終わらない〝命〟について

 ノーチェは終焉の説明を聞き終わると紅茶を一口。程好い苦味と風味が気持ちを落ち着かせるのにうってつけで、彼は聞いたものを頭の中で並び立て、理解をしていく。

 〝永遠の命〟が宿されているというのなら、死んだ筈の終焉が生き返って飄々としている理由が分かった。話だけならろくに信じていなかったが、実際にそれを目の前にしてしまうと疑う余地もなくなってしまう。その命があるという理由を裏付けるように、終焉は着ていた服を軽く脱いでみせると、黒い染みの下にある筈の丸い傷がどこにもなかった。
 色の白い素肌に残るのは、見慣れない大きな傷痕だけ。それは肩から胸を切り裂くような勢いでつけられた鋭いものだ。全貌は見せてはくれないが、形や方向からして斜めに大きく斬りつけられたのだろう。
 真新しい傷はどこにも見当たらないくせに、そのいやに痛々しい傷痕が残る体にノーチェはじっと視線を投げかけてしまっていたのだろう――終焉が徐に服を着直し、肌を隠してしまった。

 傷痕に釘付けになっていたのだと気がつく頃には終焉は気持ちを落ち着かせるように息を吐き、パウンドケーキを口にした。ノーチェも同じように紅茶を飲み続けるが、先程見た傷痕が妙に気になって仕方がない。目線を外すもチラチラと向けてしまうそれが妙に滑稽で、何故かと考えてみれば、不思議と見たことがあるような気がしてならないのだ。
 確信は得られない。見たことがあるというのもただの気の所為なのかもしれない。――そう思っていたのも束の間。ノーチェはふとその違和感に苛まれるように疑問を口にする。

「……目の傷は治んねえの……?」

 ポツリと呟いただけの言葉に、終焉は動きを止める。時間にして僅か数秒――しかし、その数秒がやけに長く見えたのは言うまでもないだろう。
 唐突に動きを止めた終焉にノーチェは触れてはいけない部分に触れたのかと、胸の奥に蟠りを募らせる。ざわつくような胸騒ぎが酷く不愉快でぐっと歯を食い縛り、耐えるように眉間にシワを寄せる。話したくないのなら話さないだろう。都合よく話題を変えてケーキを食べる手を進める筈だ。
 だが、終焉はふと目を瞑ると、「治らないよ」と小さく呟く。

「〝永遠の命〟が目覚めるのは『一度死んでから』が条件だ。それ以降の傷は治るのだが、目覚めの前に死ぬ要因となった傷はどうやら治らないらしい」

 今まで何度も死んできたが治った試しがない。そう言って終焉は目元の傷に触れた。その手つきは妙に愛しげで、遠い過去に想いを馳せるようにも見える。普段冷たい無表情に飾られた顔が、このときばかりは父親のように、友のように、恋人のように柔らかく温かく見えた。
 〝永遠の命〟が目覚める要因になったその傷痕――恐らく体にもあったものも含める――が、何故だか終焉は大切に思っているようだ。ノーチェは軽く首を傾げる。治らないというのに何故か大切にしているような素振りを見せられるのが疑問だった。
 ――まあ、関係がないだろう。
 ノーチェは食べかけのパウンドケーキを一口齧って、「便利だな」と口を洩らす。

「……怪我しても治るなんて……」

 ――それはあくまで一般的な人間の反応だった。怪我をしても治るというのは少なくとも羨ましいと思えるものだ。長く続く痛みなどどこにもありはしない。たとえ殴られたとしても、青痣すらも残さず瞬く間に消えてしまうのだろう。

 理不尽に殴られる痛みを知るノーチェにとって、長く続く苦しみが途切れるというのは確かに羨ましかった。立てなくなるほどの激痛も、腫れる頬もまるで見当たらなくなるのだ。化け物と罵られるとしても、痛みに悩まされるよりはマシだと思えた。
 だが、相手は他でもない〝終焉の者〟だ。彼は終焉の内なる願いを忘れていたのだろう。「……本当に便利だと思うのか?」と呟かれ、見やったその顔は先程の温もりなど見当たらず、妙に寂しげで――それでも無表情であることには変わりがない――責め立てられているような気がした。

「貴方は自分の願いを忘れたわけじゃないだろう。そして、奇しくも同じ願いを私は抱いている」
「あ……」

 ただ、死にたい。そんな思いが頭の中を掠める。

 奴隷として捕まってからノーチェにはそんな思いが胸に募った。ありきたりで――多少周りとは違っていたが――普通の家族が居て、当たり前の幸せなどあって当然なのだと思っていた。
 それが瞬きをした瞬間に崩れ去り、労働を中心に金目当てで遠くに飛ばされ、時には玩具として弄ばれる――そんなことが当たり前になってしまった。いつ頃だかはっきりとはしていないが、気が付けば胸の奥には「死にたい」という思いばかりが募るようになる。
 どうせ故郷に戻れないのなら、いち早く現状から逃げられる死を迎えた方がマシだと思うようになったのだ。何も考えなくてもいい、何もしなくていい。死んだ先に何があるのかは分からないが、もう奴隷として扱われることがないのだ。これ以上にない救いの手になることは明らかだっただろう。
 家族や知人はいくら待っても助けには来てくれない。恐らく、奴隷商人に捕まるような弱者など、居なくなって当然だと思われているのだ。もしくは、誰も覚えていないというのが道理だろう。見知らぬ誰かに視線を投げ掛けて見てもすぐに逸らされる。期待もできない助けを待つより、死んで楽になる方が救われるのは確実だ。
 ――そんな思いからノーチェは月を追う毎に死にたいと願うようになった。無駄に頑丈な体は簡単に衰弱死するに至らず、ずるずると生を引き摺ってしまって今に至るのが現実ではあるが、どんな状況下にいても思いは消えることはない。
 長く募らせてきたつもりの感情を簡単に覆させるなんてことを許す筈もないのだ。

 ――そんなノーチェと同じよう、終焉は死にたいのだという。暮らしに何か不自由があるわけでもなければ、何かの地位に縛り付けられているわけでもない。ノーチェから見て明らかに人生を謳歌しているように見える男は、何故かノーチェに殺されたがっているのだ。他でもない、奴隷である彼に。

「……死にたいと願う貴方が仮にこの命を宿していたら、ただの苦痛でしかないだろう。それと同じだよ」

 形のいい唇が相変わらず甘いケーキをひたすらに迎え入れた。時折ミルクティーを飲んで一息吐く様は、誰がどう見ても死にたいと思う存在には見えない。ノーチェは思わず「ごめん」と呟くと、終焉は「気にするものじゃない」とだけ呟いて、カップをソーサーに置いた。白魚のような指が持ち手を軽く撫でる。
 ノーチェは納得がいかなかった。理由も教えてもらえず、ノーチェに殺されたがっている終焉の現状に多少の羨ましささえ抱いているほどだ。奴隷であるわけでもなければ、何もできないわけでもない。生きていくことに困らなさそうな暮らしを送っている男が、何故奴隷なんかに殺されたがっているのかが理解できなかった。
 その上仮にノーチェが殺せる側の人間だとしても、一番の問題点はその命が宿っていることだろう。

「……でも、アンタ……死ねないだろ……なのに、どうやって殺すんだよ……」

 ノーチェは一番の疑問を終焉にぶつけた。何せ男は死んでも生き返るという奇妙な命の持ち主だ。仮にノーチェがその体に傷をつけたとしても意味は成されないだろう。殺す以前に傷すらつけられなければ話にはならない。

 そんな疑問に終焉は一度考えるような素振りを見せると、徐に席を立った。「見せた方が早いだろう」とノーチェを置いて向かったのはキッチンで、引き出しから小振りの果物ナイフを取り出して彼の元へ帰る。
 携えたのは刀身が銀色に輝き、歯溢れもない綺麗なナイフだ。思わず魅了してくるようなそれに、ノーチェは目を奪われていると――終焉が徐に指先を当てて一気に引いた。
 当然のように切れた指先から溢れるのはやはり赤ではなく黒い液体で、白魚のような指を伝い、黒に染め上げていく光景があまりにも痛々しかった。微かに香る鉄の匂いにノーチェは顔を歪ませると、「配慮が足りなくてすまんな」と終焉が小さく口を洩らす。

「――だが、見せた方が早いだろう?」

 そう言って終焉は指先を軽く舐めて血のようなものを拭うと、それをノーチェに見せびらかした。

「…………死ななくても、傷は治るのか……?」

 差し出されたそれにあった筈の傷はなく、ノーチェは小綺麗な指先を見せられているだけだった。しかし、終焉の手元にある果物ナイフが微かに刀身を汚している様を見れば、男が傷を負ったことを裏付ける証拠にもなっている。終焉は死んではいない。だが、跡形もなく無くなった傷痕に茫然としていると、「小さいものはな」と男は呟く。
 そうして終焉は徐にノーチェに近付いたかと思えば彼の手を取り、ナイフの柄を握らせるようにナイフごと手を握った。恐ろしいほどに冷えた素肌がノーチェの体を揺さぶる。思わず肩を揺らし驚いた彼を他所に、終焉は刀身に指先を押し当てる。
 ――握らされている筈なのに何故か自分が刃を向けて、終焉を傷付けるような光景が、理由もなく酷く恐ろしく思えた。

「やめ……っ」

 ノーチェの制止の声も虚しく、引かれて傷をつけた指先からは黒い血が溢れ落ちる。それを終焉はやけに美味しそうに口へ含んでいったが、それを気にする余裕もないノーチェは徐に胸元を押さえる。
 どくどくと音を立てて脈を打つ心臓が嫌だった。体に滲むのは奴隷の頃にも滅多に出なかった冷や汗がじわりと広がる。脳に酸素が回らない所為だろう――軽く目眩を覚えると、呼吸が苦しくて仕方なかった。
 訳も分からず混乱していると、終焉がノーチェを抱き寄せて頭を軽く撫でる。「大丈夫」なんて言って子供をあやすような仕草に「何が大丈夫なんだ」と訊きたくなったが、死ぬような傷ではなかったのに訊くのは可笑しいだろうと理性が語る。