「片隅で悪いがこの部屋で十分か?」
時刻は夜中の十二時を優に超えた後だった。風呂に入ってから話を終えるまでの間が妙に長く感じられるほどだ。
「この辺で話は止めようか」と席を立った終焉に連れて招かれた部屋は、必要最低限の物しか置いていない一室。月明かりに照らされて心地好い仄暗さを保ついやに綺麗な部屋だった。寝具に机、本棚に椅子、カーテンまでも完備されていて、非の打ち所がないと言えるような部屋だ。
「長い間使っていないからな。掃除はしているが、窮屈になったら教えてくれ」と終焉は言った。
試しにノーチェは部屋に足を踏み入れるが、埃臭さなどこれっぽっちも感じられやしない。寧ろ新品同様の違和感さえ覚えてしまう。
これのどこが窮屈だと言えるのか考えながら、ノーチェは脳裏に浮かんだ疑問を払うべく、終焉に問う。「俺が部屋をもらって良いのか」――と。
本来彼は奴隷という対場であった。――いや、今の今まで奴隷という立場だったのだ。ろくな部屋を与えられなければ食事もまともではない。人間の態度が差別的なものであれば、奴隷であることを裏付けるように非道な扱いを受けることもあった。
――「そういう目」で見てくるような物好きも中には居たものだ。
いつ死んでも可笑しくない状況下にあった。それでも未だ生き延びていられるのは、無駄に体の作りがいいからだろう。
――いつしかノーチェは死への欲求が高まった。このままで居るよりいっそ死んだ方が楽だろう、なんて。意欲を奪う特殊な首輪がついている以上、自分から死ぬなんてできやしないのだが――。
ノーチェの問い掛けに対し、布団を整える終焉は一度手を止めたと思うと、彼に向き直り「勘違いするな」と溜め息がちに呟きを洩らす。
「私は貴方を『奴隷として買った』のではなく、『人間として攫った』のだ。そこら辺の人間と一緒にしないで頂きたい、と言った筈だが?」
終焉の表情は相変わらず一切変わらないままの無表情だった。しかし、言葉の端に滲む怒りのような感情に思わずノーチェは「……すみません」なんて謝れば、終焉は自分の行いを反省するかのように頭を掻いて、「いや」と言う。
私もやけになって悪かった、と。
いやに気まずい空気が部屋中に蔓延る中、どう反応して良いか分からずにノーチェは立ち竦んでいると、終焉が手招いて彼を呼び寄せる。裸足のままのノーチェは呼ばれるがままに恐る恐るといった様子で終焉に近寄ると、不意に頭を撫でられる。
「…………?」
あまりの突然の行動に彼は微かに目を丸くした。何せ、手付きが子供を愛でる父親のようだったからだ。
見た目の威圧感など感じさせない割れ物を扱うような手は優しく、そして――あまりにも冷たかった。物語に出てくる雪女宛らの冷たさを湛えていて、驚きのあまり反応を忘れてしまうほど。
――ただ、一番驚ける要点とすれば終焉の表情が微かに和らいだことだろう。口の端が一瞬だけ上がって笑ったように見えるのだ。
何故撫でられたのか理由は定かではない。――ここだけの話、殴られるのではないかと体を強張らせていたノーチェは拍子抜けするようにポカンと終焉を眺めていると、終焉は「寝てくれ」と寝具の端をぽん、と叩く。
「カビ臭かったら言ってくれ、明日対処しよう。今日はもう疲れたろう」
笑っていたと思えば、途端に感情を失ったかのように無表情になる終焉に、ノーチェは手を引かれて寝具の上へと転がる。白いシーツに柔らかく使い心地のいい枕――程好い心地好さに包まれていると、布団が被せられる。
「また明日」そんな言葉を置き去りに惜し気もなく終焉はノーチェに背を向けると、気遣うように扉を静かに開けて、音を立てないよう、ゆっくりと閉じた。
月明かりが窓から仄かに差し込んでくる。不思議とそれは嫌いではない。外の野生の住人は殆どが寝てしまったのか、梟の鳴き声が微かに聞こえてくる。雑音さえ聞こえないのは街から離れた所にある屋敷だからだろう。
――それでも独りで住むにはあまりにも寂しすぎる場所だと思った。
「…………ベッド……」
ベッドなんて何時振りだろう。そう言いたげにノーチェは布団を目深に被ると、ゆっくりと呼吸をする。カビ臭さなど微塵も感じやしない。寧ろ、干されたての布団の温かさがそこにはあるのだ。
一体何を根拠に終焉は控えめに言っているのだろう――なんて考えてみたが、ノーチェは微かに瞬きをして、「関係ないか」と独り言を洩らす。
先程のリビングでの会話が頭の隅で反響するように木霊して眠りを妨げているようだった。二、三瞬きを繰り返して終焉が告げた目的を何気なく思い返す。
「一体何が目的なんだ」――そう告げたノーチェの問いに、終焉は余裕そうに呟いたのだ。
『――私の目的は貴方に殺されること』
――確かな口振りで終焉はノーチェの目を見て呟いた。一点の曇りもない真っ直ぐとした色違いの瞳だ。よく見れば薄暗さが窺える透き通る金と血のように赤い色に染められている。どこか見たくもないものを見てしまった、そう言いたげな瞳をしているのだ。
何を言っているのだとノーチェは訊いた。正気であるのかと。――しかし、男は至って真面目に「正気だ」と言う。「正気を保ったまま貴方に殺されたいのだ」と言う。それを裏付けるように口振りも態度も先程と何ら変わらない。ただ違いがあるとすればノーチェが微かに戸惑いを覚えたことだろう。
咄嗟に彼は「人が殺せてたらこんな目に遭ってない」と言った。人が殺せていたら奴隷なんてものにならず、また違った別の人生を歩んでいた筈だと。
――それを肯定するように終焉はそうだろうな、なんて呟いてノーチェが奴隷になった経緯を言及しようとはしなかった。まるで、何故そうなってしまったのかを知っているような様子だったのだ。
それでも終焉は呟く、「貴方は私を殺す」と。
「……何で…………何で俺なんだよ……もっと、別の奴とか……」
暗に「俺にアンタは殺せない」とノーチェが口を洩らすが、終焉が食い気味に――且つ断言する。
「他の人間では私は殺せない。貴方だからこそ、私を殺すことができるのだ」
テーブルに残された半透明のスープが微かに波を打った。誰かが揺れた形跡はない。ただ、風が吹いたかのように微かに揺れたのだ。
終焉の断言に反論を失いつつあるノーチェは、朧になりつつある頭で思考を巡らせる。奴隷として扱われ続けたノーチェはそれなりの理由があって死にたいと願った。
死んでしまえば奴隷として生きることも、況してや蔑まれ暴力を振るわれることもないのだ。死んだ先に天国なんてものがあるとは思えないが、きっと今よりはマシなのだと思う。
――しかし、彼は終焉が殺されたがっている。現状、ノーチェから見れば男は遥かにいい暮らしをしていて、文句のつけようのない人生を送っているようなものだ。
人間、生きている以上何があるのか、過去に何があったのかは分からないが、死に値するような者ではないと思った。自由を手にしておいて尚死にたいと願う終焉の思考が理解できなかった。
そして気になったのは終焉の言った「貴方だからこそ」という言葉。奴隷として生きてしまっているノーチェだからこそ、自分を殺せると言うのだ。
――ノーチェが何度「殺せない」と言っても男はそれを頑なに否定し続ける。「貴方は私を殺す。それ以外は認めない」――なんて、子供のような主張をして。
「………………何で……俺だけ……」
まともな話すらできやしないと判断したのか、ノーチェは先程と同じ問い掛けを繰り返す。
仮に殺すとしても、何故他の人間が終焉を殺せないのか。自分の否定を否定する明確な理由が欲しかったのだ。それなら少しは納得できる筈だから――。
「貴方を愛しているから」
無表情を貫く男が紡いだ言葉。愛している、と聞く者が居ればくさい芝居か何かかと思ってしまうほどだろう。
だが、終焉はやはり真面目そうに――いや、先程よりも遥かに真面目だと言わんばかりにノーチェを見つめている。
納得できると思った理由はあまり納得のいくものではなく、拍子抜けしたように「え、」と呟きを洩らす。その口振りはやはり彼のことを以前から知っていると言いたげだ。もしかしたら自分は以前に会っていたのかも知れない。
――そう思いたかったが、ノーチェの記憶には男のような黒い長髪に赤と金のオッドアイを持った人物など心当たりがない。
男の肌は女のように白く、露わになっている爪は髪のように黒く、よく見れば所々赤いメッシュが混じる黒い髪は一本一本が繊細な流れを作っている。始めに言った通り、「格好いい」と言うよりは「美人」という言葉が似合いそうな人物だ。
そんな男を見れば嫌でも忘れられそうにないのに記憶にないということは――恐らく、一度も出会ったことがないのだろう。
しかし、終焉の呟いた「愛しているから」の一言が嘘であると俄には信じ難い。
愛しているから男はわざわざ白昼堂々彼を攫ったのだろうか。愛していなければ手を出すこともなかったのだろうか――。
「――ノーチェ」
「……!」
ノーチェは無意識に握り締めていた拳をパッと開きながら肩を震わせた。気が付かない間に考えに耽っていたようで、いつの間にか止まっていた呼吸をゆっくりと繰り返す。
思考を巡らすことに陥っていた、というが、彼の感情の無さも男のものと同じようで。一口に「驚いた」と言われても誰も気付かないだろう。
彼はゆっくりと口を開いて「何」と言った。決して無愛想に振る舞っているわけではないが、感情が言葉にこもらないのだ。何時しか終焉は彼の愛想の無さに嫌気が差して嫌悪を抱くかもしれない。
「もう夜も遅い。話をしすぎたな、部屋に案内しよう」
――そう言って案内された部屋がノーチェが今使っているものだった。終焉曰く「一度も使っていない部屋」らしいのだが、今日という今日を想定していたように揃った家具も、しっかりと手入れが行き届いている寝具も、使っていない部屋にしてはあまりにも綺麗すぎた。まるで終焉自らひとつひとつ丁寧に物を扱っているように。
未だ太陽のような心地に身を委ねていると、何時しか忘れかけていた眠気が波のように押し寄せてくる。夜の静寂の中に響く梟の鳴き声が子守唄のように聴こえ、ゆっくりと落ちてくる瞼に抵抗を見せることなく、目を閉じる。
今日まで色々な事がありすぎた。眠れるなら眠れるだけ眠ろう――。
――遠退く意識の中、不意に耳が何かが割れるような音を聞いた気がした。