ってやろうと手を伸ばすと、「ああ、いい」と然り気無く躱された。

「私はこのまま準備をしてくるよ。貴方は風呂に入るといい」
「……? こういうのって家主が先じゃ……?」

 かわされたことにノーチェは一瞬でも小馬鹿にされたような気がしてならなかったが、続けられた終焉の言葉に呆気に取られる。彼は終焉が先に入るものだと信じて疑わなかったのだ。スキムミルクの入浴剤を率先して入れたのも、それが大きな要因だろう。
 ――しかし、男はノーチェの言葉に一呼吸おいてから呟くように言った。

「……私は入浴時間が長いのだ。許されるならば二時間以上は浸かりたい。――だから、先に入っておいで」

 ――そうして彼は入浴の後、平然と用意された食事を口にしているのだ。

 終焉は相変わらずノーチェの目の前で彼の食事をじっと見つめているだけ。時折「どうだ」と訊いてくれば、ノーチェはそれにただ頷いてみせるだけで、まるで会話が成立しているとは思えない。――だが、終焉はそれに十分満足しているようで、ほう、と吐息を洩らしてはノーチェを見つめた。
 味付けを心配するわりには随分と拘りが散りばめられているな、と彼は思う。
 銀色のスプーンでそれを掬い取った。それは、丁寧に花の形に仕上げられた橙色のニンジンだ。恐らくノーチェが風呂に入っている間に仕上げたのだろう。細かく、そして繊細なそれは余程の時間を持て余していなければ到底出会えることのないものだ。
 時間にも余裕そうだな――ノーチェは掬い上げたそれを口に含む。すると、それを終焉が興味深そうに見つめている。――いや、彼の目をじぃっと飽きることなく見つめている。
 終焉は相変わらず食事には手をつけようとしなかった。「……アンタは食わないの……」と訊けば、男は「そのうち」とだけ呟いてくる。
 思い返してみれば手作りのラスクや、アップルパイ、売られているクレープなどを口にしているのに、終焉はまともな食事だけには手をつけない。何かの理由があるのかと思うが、それらしい理由など聞いたことも、それらしい行動も見たことがない。目の前の男はただ、ノーチェの食事だけを丹念に眺めているだけだった。

「……変なやつ……」

 スプーンを口に咥えて目を合わせないようノーチェが呟くと、終焉は「そうだな」と言った。その口振りは間違っていないと言っているようにも思えた。何かしらのものを言いそうな終焉が黙っているのは妙に不謹慎で、何か粗相をしてしまったのかと思考を巡らせる。
 特に望んだわけではないが、もしかすると屋敷を追い出されてしまうほどの事をしてしまったのではないか。終焉はただ黙りながらじっと見つめて、どう追い出してやろうかとそれなりの思考を巡らせているのかもしれない。
 どうせ追い出されるなら、また奴隷として捕まる前に殺してもらいたい。
 ――なんて食事をする手が疎かになる中、終焉が微かに唸ってから顔色を窺うように「終わったら夜風に当たりに行かないか」とノーチェに言った。