何をするわけでもなく天井を眺めていた。腹の中に異物を失った所為だろう。無情にもくぅ、と小さな音が広い屋敷に響いた気がした。
それでもノーチェは茫然と天井を眺めていて、ぷらぷらと足を前後に揺らしている。赤いソファーに長い時間、腰掛けていても不思議と体が痛むことはなかった。
いくら天井を眺めても変化がないのは無気力でも十分解っていた。しかし、彼は終焉に何かを命令された訳ではない。勧められた屋敷内の散策を終えて、その後をどうするべきなのか、全く考えられないのだ。
――しかし、何もしないというのは、長年染み付いた奴隷という感覚が許してはくれなかった。
ふと、足の低いテーブルの上に視線を配らせる。偶然見付けた丁度良い小振りのサイズの、布の上に置かれた破片の数々。――それは、終焉の部屋と思われる一室に落ちて割れていた花瓶の残骸だ。
後片付けというものが体に染み付いている以上、彼はそれを見逃すことが出来なかったのだ。
カチカチと時計が針を刻む音がどこからか聞こえてくる。遠くで鐘の音が鳴り響いていたのは、もう随分と前の話だった。日の高さからすれば昼などとうに過ぎている。
――しかし、終焉が帰ってくる様子は全くない。無断で部屋に入ったことがバレてしまえば、殴られるのだろうか――そう思えば、男が帰ってくることは何よりも恐ろしいものに思えた。
腹が小さく鳴ったのは、恐らく朝から物を入れてしまったからだろう。忘れていた空腹を思い出したように、再びくるくると鳴った。だが、ノーチェはそれに「お腹空いた」などと言うこともなく、何気なく自身の手のひらを見つめる。
――それは、一度だけに留まらず数回に渡って傷付いたであろう、頼りない手のひらだった。
「……やっぱ…………素手じゃ駄目だったか……」
そう言ってノーチェは再び破片を見やる。当然、彼の手のひらが数回に渡って傷付いているのは、目の前にある花瓶の残骸が原因だ。
彼はそそくさと手近にあった布を手に取って、破片をせっせと拾い上げていた。落としたままでは破片を踏みかねない、そうすれば怪我をすること間違いないのだから、咄嗟の行動なのだろう。
――ただ単純に、何もしなければ理不尽に怒られるのが嫌だったと言えば、それまでになるのだが。
時折手を滑らせては針を刺すような痛みが手のひらに迸る。小さな傷口からゆっくりと血が溢れてくるのは、いやに気味が悪かった。「いてぇ」と呟いて傷口を舐めるものの、小さな傷から出てくる血は留まることを知らないようだった。
――それでも彼は残骸を拾い集めることを止めようとはしなかった。部屋を綺麗にするのはまたひとつの役目だから、と止めることが出来なかったのだ。終焉はきっと何を言うこともなく朝のような無表情を貫くだろう。――いや、「完璧」に見える男だからこそ、些細な変化に煩いのかも知れない。
そうしてそそくさと部屋を後にしたノーチェだが、手中に収まった花瓶の残骸をどこで処理するべきか分からない。不用意に他のものと同じように処分してしまえば、環境の面からしてもかなり悪いものだろう。
しかし、一度手を出してしまったものだ。見過ごしてしまおうにも、見過ごしてしまえば何を言われるかも分からない。
そうやって広間のソファーにそっと凭れ掛かって、出ていった終焉を待つ間の時間は不思議と流れるのが早く、気が付けば時計の針は午後二時に差し掛かろうとしているのだ。朝起きたのは何時だったか。彼は時間の概念すら忘れてしまったのか、ただ茫然としたまま、瞬きを数回繰り返していた――。
――不意にぎぃ、と扉が鈍く軋み開く音がした。ノーチェはどこに飛ばしていたのかも分からない意識をハッと取り戻すと、音がした方へと顔を向ける。夜を彷彿とさせる瞳が映し出したのは紛れもない屋敷の主人――終焉だった。
「おかえり…………なさい」
何故だか咄嗟に出た言葉がそれだった。ノーチェはパッと口許を手で押さえるものの、時既に遅し――男を出迎えた言葉は終焉の耳に届いていて、終焉が無表情でノーチェを眺めている。
温かい日差しが降り注ぐ中、飽きもせずしっかりと着付けた黒いコートは健在で、何も寄せ付けないような風格さえ見せている。
紙袋を片手に終焉は茫然とノーチェを凝視していた。
まるでノーチェに言われた言葉が理解出来なかった子供のように、黙ったまま数回瞬きを繰り返す。何か失礼なことを言っただろうか――そもそも会って間もない男に「おかえり」などと言われるのは可笑しいだろう。
ノーチェは咄嗟に――それも口癖のように――謝罪の言葉を口にしようとした。頼りない唇が静かに開かれる。
――だが、それよりも早く口を開いた終焉の「分からない」という言葉に、思わず口を閉ざしてしまう。
「……?」
「……その言葉に、何と返すのが適切なのか、私には分からない」
言葉の端に滲み出る、今まで孤独に過ごしていたという事実。
終焉はノーチェを屋敷に招くまでたった一人で過ごしていた。料理をするのも自分のため。掃除をするのも自分のため。外に出て気を紛らせるのも自分のため。――そんな男に「おかえり」と出迎えた人間が、今まで一人でも居なかったのが見て取れる。
家に帰れば「ただいま」と言うのが当たり前だった。「ただいま」と言えば家族が「おかえり」と言う。そうすれば身内の安全を確認すると同時に、胸の奥に温かさを宿すことが出来るのだ。
終焉はそれを味わったことがないのだろう。ノーチェでさえ気にも留めず、口癖のように言葉を呟いたのが理解出来なかった。奴隷としての扱いをされていない事実が彼をそうさせたのか、――実際のところは分からない。
ただ「何となく」で、ノーチェは申し訳なさそうに――しかし無表情で――「すまない」と呟く終焉に、「ただいまって」と口を洩らす。
「ただいまって……言ったけど……俺ん、とこ……」
語尾がかなり小さく消え入るようだった。自分は一体何を言っているのだろうか、と言いたげにぐっと口を噤み、膝の上に置いている手を思わず握り締める。見ず知らずと言っても良い筈の男を迎え入れる言葉など必要なかった。ただ、自分がある程度平穏に暮らせれば良かった。
それなのに余計なことをした――赤いソファーに座りながらそっとノーチェは顔を俯かせる。終焉は未だ声を掛けられ、立ち止まったままノーチェを茫然と見つめている。それが、ノーチェには微かにストレスになって、鳩尾の奥が刺されるようにキリキリと痛んだ。
「……ただいま」
静寂を打ち破るようにぽつりと呟いたのは終焉だった。
ふとノーチェが顔を上げて終焉の顔色を窺うと、相も変わらず濃淡のない、素性も知れない無表情のままであったが、どこか俯くように目を伏せている。どこか遠くを見つめるような瞳を一度閉ざすと、男は静かに「……悪くない」と呟いて、漸く踵を返す。
終焉が目指すのはやはり自分の部屋のようで、広間を覗いていた終焉は階段の向こう側に姿を消してしまう。
――妙に緊張した。そう呟いてノーチェはソファーに凭れると、視界に入る花瓶の残骸を見て「あ」と口を溢す。
終焉の部屋に入って集めてしまった割れた花瓶。どう処理すべきか訊くために男を茫然と待っていたにも関わらず、問う前に部屋に戻られてしまった。
また戻って来るのだろうか――そう思いつつ再び足をぷらぷらと揺らしていると、部屋の奥から先程とは違った足音が響いてきた。どこか焦るような、しかし全く焦りを感じさせないような――そんなもの。何だろうとノーチェが音のする方へと目を向けると、そこには部屋に戻った筈の終焉が紙袋を持ったまま、こちらを見つめていた。
「あの」
「私の部屋に入ったのか?」
これは丁度良いと咄嗟に口を開いたノーチェだが、それを遮るように終焉の言葉は紡がれる。それはやはり焦っているような声色だった。
――表情はないどころか、どこかこちらを睨んでいるようで。ノーチェは思わずぴくりと肩を震わせる。
やはり男の部屋に入ったのはまずかったのだろう。獲物を捕らえるようにじっとこちらを見つめる瞳は、ノーチェを責めているようで、謝るべきかと彼は考える。――だが、そうしたところで意味があるのかと言えば、意味なんてないのだろう。
そんなところで突っ立っていないで、いっそのこと殺せば良いのに。そんな思いからか、不意にノーチェは終焉から目を逸らして、何も言わずに一息吐いた。
この様子を見れば男は流石に激怒して手を上げるかも知れない。先程「ただいま」と言った面影など残すことなく、周りの人間と同様、汚いものを見るような目で見下すだろう。
彼は知っている。所詮身分の高い存在など、いとも簡単に手のひらを返すことを。結局は自分優先なのだと。
――勿論、奴隷の立場であるノーチェも人間だからこそ、自分を優先してしまうこともある。だからこそ、終焉が激怒して自分を殺すことに責任など求めようとは思わない――。
――不意に、ばさばさと沢山の荷物が音を立てて床に倒れるような音がした。それに合わせて驚く反応をするよりも早く、終焉がノーチェの手を掴み上げて、やけに悔しげに眉を寄せている。それに少なからず驚いたであろうノーチェは、瞬きを二、三回繰り返して、茫然と終焉の顔を見上げていた。
「血の匂いがした。素手で触ったのか……ああ、ほら…………血が出ているじゃないか……」
「花瓶などどうでも良かったのに」そう言って終焉は一度手を離すと、急くように階段の脇にあるであろう扉を開ける。あの場所はそう、ノーチェが入らなかった扉だ。
本当に物置にでもなっていたのか、少し距離の開いたノーチェの耳に届く、物が漁られる音。何をしているのだろう、と思うと同時に再び現れた終焉の手には、小さな箱が収まっていた。
所謂絆創膏というやつだろう。終焉はノーチェを目にすると、ハッとしたように一度動きを止めて踵を返してしまう。何をしているのかと思えば、戻ってきた終焉の手には新しい道具が幾つか取り揃えられている。よく見ればそれは、消毒液と綿だろうか。
一瞬でも「こんなところにも綺麗好きが出てくるのか」と思ったノーチェだが、何を気にすることもなく隣に座る終焉を見て、単純に心配してくれるのだと確信する。
終焉は慣れたように綿に消毒液を染み込ませると、ノーチェの手を取り、痛々しく真新しい傷口に綿を押し当てる。時間が経ってしまっていたからだろうか。その傷口から赤く、深みのある血が溢れることはなかったが、消毒というだけあってやはり痛みが生じる。
慣れない手当てに、つんと鼻を突く強い香りは微かにノーチェの感覚を揺さぶっていて、思わず「こんなの必要ない」と口を洩らしてしまった。
「駄目。貴方はそこまで頑丈ではなさそうだから、手当てくらいしておかないと」
傷口に何が入るか分からない。そう言って終焉はそっと絆創膏を指に付けると、何故か安心したようにほう、と息を洩らす。――冗談か本気か分からないが、いくら「愛している」とはいえ、ここまで心配する必要はない筈だ。
咄嗟にノーチェは掴まれていた手を自らの方へ引き戻したが、それに驚く様子もなく、終焉は立ち上がってノーチェの目の前に立ち塞がる。
――まるで壁際にでも追いやられているような気分だった。ノーチェを見下ろしている双方色違いの瞳は宛ら狼のようで、鋭い眼光が酷く特徴的だった。蛇に睨まれた蛙というのはこの事を言うのだろう――ノーチェは終焉を見上げているが、体が全く動かない。手指がぴくりとも動かない。瞬きは一度も落ちやしない。生唾をごくりと飲み込む音がやけに大きく聞こえた気がした。
唐突に終焉が体を落とした。ノーチェは金縛りから解き放たれたように体を震わせる。目を落とせば、終焉はノーチェの足を手に取っていて、「ああ……やっぱり」と嫌そうに眉を顰めている。
「素足だからな、まさかとは思ったのだ。痛みに慣れてしまったのか……? 全く……」
つい、と終焉の手袋が素足をなぞる。男の見る先には傷痕の残る踵がひとつ。それも慣れた様子で手当てを始める終焉だが、ノーチェはただ茫然としているだけだった。終焉が屋敷に戻る前に踏んでしまったのが原因だと分かっている。分かっているのだが――痛みに疎くなってしまっていることに気が付いたのは、今だった。
ぺたり。――足の痛みを感じるのは鈍かったが、終焉が絆創膏を貼ったのは分かる辺り、全ての感覚が鈍くなっているわけではないのだろう。
「…………もう少し自分を大切にしてくれ」
一連の動作を終えた終焉は道具を手にしながら立ち上がると、ノーチェの頭に手を置いて撫でる。父親のような優しげな手付きにノーチェは呆気に取られていたが、「……別に必要ない」と言葉を紡ぐ。
何気なく指に巻かれた絆創膏を見つめながら、どこか邪魔そうに指の腹で絆創膏を撫でる。
ほんの少し動きが鈍くなったところを除けば、多少の違和感がある程度だろう。徐に手を離した終焉は「そういうことを言うな」と呟いたかと思えば、床に散らばった紙袋に手を伸ばす。
足の低いテーブルの上に消毒液や絆創膏などの道具を置いて、袋の口からはみ出ている黒地の布を袋に押し戻そうとして――ふと、ノーチェを見やった。
「ふむ……丁度良いな」
そう言って終焉はノーチェの名前を呼んだ。