胸に潜むざわめきは

 ――むに、とノーチェは自分の頬をつねって筋肉をほぐすように軽く回す。風呂上がりですっかり温まった彼の体は、冬の気候に負けることもなく眠気を湛えていた。――いや、実際は寒さに負けているからこそ、眠気に襲われているのではないかと思うほどだ。

 ――しかし、彼は寝具の上に腰を掛けていようが何だろうが、眠気に身を委ねるわけにはいかなかった。暗く心地のいい静寂が広がっているが、彼はただ一人で眠ることなどできやしない。自分のものではない部屋の主が姿を見せない以上、ノーチェには横になる資格もないのだ。
 そして、肝心の部屋の主はノーチェと入れ違いで風呂に向かった。普段からノーチェに先を譲り、自分はゆっくり入るからと言って、彼が出てくるや否や入れ違いになるのだ。

 ――そう、入れ違いで風呂に向かった、はずだった。

 ぼんやりと寝具の端に腰を掛け、ぼんやりと天井を仰ぐノーチェの耳に小さな音が届く。パタン、と極力音を立てないように閉められた扉のような音だ。生憎この屋敷にはノーチェ以外には終焉しかいない。その音は、男が風呂に向かわずにこっそりと外に出ていった音だった。

 そして、それをノーチェは知っていた。

 彼は寝具から足を下ろし、部屋の扉を開ける。しん、と静まり返った夜の屋敷は、まさに冬の中に佇み静寂で押し潰されそうなほど。あまりの静けさに一抹の不安さえも胸に抱えながら彼はエントランスへと向かう。
 案の定エントランスにあるはずの男の靴はない。用心を怠らないように掛けられた扉の鍵も、しっかりと閉められている。やはり男は夜な夜などこかへと赴き、知らない間に帰ってきているのだ。

 ――その事実を突き止めたいと思うのも、一種の衝動だろう。

 彼は素足のまま扉の鍵を開け、勢いのままに外へと飛び出す。体を温めるためのものをひとつも羽織っていない所為か、冷たい風が肌を撫でて思わず身震いをした。
 しかし、この程度で諦めるわけにはいかないのだ。

 じりじりと焼けるような痛みもおざなりに、ノーチェは歩を進める。今更素足で外を歩くなど気にも留めていない。終焉は物音や気配に敏感だからこそ、音を立てるものをひとつでも減らしたかったのだ。
 そろ、と歩いているとノーチェは不思議なことに気が付いた。宛もなくさ迷うつもりではあったが、何やら歩く先に終焉が歩いた跡のようなものが残されているのだ。それは、目に見えるものではなく感覚的に気付かされるもの――。
 今も記憶に新しい――。終焉が「死」を迎える度にまるで理性を失くしたように笑うあのときのように、何やら得体の知れないものが残されているのだ。
 これは、魔力か何かだろうか。点々と一定の距離を保ちながら並ぶそれに、ノーチェは跡を辿った。

 寒空の下、夜道を歩いて漸く背筋がゾッとするほどの寒さに危機感を覚えた頃、ノーチェは見慣れない景色に囲まれていた。薄暗い街灯、荒れた庭。まるで人の手入れがない状況に、本当に同じ街なのかを疑いながらある建物に足を踏み入れる。
 いやに仄暗い雰囲気のそれは、見た目こそは普通の一軒家であろうものの筈なのに、ひと度中に入れば荒れた家具が視界に映る。人は住んでいるが、ほんのり埃が舞うそれに、気付かれない程度の咳を溢してそろそろと歩を進めた。

 終焉の軌跡を辿った結果、いくつかの家が建ち並ぶ妙な場所に辿り着いた。同じ街であるはずなのに、雰囲気や景色が一変して今にも何かに襲われるのではないかと、不安に駆られるほどの暗さに彼は背後を振り返る。――もちろん何も見当たらず、彼は一人でほっと胸を撫で下ろした。
 真新しい軌跡の跡を辿れば、見知らぬ建物に入っていった形跡があった。それに倣うよう彼も足を踏み入れて、辺りを見渡しながら中を物色する。不気味なほどに静かな空間に、胸騒ぎさえも覚えて彼は眉間にシワを寄せた。
 人が暮らしている形跡があるのに、人の気配が少しも感じられない。ほんの少しの寝息や、寝返りを打つときでさえ、存在感を主張するはずなのだ。

 ――何かがおかしい。

「…………」

 胸に宿る焦燥感を抑えつつ、ノーチェはふと耳に届いた妙な声を頼りに歩を進める。まるで何かに怯えるような声が一瞬だけ、それも小さく聞こえたような気がしたのだ。軽く廊下を歩き、閉ざされた部屋の扉にひとつひとつ意識を向けて、彼はその声を探し当てようと試みる。
 そこに恐らくいるはずなのだ。彼が探している男は。こんなにも殺伐とした街の中で、姿を眩ませるなど、何かがあるに違いない。

 ――そう思いながらノーチェはそうっと歩いて、扉に手を添えていた。来た道が分からなくなるのを防ぐため、左手を壁やら扉やらに滑らせているのだ。
 特に迷路で使われるであろう技法に、ノーチェは今しがた気が付いたかのように自分の左手を見やる。無意識であったその向こう、扉の方から僅かに嗅ぎ慣れない、鉄の香りがした。
 ――人の気配や声はない。しかし、真新しく刻まれたかのような鮮血の香りが鼻をくすぐるのだ。

 ――そうっと彼は扉に手を突いてからゆっくりと扉を押し開ける。扉が軋まないよう細心の注意を払いながら、空いた隙間からこっそりと部屋の中を覗けば、暗い部屋の中で蠢く影が体を強く締め付けていた。
 ぐち、とほんのり小さな奇妙な音が鳴った。彼の瞳は暗闇の中にいるそれをじっと捉える。――そこにいたのは紛れもない終焉の者だった。

 ――終焉の者が、見ず知らずの人間の頭を鷲掴みにして酷くあくどい笑みを浮かべているのだ。

 まさに悪役の言葉が似合うであろう出で立ちに彼は目を奪われる。闇に溶けるような黒い服。足元で蠢く影が、見知らぬ人間の足元を少しずつ呑み込む度に、骨が折れるような鈍い音が鳴る。悲鳴すら上がらないのは、最早痛みで意識を失っているのか――、或いはもう、事切れているのだろう。手指のひとつも動かないが、反射的に小さく動いている様は確かに脊髄反射そのものだ。
 噎せ返るほどの真新しい血液の香りは、ノーチェの肺を蝕んだ。酷く淀んだ空気に思わず息を止めかけたが、そもそも初めから呼吸すらもままならなかったのだと気付くのに数秒を要した。

 ――体が動かなかった。まるで足元が床に縫い付けられたかのように、足の裏がぴったりと床について離れないのだ。扉を開けるのに添えた手すらも離れることはなく、彼の視線は男に釘付けのまま。少しずつ闇へと消えていく人間を見つめる度に、疑問に思っていたことが少しずつ鮮明になっていく。

 ――これは「食事」だ。終焉が取れる唯一のものだ。

 骨の軋む音。影が、闇が蠢く度に男が何かを嚥下するような仕草を見せる。あたかも口に含んだものを胃の方へと流し込むその動作に、彼は瞬きすらも忘れてしまった。
 ――以前から何度か目にしていた光景を、遂にまっすぐに見ることができたような気がした。足元から呑まれる人間は、最早上半身すらも闇の中へと呑まれ始めている。どういった理屈でそうなっているのかは分からないが――、影から覗くはずの足は少しも見えないことから、既に失われているのだと理解した。
 世の中には魔法などといった、ひと口で説明し難いものが多数存在しているのだ。彼は目の前の惨状を説明することはできないが、あの蠢く影のような闇が、男の胃に直結しているのだと分かったのだ。

 ――そうでなければ終焉が手放した頭が音もなく消える現象も、いやに満足げに一息吐く男の様子も、納得できない。小さく呟かれた「不味い」の言葉に確信さえも抱く。

 時折行われるあの現象は男の食事行為だった。
 ――その事実が彼にほんの少しの羨望を抱かせる。
 大したことではない。彼の中にぽつんと浮かんだひとつの考えは、終焉にしかなし得ないこと。すっかり用を済ませたかのようにすらりと背筋を伸ばし、どこかをぼうっと見つめている。

 ――そんな男に喰われて、一生を終えられることができたなら、なんて幸せ者だろう。

 ゆっくりと脈打つ鼓動がいやに大きく感じられる錯覚を覚えながら、ノーチェは視線を終焉から外す。気が付かれる前にこの家から抜け出して、屋敷に帰らなければならないからだ。
 いくら男が、見知らぬ人間で食事を済ませて腹を満たしていることに不満を覚えていようとも、素知らぬ振りをしていなければならないのだ。
 ぐるぐると胸の奥を掻き回してくる不満が、嫉妬だと知りもしないまま、彼はそっと扉を閉めようとした。
 閉じられる寸前の隙間から覗く青い瞳に気が付かないまま、ノーチェは小さく溜め息を洩らしかける――。

 ――ばたん、と不意に大きな音が鳴り響いて、ノーチェは肩を震わせた。

「――あ、え」

 気が付かれてしまうと咄嗟に顔を上げて、彼は手元の扉に添えている手を見やる。普段と変わらず、成人男性とは思えないほどの不健康な白い手が扉に添えられていた。
 先程と違う点は、陶器のように白い手が、ノーチェの手よりも上の位置に置かれていたからだ。

 薄暗い部屋の中だが、闇のように深い黒い爪が、誰のものなのかをしっかりと主張してくる。驚いた拍子に数秒その手を眺めてしまっていると、その手のひらがくっと彼の顔へと向き直って、勢いよく口許を押さえた。
 そうして漸く、自身の背に一際存在感を増した男が立っていることに気が付くのだ。

「――ぅ、」

 力加減はいくらかされているはずだ。そうでなければ呻く声を上げることも、身動ぎをすることも許されていない。冬の寒さに負けず劣らずの冷たい手は発言を許さないまま、彼の背にいる男は小さく呟いた。

「――何故ここにいる」

 恐ろしいほど低く冷たい声がノーチェに降り注ぐ。男と出会い、今の今まで一度も向けられたことのない冷めきった声だ。まるで彼を人とも思っていないかのような感情の無さに、ノーチェはぐっと息を呑む。

 怒らせたのだろうかと彼は頭を働かせた。後をついてきたことや、非道な様子を見たことよりも遥かに、終焉の機嫌を損ねてしまったことに対しての焦りが募る。このまま見限られてしまったらどうしようかと、背筋が凍る感覚に陥ってしまった。
 不思議と終焉自身から血生臭さは少しも感じられない。あたかも自分は家の中を散策していただけと言わんばかりの様子に、その異常性を目の当たりにする。
 この人と自分は全く別の生き物であるという主張が、目の前で広がっているようだった。

「こそこそと後をついてくるネズミがいると思えば…………そうか、見たのか」

 つ、とノーチェの口許を押さえていた終焉の指先が、彼の頬を撫でるように下がっていく。輪郭をなぞり楽しむような素振りに彼は小さく息を呑んだ。何を吟味しているのか、言葉の続きを待ちながら彼は動かない体に意識を向ける。
 今この場で喰われたとしても何の文句もない。男の一部になれるならそれもいいと思うほど、気持ちは落ち着いている。不思議と動かない体の末端に集中してみれば、奇妙な拘束によって動きが制限されているのだと気付かされる。恐らくそれは、男の意志に従う黒い影に過ぎない。

 そこまでして逃がしたくないのか。それとも、逃げると思われているのか。

 何にせよノーチェは終焉の言葉を待っていたのだ。
 ――そしてそれは、唐突に訪れる。

「――……私が、恐ろしいか」

 不意に溢れ落ちた男の声に、ノーチェは目を丸くした。先程の冷たい声色など見る影もなく、普段と何ら変わりのない冷静な声が降り注いできたのだ。よくよく聞けばそれには多少なりとも寂しさのようなものが隠れている気がして、彼は僅かに唇をへの字に曲げる。恐ろしいものを目の当たりにすれば、当たり前ように逃げてしまうのだと思われているのだ。

 ――心外だ。終焉が人ならざるものであることは重々承知している。恐れを抱いたとするのなら、蘇生した際に何らかの言い訳を取り繕って男の元を離れていただろう。もしくは街やどこかで誰かの反感を買い、奴隷へと戻っていたはずだ。

 それをしなかったのはあくまでノーチェは奴隷に戻るのが嫌であり、終焉の元にいるのが居心地がいいと思っているからだ。

 ノーチェが一人不機嫌になっている間、終焉は何を思ったのか、頬を滑らせていた手をそっと離した。まるで逃げてもいいと言わんばかりの仕草にノーチェは瞬きをする。気が付けば足元にまとわりついていた影でさえも鳴りを潜め、背筋を走っていた悪寒は消えてしまった。
 男は何も言わないが、ノーチェもまた何も言うことはない。信用されていないことに不満を抱いて言葉を失っているのだ。どれほど長く付き合っていようとも、簡単に崩れる関係だと思われていることが、酷く不愉快だった。

 ――それでも彼は離れた終焉の手を取って、きゅっと握り締める。
 男の手指が小さく動いたような気がした。

「……早く帰ろ……アンタがいなきゃ、寝れないから」

 自分は恐ろしいと思っていない。加えて、男の傍を離れるつもりもない。
 ――そんな気持ちを込めながらふて腐れた子供のように呟けば、一呼吸置いてから終焉が消え入りそうな声で「……ああ」と呟いたのだった。