――ぺたり。絨毯が届かない床を素足で踏み締めるような小さな音が耳がいい男に届いた。
夕食の準備のためにベストを脱ぎ捨て、シャツの上からシンプルなエプロンを着た男は音がした方へ振り返ると、「迷子にはならなかっただろうか」と小さく問い掛ける。
目線の先には風呂上がりであろう青年が首元にタオルを掛けながら茫然と男を見つめていた。――いや、正確には広すぎるリビングのテーブルに用意された食事を、だろうか。
出来立てであろう野菜をふんだんに使ったスープは温かそうな湯気を立て、食欲をそそるような見た目をしていた。柔らかな良い香りが部屋に行き渡っていて、どう見ても無表情の男が作ったとは思えないほど、出来がいい。
「こちらへ」男がそう手招くと青年はゆっくりと足を進めて男の元へと近付く。そのときに髪に水が滴ったのを見たのだろう。男は何気なく立ち上がると彼に近付いて、首元に掛かっているタオルを手に取るや否や、彼の頭を洗ったときと同様に丁寧に拭き始めた。
「う」
「全く……ちゃんと拭かなければ風邪を引いてしまう。人間は脆いものだろう。特に、今の貴方では尚更だ」
突然の出来事に彼は条件反射で肩を竦めたが、自分に害を加えるものではないと知るや否や、肩の荷を下ろしつつほう、と息を吐く。
風呂になんて入ったのは何時振りだろうか――湯船の温度は彼にとって少し熱いほどであったが、体を十分に温めるには最適なものであった。自分の置かれた状況をほんの少し忘れるよう、浸かることに没頭していた彼であったが、やがて目眩を覚え、咄嗟に風呂から出たのだ。
脱衣室には丁寧に折り畳まれた見慣れない服と、柔らかな肌触りの仄かに良い香りのするタオルが置いてあった。タオルを手に取ると傷付いた肌を包み込むような温もりさえもあるような気がした。
見慣れない服の一式は恐らく男のものだろう。元の服は薄汚れていて酷く襤褸かった。折角体を洗ったのだ、用意されている服でも借りるべきなのだろう。
そう試しに着てみた服はしっかりとしたものであるものの、やはり身長の差が大きく現れている。春先とはいえ、肌寒さを感じる夜だ。気遣うように用意された長袖のシャツは袖が長く、手のひらの半分程度が隠れてしまうほど。ほんの少し厚手の生地のスラックスは裾が床についてしまって、歩きながらでも床の一部が掃除されてしまうほどだ。
「…………あの……これ」
頭を拭かれるのは幼少期以来だろうか――心地のよい眠気さえも覚えていると、彼は自分の着ている服が男のものであると思い出し、礼を言おうかと顔を上げる。
目線の先には端正な顔立ちの、目も眩むような綺麗な目を持った一人の男――よく見れば睫毛は長く、唇は女のように柔らかそうで。「格好いい」と言うよりは「美人だ」と捉えるべきなのだろう。
明かりの点いた部屋で漸く分かる独特な髪色――一見黒一色かと思えば、所々不規則に赤黒いメッシュのようなものが混じっていた。生まれてこの方見たこともない髪色であった。
男は彼が服を微かに摘まみながらこちらを見上げていることに気付くや否や、「構わん」と呟いて徐に彼の手を引き、食事の前へと連れて歩く。近付くにつれて漂う香りは食欲をそそる筈なのだが、――彼はそれを茫然と見つめたまま空腹を訴えようとはしなかった。
「貴方の好みが分からないのでな。適当なもので軽いものを作ったのだ。その様子を見るに、ろくなものも口にしてこなかったのだろう?…………むやみやたらに固形物を口にしろとは言わんが、少しくらい食べて欲しい」
男は彼の体付きを見て現状を把握したと言うのだ。成人男性と同じような体だというのに、どこか痩せて頼りない見た目をしている。微かに頬は痩け、無気力な瞳はより一層弱っていることを裏付けているようにしか見えなかったのだ。
その様子は見るに堪えないと言うように男は首を軽く横に振った後、椅子を手前に引いて青年を半ば無理矢理座らせる。抵抗の遺志はないが、大人しく従うとも言い難い力加減で、座るときは恐る恐るといった様子で座った。
柔らかな素材は長時間座っていても痛まないよう、使用者の体を考えて素材を使っているようだった。今までに味わったことのない感覚に無意識ながらも感動を覚えていると、男が「食え」と催促をしてくる。
「………………これは……」
これは食べ物かと言いたげに彼は男の顔を見た。男は彼の行動に瞬きを二、三繰り返すと「野菜を使ったスープだが」と口を洩らす。
「…………野菜は嫌いだったか?」
「……そうじゃない…………」
「……固形物の方が望ましかったとか……」
「………………それは……尚更食べようとは…………」
そう呟いた後、彼は話す気がなくなったのか、口を噤んで両の手を膝の上に置いたままじっとその料理を見つめていた。
「適当」で「軽い」という言葉で済ませてしまうような出来の料理ではないことは確かだ。何せ、スープの中にある人参は何故か花形に整えられており、見た目も楽しめるようなものになっているからだ。
多少体を見ただけでろくなものを口にしてこなかったのが分かると言うほど、見窄らしい見た目をしているつもりはなかったが、いかんせん食欲という食欲が湧かない以上口にするつもりは一切ない。そもそも彼は「奴隷」として非道な扱いを受けたのだ。今更食欲など芽生える気がしなかった。
食事という概念さえ忘れつつあるらしい彼はそれに手をつけることもなく、ただ水面に映る自分の顔を凝視している。
酷く疲れたような顔付きをしていた。まともな睡眠すら摂れていない目元には薄らと隈が刻まれていて、乱雑に伸ばされた髪は似合うとも言い難いものだった。鎖や拘束が緩んだことによりいくら以前よりも活力が滲み出ているとはいえ、元の人格を取り戻せるほどの活力は全く感じられない。――食事を摂ろうなどという気力は一切湧かないのだ。
それを知ってか知らずか、はたまた別の問題か。男は用意していた金のスプーンを手に取り一匙口へと運ぶ。ほんのり赤みを帯びた唇が微かに開いて、スプーンを迎え入れると舌の上で転がすよう、数回ものを噛むように口を動かして味を確認する。彼はそれを目で追って、ぼんやりと見つめていた。
「…………良くないのか?」とまるで自分では料理の味が全く分からないと言いたげに首を傾げ、眉間にシワを寄せ始める。
味が良くないわけではない。漂う香りからしてそれはそれは美味しいものなのだろう。だが、彼は単純に食べようと思う気がないのだ。
――しかし、男が口許へ運んだという動作を凝視する様を見る限り、決して興味が湧いていないわけではないようだ。それは端から見れば、食べ物を「食べ物」と認識する前の子供が、親の行動を見て「食べ物だ」と初めて認識する光景にも見えるものだった。
――不意に彼と目が合った男は瞬きをひとつ。その近さは目と鼻の距離だと言っても過言ではないだろう。「――すまない」そう言って男はスプーンを置き去りにそそくさとその場を離れると、青年から見て向かいの席の椅子を引いて、小さな溜め息を吐きながらそこに座る。
飾り気のないエプロンを外しながら溜め息を吐く様はまるで主夫のようで、自分は何をしているのだと言いたげな溜め息は男の表情からすれば怒りにも捉えることができた。
多分きっとこれは良くない――彼は咄嗟に皿に残された金のスプーンを手に取ると、半透明な液体を――極少量であるが――掬い、口の中へと差し入れる。ころころと口の中を回る野菜の旨味がどこか溶け出しているような優しい味をしていた。
男は無愛想であるが、特別無口というわけではなさそうだ。見た目とは裏腹にやたらと可愛らしいものが見え隠れしているのだから、根は違うのだろう。スープの味は優しく、濃すぎず、彼は何かが満たされるような心持ちでほぅ、と吐息を吐く。
――しかし、彼はその一口を口にしてからろくに食べようとはしなかった。確かに美味いと感じるのだが、妙な抵抗感が食事の邪魔をしてくるのだ。
向かいに座る男はそれに気が付いていながらも咎めることはなく、「話をしよう」と椅子の背凭れに寄り掛かる。
「…………」
「……食事をしながらする話ではないのだが――、何も話さないのでは『貴方に手を出さない』という信頼を得られんからな……」
男の椅子に座る様子は青年から見ても一風変わった雰囲気をまとっていた。テーブルの死角で足元は見えないが、「足を組んでいる」と思わせてくるように腕を組んでいる。黒い手袋を外した素手は白く、爪は黒一色に彩られていて、まるで格の違いをまざまざと見せ付けられているようであった。
例えるならゲームにでも出てくるような魔王や、ボスのような風格が目の前にはあって、青年は思わず肩に力を込めてしまう。
「そう固くならなくて良い」不意に男がそう呟く様を見れば、他人から見てもあからさまに緊張を抱えたのが目に見えたのだろう。「……はい」なんてぎこちなく、恭しく彼が呟いてみれば不思議と男は悲しげに目を伏せたような気がして――しかし、それも一瞬だと言いたげにふ、と目線を戻す。
一口以来まるで手をつけようとしない食事。恐らくろくな「食事」にありつけなかった所為で拒食症の一歩手前にまで来ているのだろう。柔らかく煮込んだ筈の野菜がころころと無惨に転がっているだけで、湯気は少しずつ薄まっているような気がした。
――無理を強いることのない男は、青年が手をつけないことに微かな寂しさを胸に募らせながら、「自己紹介でもしようか」と呟く。
「……とは言え、貴方は日中私の名前を聞いたとは思うが」
男は腕を組んだまま呆れるように目を閉じて溜め息がちに言葉を洩らす。名前――それに彼は思う節があって、けれどそれが「名前」として扱えるのかどうか判断できないまま、男が口を開く。「念のため、そして知ってもらうために名乗ろうか」と。
そう再び目を開いて青年を色の違う両の目で見据える。
「……私の名は〝終焉の者〟」
「…………終焉の者……」
終焉の者――そう呟いた男の言葉を真似るよう、青年は言葉を繰り返し呟いた。それは、昼下がりに耳にした異名そのもののように思える。復唱すれば男は「そうだ」と言葉を返して、再び話を続けるために唇を開いた。
「〝終焉の者〟――もとい、〝終焉〟だ。それ以上でもそれ以下でもない」
エプロン姿の男――もとい、終焉は自らを淡々と語り続けた。随分と青年に分かりやすく、青年がゆっくりと咀嚼して状況を呑み込めよう静かに。
――街の名前はルフラン。活気と笑顔に満ち溢れた閉鎖的な街だ。外は沢山の木々に囲まれており、むやみやたらに外に出てしまっては命の保証はできないとされている。
ルフランがやたらと閉鎖的であるのは、この街に着く前に街を囲む森で迷うからだと推測される。稀に余所者が無事に街に辿り着けることがあるが、大抵が青年を連れてきた〝商人〟と同じような輩だ。閉鎖的であるルフランに新たな文化を与えるように、誰もが飽きることもなく訪れてくるのだ。
――そして、街に夜が現れると決まって別の顔を見せ始める。それは、人は疎らになり、街の明かりがポツポツと灯る頃に見えてくるものだ。
それこそが、日中に出会してしまった売買――奴隷を売る〝商人〟と、奴隷を買う人間が集まる集会にも似た人身売買が始まる。どこからか連れてきたのか分からない傷だらけの「売り者」と、好機な眼差しでそれを見つめながら嬉々として買い求めていく「客」――。そして「売り者」を宣伝し続ける「売り手」からなる商売だ。
終焉はそれを何度も何度も見ては期待外れだと言わんばかりに静かに立ち去って、街から離れた広い屋敷に帰っては眠るという生活を送っていた。自分が何であるか、何故〝教会〟と呼ばれる人間達に攻撃的な態度を取られるのか頭の中で整理を繰り返しながら。
〝終焉の者〟――そう呼ばれたのは何時からだったかまるで記憶にない。頭の中に刷り込まれたように、初めから名前として存在していたかのように他人ではなく自分でさえも己を「終焉の者」と名乗り始めたのだ。
それが「名前」として成立していないのは知っている。しかし、本来の名前がこれっぽっちも思い出せないのだから、自分を終焉と呼ぶしか他ない。
そして、何時しかそれは別の意味を孕むようになったのだ。
「『世界を終焉に導く者』――何時からかそう呼ばれ始めたと同時、〝教会〟の奴らが姿を現したのだ」
「もしかしたら初めから存在していたのかもしれないが」終焉は確かにそう呟くと、青年の目の前にあるスープの入った皿に手を伸ばし、徐に自分の元へと引き寄せる。既に冷めきってしまったであろう野菜の旨味が滲み出たコンソメスープだ。皿の縁に凭れ掛かる金のスプーンを手に取って何気なく口にする様は、絵になるような丁寧さを醸し出していた。
眉目秀麗とは目の前の男のことを指すのだろうだろう――。
指先や動作ひとつ取っても完璧を体現したかのような振る舞いに彼は目を奪われると同時、不思議と終焉が口にしているものが美味そうに見え始めてしまう。
先程口にしたものと同じ筈なのに、目の前にあったときとは全く違う見た目を――味をしているように思え、再び抵抗感が消えたと思えば、食欲のようなものが顔を出してくる。口の中へ運ばれる料理――もう一度味わいたいという妙な意欲が湧いてくる――。
ふ、と終焉の目が彼を捉えた。獣のように鋭く、体を射抜くような感覚に陥ってしまうような視線。青年は思わず体を強張らせると、終焉は「……欲しいのか?」と不思議そうに首を傾げながらスプーンで皿を軽く鳴らす。カン、と小さく打ち鳴らされたその音はやけに耳障りで、「いや……」と咄嗟に否定するが――終焉は体を起こして向かいの青年にスープを掬ったスプーンを差し出してみる。
単なる好奇心だった。自分が口にする度にやたらと物欲しそうにする青年が気になったのだ。
それは端から見れば、やはり親の食べるものを見て食事を学習する子供のようで――一言で語れば、そう――面白かったのだ。無気力の筈の瞳がほんの少し輝いたように見えて、興味を持たれたことが面白かった。
終焉の行動は青年にとって予想外の出来事であった所為か、一瞬だけ体をびくつかせると差し出されたものを凝視して、やがてゆっくりと口を開いてスープを口にする。
先程口にしたものとは違って温もりなど微塵も感じられなかったが、味は相変わらずで旨味が身に染みる。一言で言うなら「美味い」という言葉が似合った。固形物は体が拒絶してしまうと思ってか、終焉の差し出すそれには野菜が乗ることはなかったのが幸いだったと言えるだろう。
ある筈のない固形物を噛み締めるようにもごもごと口を動かしている様は味わっているように見えて、作った側である終焉にとってこれ以上のない喜びだっただろう。相変わらずの無表情であるが、ほんの少し口許が笑ったような気がした。
「……さて、話を戻そうか」
やたらと上機嫌になった――ように見える――終焉は皿とスプーンを置き去りに再度椅子の背凭れに体を預けると、身を守るように静かに腕を組み始める。まるで彼を警戒しているような仕草に微かな疑問さえ抱いたような気がしたが、青年は先刻の「世界を終焉に導く者」という言葉が気になって、あの、と口を溢す。
「……世界を……って」
「…………やはり気になるものなのか?……まあ…………これが理由で周りに嫌な目を向けられることが殆どだからな……」
何気なく瞬きを繰り返した終焉は口元に手を添えて、「貴方は世界に終わりが来ると思うか?」と問う。
世界の終わり――唐突に紡がれた言葉に彼は理解に苦しむよう、微かに眉間にシワを寄せる。
世界の終わり。あまりにも規模が大きすぎて想像しようにも全く想像ができないもの。一口にそう言われても非現実的すぎて「馬鹿にしているのか」とこちらから問い質したくなってしまうものだ。
――しかし、終焉の表情は至って真面目で、世界の終わりは必ずやって来ると言わんばかりの目を向けていた。――いや、「この世界は終わるぞ」と呟いた。
「信じられないのも無理はない。だが、有り得る話だと思わないか。魔法があれば、人智を超越するかのような力を持った存在も現れることもある。――実際、貴方もそうだろう」
貴方は常人とは違うだろう――男は彼の目を見て確かに言った。常人であれば「白目」と呼ばれる目の部分は名前の通り白で彩られているのだが、彼はまた違う。常人とは異なり真反対の色――つまり黒に彩られているのだ。おまけに瞳の色は紫と金が同じ場所に存在している。
見た目で分かってしまうほど、彼は稀に見る人間であるのだ。
実際に自分以外の人間を見たとき確かに思っていた。人間とはここまで差ができてしまう生き物なのかと。
「故郷では当たり前だった」――確かにそう呟けば、当然だろうな、と男は呆れるように呟く。故郷では同じような人物しか居ない――当たり前のことであったが、今となっては同族がやたらと恋しくなってしまう――。
微かに伏せられた目を見て、終焉は「話を続けるが」と徐に口を開く。相変わらず手もつけられず、催促もされない透き通るスープを見て、食事への意欲があるのかも分からないまま「この世界は終わる」と再び呟く。
「――私が終わらせる。街も、国も、海も光も、全て腹の中に収めるのだ。ああ……世界は美味いぞ、ノーチェ」
彼の背筋に何か恐ろしいものが這ったような気がした。彼は半ば反射的にテーブルを叩き付け、椅子を倒して立ち上がる。向かい側に座る男は無表情だと言うのに、恐ろしい笑みを浮かべたような気がして、異様な寒気を覚える。――と同時に、確かに聞いてしまったのだ、名前を。
ノーチェ――終焉の口から紡がれたその名前は確かに青年のものだった。夜を瞳と名前に持つ男。目元に三つほど並んだ逆三角形の模様と反転目が何よりも特徴的な、奴隷として売りに出された男。
〝商人〟でさえも彼の名前は知らなかったというのに、目の前の終焉の者と呼ばれる男は何故だか前から知っていたかのように平然と口に出していた。
「…………名前……何で…………」
咄嗟に出た言葉がそれだった。自分は一度も名乗った記憶はない。況してや、男とも過去に出会ったこともない。
――しかし、終焉は驚きもせず反省するような顔も見せず、ただ「やはりな」と呟いて青年――もとい、ノーチェと目を合わせる。
男は言った、「私は知っている」と。「私は〝私〟である前から貴方を知っている」と――。その表情は先程の無表情なものと比べるとどこか寂しげな色を湛えていたが、ノーチェにはそんなものを気に留められるほどの余裕はなくなった。
――元より余裕など初めからなかったのだが、不気味とは言い難い、不信感のようなものを胸の内に抱えてしまう。
こいつは一体何が目的なのだと、警戒音が頭の中に煩く響き渡った。こちらは男のことなどこれっぽっちも知らないと言うのに、男はこちらのことを十分理解したような口振りをしているのだ。
――いや、思い返せば態度や振る舞いからも滲み出ていたのだろう。
「野菜は嫌いだったか?」と部屋に招き入れられたときの発言はまさにそうだった。特に何かが好きと言ったわけではないが、何かが嫌いだと言った覚えもない。それなのに終焉は「野菜は嫌いだったか」と訊いた。「何か他の好みは把握しているが、野菜の好みは把握していない」と言いたげな口振りで訊いてきたのだ。
一番に気になるのは初めて出会ったときのことだろうか――。
全くもって興味のなかったノーチェではあるが、目を合わせたときの終焉の顔を何気なく覚えている。まるで見たくもないものを見てしまったかのような――、どうしてここに居るのか問い質したくなったかのような目をしていたのだ。
極め付きは抱き寄せられたときの発言だ。「貴方を許せる」――と確かに言っていたのだ。
男は何かを知っている。しかし、こちらは男の全てを知りはしない。その事実が妙な気味悪さを胸の内に募らせていて、思わず「気持ち悪い」と小さく呟いた。――本人の前で呟いてしまったのだ。
「…………気持ち悪い、か」
「あっ……!」
小さな呟きの筈だった。だが、男の耳はそれを拾ってしまったようで、復唱された側のノーチェは心臓を掴まれてしまったかのような寒気を覚えてしまう。
息が苦しい、心なしか部屋の中が寒くなったような気がする。やはり春と言えど夜になれば急激に気温が下がることもある。
――そんなものが原因ではないと頭の隅で理解しつつも、謝罪の言葉が出ないでいた。
構わないよ、それで良い。――不思議と終焉の口から紡がれた言葉は優しく、見た目にはそぐわない柔らかさがあった。今までノーチェが出会ったときとは違って、手に取るような親切さが滲む男は、気持ち悪いと呟いた彼を許すと言うのだ。
それに罪悪感さえ覚えたが、「寧ろそれぐらいが心地いい」と妙な感想を述べてくる。やはり、自分のことを知っていると言わんばかりの口振りでだ。
思わず気になってしまった。「興味が湧いた」というよりは腹の中を探るような面持ちだった。
「…………アンタ、一体何が目的なんだ…………」
胸の奥の蟠りがこの問いに対する回答で少しでも取れてくれれば、と思ったのだ。
心中を焦りや不安が徐々に占めていくノーチェを他所に終焉は余裕綽々と言いたげな様子だった。
――しかし、終焉の答えは問い掛けよりも更に複雑で、より一層理解に苦しむものであったのだ。