ゆっくりと呼吸を繰り返し、思い出してしまうのは奴隷商人に捕まる直前の嫌な過去で、咄嗟に目を瞑って頭を振ると、ノーチェは「もう平気」と呟いた。離れた終焉は申し訳なさそうに目を伏せていて、「そうなるとは思っていなかったのだ」と何かを知っているかのように呟く。見せた方が早いと言って傷つけられた指先は――、一向に治る気配がなかった。
「……治ってない」
速まる鼓動を抑えつけながら眺める指先からは真新しい血が玉のように溢れている。少しでも動いてしまえば溢れ落ちてしまうのではないか、と思わせてくるほどだ。ノーチェはそれから目を離さずにいると、終焉が「私の場合は例外でな」と傷口を舐める。
「少し分かっただろうか。私は〝永遠の命〟を所持していながら、死ねる可能性のある生き物だ。瞬く間に治る筈の傷が貴方につけられたのでは塞がらないだろう」
黒い液体が舌の上をじんわりと染みていった。ノーチェは話を聞きながらそれをぼうっと眺めていると、誰もが私を殺せるのではない、とノーチェの目を見て終焉が語る。
「私が死ぬためには特定の人間に殺されなければならない」
「……それは……」
それが自分なのかと唇を開くと、終焉はどこか嬉しそうに、しかし悲しそうに微笑む。
「『世界で最も愛した人間に殺されること』――それが、ノーチェだよ」
終焉がノーチェに殺す役割を与えたことに初めて納得がいったような気がした。
終焉は死にたいのだ。理由はどうあれ、死にたいと思っているのに間違いはない。それを成し遂げられるのが自分ではなく、他の人間ではなく、ノーチェだったという話だ。〝永遠の命〟は融通が利くわけではない。ただ無限に繰り返す一度だけだった筈の命を与え、人間によってはただの苦痛でしかない時間が続くのだ。
それが自分だったらどうなのかと思い、ノーチェは嫌悪を隠せずにはいられなかった。万が一彼に〝永遠の命〟が宿っていれば、ノーチェは奴隷人生を約束されていただろう。傷を負っても死を避けられない怪我を負っても、奴隷商人達をどうにかしない限りは永遠に籠の中の鳥になるのだ。
その籠を壊せるのは終焉にとってノーチェだったというだけで、彼は目眩を覚えるのを必死に抑えながら「そう……」と小さく呟く。
「……さっき、便利なんて言って、ごめん……」
軽く俯き、ノーチェは終焉に謝罪の言葉を洩らす。男が怒りを露わにしないのは分かりきっていることだが、事情を知るとそうもいかない。仮にノーチェが言われる側になってしまったとき、当然のように死ねることに対して妬ましささえ覚えるだろう。
終焉は表には出さないが、不快になっていないとは言い切れないのだ。当然普通の人間であるノーチェが簡単に死ねる可能性があることに、妬ましさを覚えた筈だろう。
――しかし、終焉は「気にするな」とノーチェに呟くと、やはり頭を撫でるのだ。
「活用法は分かっている。これで貴方を死守できるのなら、本望だ」
「…………変……」
暗に命を擲ってでもノーチェを守り通すと言っているような発言に、彼は漸く呆れるように訝しげな目を向けた。終焉はノーチェの元を離れると再び椅子に腰掛けてほう、と息を吐く。傷ついた指はそのままに、軽く庇いながらケーキを頬張る。
出会って長い時間が経ったわけではないのに命を懸けて守る意味があるのかと問いたかった。生まれながらの知り合いならば気にかける程度の意識はするだろう。両想いならば互いに何かを犠牲にする覚悟もできている筈だ。
だが、ノーチェにとって終焉は――本人は拒否しているが――主人であり、それ以上でもそれ以下でもない。男はノーチェを愛していると言うが、彼にはそんなものを終焉に抱いたこともない。
だからこそ、そこまでして自分を犠牲にする必要はないのではないかと思った。人間は自分の身が世界で一番可愛い生き物だ。他人のために自らを犠牲にするなど、お門違いにもほどがあるだろう。
「……アンタは、何で……」
「……ん?」
「……その……俺を、あ……愛してる……なんて言うんだ……? そこまで仲良しとかじゃ……ないと思う……」
思い切って訊いたそれはあまりにも気恥ずかしかった。
「愛している」など人生で一度言うか言わないか――それも飛びきりの想いを乗せて相手に向ける言葉だ。それを表情ひとつすら変えず、終焉はノーチェに何度か呟いてみせた。言われる側の気持ちなど考えてもいないような素振りで、だ。
対してノーチェは語尾が消え入りそうな声で恥ずかしそうに迷いながら呟いた。絶対に言う機会がないそれは、何の意味も持たずとも口にするのは羞恥心が掻き立てられるもののようだ。多少体が温まったかのような感覚に陥り、ノーチェは咄嗟に気を紛らせるよう、紅茶を一気に飲み干す。喉の奥を通り、食道を抜けて胃の中に収まる感覚を得ると、羞恥心ではなく熱さで汗をかいているように思えた。
ざあざあと降る雨の中に身を投じたいとこれほど強く思ったことはなかなかないだろう。ノーチェは唇を尖らせて「もう二度と言わない」と心中で誓いを立てている。その最中、彼の向かい側で終焉は一度唇を開いたかと思うと、すぐに閉じて、そうだな、と小さく言った。
「――――」
「……ん……?」
男が唇を開いたとき、タイミングが悪く雷が鳴った。地鳴りのようにゴロゴロと天を這う耳障りな音に、終焉の声は掻き消され聞き取ることができなかった。思わずノーチェが首を傾げると終焉は諦めたかのように溜め息を吐いてから、「一目惚れだよ」と言う。
「……? 初めて会ったときって……そんなもん、思えるもんだったっけ……」
「いいや、興味なさげに無視をされてしまった」
嫌味のように男が首を傾げたノーチェに素っ気なく言い放つ。当の本人はそんなもので惚れるようなものがあったのかと問いたくなったが、徐々に量を増していく雨に気が逸れてしまい、訊くことはできなかった。
徐に終焉が席を立ち、「ある程度は話せただろう」と空になった皿を手にノーチェを見やる。雨が止むような兆しは見られないのか、残念ながら部屋干しだな、と呟く様はほんの少し呆れるようなものだった。
未だ終焉はできることをいくつか終わらせようと思っているようで、手早く食器類をトレイに載せる様子は家政婦にも思えるほど。その手がノーチェが使っていたティーカップへと届くのを見て、彼は咄嗟にそれを引き寄せる。半ば反射的な行動に終焉はおろかノーチェまで軽く驚いたが――茫然とする終焉の手から咄嗟にトレイを奪ったノーチェは「自分でできる」と呟く。
「……いや……」
何もしなくていい、と終焉が言葉を紡ごうとすると、ノーチェはそれを持ったまま立ち上がって徐にキッチンへと向かった。歩く度に終焉がノーチェの名前を呟くが、彼はそれに聞く耳も持たずに足を速めて行ってしまう。
――何もしないのはどうも許せなかった。元より彼は一日やれることは無理にでもやらせてもらう予定だったのだ。多少の予定外が屋敷を訪れ、安心しきっていた環境を嘲笑うように壊してみせたが、それも終焉が何とかしてしまった。驚きを覚えたことにすら驚いたが、結局ノーチェは何もできずに事が終わってしまったのだ。
生憎外に出ようとも悪天候に阻まれ、荷物持ちの役にも立たない。ノーチェはその食器類をシンクへと置くと、後から終焉がキッチンへと入ってノーチェの名を呼ぶ。男は終始彼に労働を強いているわけではないという旨を無表情で呟いているが、ノーチェはそれをぼうっと見つめながら徐に悪態を吐くように言った。
「……アンタって、俺を駄目にしたいの?」
それに終焉は一度目を見開くと、「違うんだ」と表情を曇らせる。
「ただ……そういうものをもう、与えたくないと……」
男にしては随分と口ごもった解答だった。恐らく終焉本人も未だにノーチェをどう扱えばいいのか分かっていないのだろう。与えるだけ与えていてはいずれ駄目になってしまうと分かっていながらも、何をするのが彼のためになるのかが分かっていない。
――まるで「自分は人間を理解できていない」と暗に言われているようだった。
勿論彼は理解したつもりだ。何故男がやたら常識を越えるような働きをするのか、完璧を体現しているような行動ばかりを取るのか。全ては〝永遠の命〟が宿っているからこそ、加減を知らないのだろう。
特に一度「死」を経験した場面を見てしまったのだ。恐らく終焉はノーチェの為なら簡単に命を犠牲にしてしまう人物だ。片手で数えられるほどしか見かけていないが、感情を軽く表に出すほどの場面に遭遇したノーチェには感覚的にそれが分かる。
理由などない。ただ「そう思ったから」そうなるのだと分かるのだ。
根拠のない勘は、胸騒ぎを覚えるほど確かなものになる。理由も分からずに終焉の死に思考を止めた感覚は、胸騒ぎが的中したときの絶望感とよく似ていた。それがまた訪れるときがあると思ってしまうのは、男が自らを「化け物」と揶揄したからだろう。
「……こんなんでも、やれる範囲はやれる……アンタがあくまで俺を『人間』として対等に思う以上、俺はやれることはやるつもり……」
ノーチェは軽く腕を捲り、蛇口から水を出す。雨の音とは比べ物にならないが、水が流れる音が微かに耳に届いた。「あ、でも洗い方あるんなら……」と躊躇する手にはスポンジが握られていて、終焉を見上げるその目は男にとって子犬も同然だろう。じぃっと見つめられるのはあまり心地がよくないのか、終焉はパッと目を逸らすと「特にない」と呟きを洩らす。
照れているのだと理解するのに時間は要らなかった。やはり言葉を伝えるのと視線を投げられるのでは、終焉が持つ羞恥心を掻き立てるものは異なるようだ。「変なやつだな」と彼は心中で呟いてみると、唐突に思い出したかのように「あ」と言う。
「……そういや、あの人達どうなったんだ……?」
何気なく終焉にそう問い掛けてみると、男は一度視線を宙に漂わせると――「秘密」と口許だけで笑っていた。