胸に潜むざわめきは

 ――近頃のノーチェは特に終焉の行動が気になるようになった。特に月が昇る夜が更けた時間は、男の動きが何よりも気になる。本人は特に気を遣ってノーチェを起こさないようにと心掛けているのか、足音もしなければ気配が顕著に表れているわけでもない。
 しかし、彼は殺人鬼を親に持つ一人の人間だ。一時期は両親と同じような道を辿るように気配や、息遣いに気を配っていたときもある。いかんなく発揮されるそれは、夜な夜な終焉が屋敷から出ていくことも十分に気付かせてくれていた。

 ――一体何があるんだろう。

 普段なら特別気にもならないはずの男の行動が、その日はいやに気になるようになった。何を考えて料理に臨んでいるのか、何を考えて掃除をしているのか。何を思って空を眺めて嫌そうに顔をしかめるのか。何を思って、夜遅くにノーチェを置いて屋敷から出ていくのか。

 彼はそれがやけに気になって、チリチリと首が痛む感覚に襲われ続ける。好奇心は行動力を高めるもの。それが、首輪に施された制約に触れているようで、意欲を損なわせようと定期的に痛みを与えてくる。

 ――謂わば躾と同じ現象だ。何らかの理由により、「良くない」ものと認識された場合は、言動を制限させ、かつ「してはいけないこと」を体に叩き込むために痛みを発生させてくる。無論、彼の首輪もそういった効果を発生させているはずなのだが――、どうにもノーチェの興味は尽きそうになかった。
 「好き」というものは不思議なものだ。今までなら痛みが発生した時点で惜し気もなくやめていたものを、今では諦めることもなく求め続けてしまう。一生こうして終焉に飼い慣らされるのも悪くはないと思いながら、男の隣に並んで歩きたいと思ってしまうことをやめられないのだ。

 ――この衝動は一体、何なのだろうか。

「…………少年。ちょっと」

 ――不意に声が掛けられたことに気が付き、ノーチェはふと瞬きをした。視線を終焉から移し、飽きもせず屋敷に訪れるリーリエへ。女は赤い瞳を瞬かせつつ、ほんのり気まずそうに笑いながら彼を見て「見すぎよ」と呟いた。

「…………何のこと」

 女の言葉にノーチェはとぼけたように答える。実際彼は何のことを示されているかも分からず、リーリエの言葉に思い当たる節がなかった。見すぎ、と言われて何を目線で追っていたのか、ほんのり頭を悩ませる。
 何か、指摘されるようなことをしていたのだろうか――そう思っていると、頭を小突く感覚がノーチェを襲った。コツン、と軽い音が鳴って、ふとそれに意識を向けると大皿を携えた終焉が興味深そうにノーチェを見つめていた。

「あまりいじめないでくれないか」
「あら、いじめてるつもりなんてないわよ」

 困ったように溜め息を吐き、終焉はテーブルに皿を乗せる。香ばしい香りにごくりと生唾を飲み込むと、リーリエが歓声を上げた。皿の上に置かれているのは、彩り豊かな出来立てのクッキーの数々だ、
 渦を巻くような線を描き、中心にはジャムがあしらわれたものや、ココアとプレーンのマーブル。風味を変えるために味も変え、色味も変わったものもいくつか用意されている。小腹が空いたノーチェにとってもそれは魅力的なものだった。

「……いじめられた」
「…………だそうだ」
「ま! 冗談が好きね~」 

 終焉は普段の椅子に座り、リーリエは我先にとクッキーに手を出す。仄かに温かく、ざらりとした触感に女は笑みを溢した。甘いものが好きだと言いたげな様子だ。

 それに――彼は多少なりとも不快感を覚えてしまった。

 普段と何ら変わりのない光景だ。家主よりも先に客人が差し出されたものに手を出し、美味しい美味しいと言って味を堪能する。用意された紅茶の香りもそこそこに、ぐっと温かなそれを飲んで満足げに笑うのだ。
 ――それも普段と同じ光景だというのに、どうにもこの日の彼はやけに他人の行動が気になってしまった。

 ――どうして。どうしてこの人が、一番になるんだろう。

 胸の奥に黒いもやがかかるかのように、蟠りが詰まる。どうしてどうしてと疑問に思う気持ちが抑えられなかった。じりじりと首を焼かれようが何だろうが、彼の中にある「欲」は留まることを知らない――。

「――ノーチェ」
「……っ!」

 ――ふと声を掛けられ、ノーチェは肩を震わせながら声のした方へと顔を向ける。騒音の中でも酷く通るような低い声だ。彼が気が付かないことなどなく、咄嗟に向けた先には男が不思議そうにノーチェの顔を見つめている。
 そうして、どうかしたのか、と問われるものだから、彼は瞬きを数回繰り返した。

「…………? どうもしてない……」

 呼び掛けた割には何の用事もないのだと、不思議そうに首を傾げながらノーチェは終焉に応える。一体何のために呼んだのかと疑問に思いながら出来立てであろうクッキーに手を伸ばし、口許へと運ぶ。さく、と軽やかな音を立てて口の中で綻ぶ食感は、相変わらずの完成度で舌鼓を打った。

 ――美味しい。本当に。

 ――そう、自然と思考が働くのも抑えられない。食べ物の良し悪しなど、奴隷になってからは気にすることもできなかったが、今となっては話は別だ。何が美味しくて何が美味しくないのか、舌が肥えたような自覚をしていながらも、彼はそれをちまちまと食べ進める。
 先程までの不快感などすっかり忘れてしまい、彼は紅茶を軽く飲んだ。ほうほうと沸き立つ湯気に気圧されながらも、喉を通る熱に苦い顔をする。
 ――そして漸く自分の隣へと視線を向けるのだ。

「…………どうしたの」

 視線の先には先程までの意気揚々とクッキーを頬張っていたはずのリーリエが、苦笑いを浮かべながら鎮座していた。妙に居心地の悪そうな顔付きに食欲など消えてしまったようで、紅茶やクッキーにも手をつけるような兆しを見せなかった。

 一体何があったのだろうかと、彼は終焉に聞かれたのと同じようにリーリエへと問い掛ける。あるかとは思わないが、終焉が作ったものが口に合わなかったのかと、ノーチェは数回クッキーを頬張る。
 しかし、味付けも味わいも、普段とは格別異なることもなく、相変わらず美味しいと舌鼓を打つほどだ。
 そんなものが目の前に広げられているというのに、何故リーリエは手をつけなくなってしまったのだろうか――。
 ――そう思っていると、リーリエがいやに不機嫌そうな顔をして「……あんたがそれ、言う?」と呟いた。

「…………いや、やっぱりいいわ……ね、私も食べていいかしら……」

 ほんのり不満そうに唇を開いていたが、落胆や諦めの念を交えてリーリエはノーチェに問い掛けた。まるで言うだけ無駄だと言いたげな様子に、ノーチェもほんのり不満を抱いたが、余計な感情に割く時間は無駄だと思うや否や、リーリエの問い掛けに頷きで応える。
 クッキーを作ったのは自分ではなく、終焉であるということを念頭に置いたまま、好きに食べたらいいと呟いた。

 この間食はノーチェだけの為に作られたものではないのだ。特にこういった甘いものは、終焉が「甘いものが好きだから」といった理由だけで用意されることが多い。その理由の中に、ノーチェがそっと加えられただけのこと。 場合によっては客人をもてなすための意味合いも兼ねているのだ。

 ――ノーチェの頷きに、リーリエは恐る恐る手を伸ばしてポリ、と小さく齧った。まるで萎縮した小動物か何かのような態度に、彼は首を傾げて「変なの、」と小さく呟きを洩らしたのだった。