花型の洋菓子

 黒地の服を着て、首元は開けたままノーチェはソファーに座ったまま理解出来ないと言いたげに瞬きをする。
 先程まで着ていた終焉の物と思われる服を片手に持ち、終焉はノーチェを見ながら満足げに――しかし無表情で――頷く。「やはり黒がよく似合う」と言ってしっかりと上下を確認した後、「何か不具合はあるか?」と問う。
 やはりノーチェは理解出来なかった。まさか男が本当に衣服を買ってくるとは思わなかったのだ。襟を立たせた黒い衣服は、彼が元々着ていた服とどこか似ていて、馴染みがあると言えるだろう。暗い紺色に限りなく近い黒のスラックスは少し長く、床に裾が着いてしまっていて、「裾上げが必要だな」と終焉は言う。
 首輪が邪魔をして首元が閉められない、というよりは、首輪を考慮して首元を開けているような状態だった。街に出て人目に晒されれば勿論好奇な目で見られることだろう。

「……本当に買ってきたのかよ…………」

 どこか呆れるような気持ちで呟きを洩らしたが、それは終焉には届かなかったようで、何か言ったかと男は首を傾げる。さらりと女のように柔らかな髪が垂れていった。恐らくそれは見る者が見れば綺麗だと思えたのだろう。
 しかし、ノーチェは終焉の問いに「別に」と答えただけで、感性を揺さぶられたと言うような言葉は紡がない。ただ本当に衣服を用意するとは思わなかったと言いたげに項垂れて、疲れてしまったようにソファーの背凭れに身を預けていた。

「具合が良いようで良かった。まあ、いくつか用意したから、日によって変えてくれ。靴下もあるぞ。足のサイズが分からなかったからな、靴は買ってこれなかった」

 「この服は洗ってこよう」ぱたぱたと終焉は服を持ちながらどこかへと向かっていった。恐らく男は洗濯機にでも服を入れるのだろう。そして庭で干して、綺麗に畳んでタンスにしまうに違いない。
 真新しい服にノーチェは慣れないのか、じっと見つめては指で摘まんで何気なく服を伸ばす。洗剤や柔軟剤の香りなどするわけがなく、微かに鼻を刺激する新しい香りが特徴的だった。

 黒がよく似合うと言っていた終焉は、確かに確信を得ているような口振りだった。それも男がノーチェのことを知っているからなのだろう。背丈も好みもしっかりと把握していて、服のサイズもほぼピッタリと来たものだ。怪我の手当てどころか、衣食住全てを用意されてしまっている。
 これでは本当に奴隷ではないようだった。
 するり。小さな力を加えれば折れそうなほど、細く頼りない指が喉元の首輪に触れる。冷たくはないが、その存在感は真夏に氷を口にした時と同じくらいだろう。
 ――こんなものが無ければ自由で居られたのに、と耳鳴りのように言葉が頭に鳴り響いていた。
 新品の香りは鼻を擽って、違和感だけを覚えてしまう。すん、ともう一度匂いを嗅ぐと、慣れ難い布の香りが不快感を揺さぶってくる。極めつけは着慣れない所為だろうか――布の柔らかさと着心地が、衣服ではない何かを彷彿とさせてくる。
 例えるならそれは、幼い子供がかくれんぼの際に使った厚手のカーテンのような堅苦しさで、新品の香りは「お前を認めていない」と言われているような気分だった。
 この服なんて、もっと他の奴に買えば良かったのに。
 ――何気なく呟いた一言に混ざるのは、落胆にも似た重苦しい感情。喜びではなく、不快感とでも言えばしっくりくるのだろうか――。
 落ち着きを取り戻したように足音もなく壁の向こうから終焉が顔を覗かせた。「気に入らなかったか」と、淡々とした声色でノーチェに語り掛ける。

「結局、貴方の好みに合わせていないからな。気に入らないのも無理はない」

 そう言って暑苦しいコートを脱ぐと、終焉は再び自室に戻るため、踵を返してノーチェに背を向ける。
 怒らせてしまっただろうか。
 ――そう思う反面、次第に学習したノーチェはあの程度で終焉が怒るとは思えなかった。感情が失われていると言えば確かにそう思えるのだが、先程の手当ての時に見た悔しげな表情を見るに、男は本当に感情が死んでいるわけではなさそうだ。
 言うならば、ノーチェの些細な言動に不満を抱くものの、怒りを露わにする事はないのだろう。
 単なるベストかと思えば、燕尾服のように背の裾が長い服を靡かせて終焉は去っていった。不満げでも不機嫌でもない後ろ姿を目で追って座り込むノーチェは、くぅ、と小さく鳴る腹に手を添える。食べ物を口にしてからというものの、体が調子を取り戻したかように空腹を訴えてくるのだ。
 ――腹減った。
 小さく呟いてみたが、以前の明るさなどまるで思い出せず、芽生えることのない食欲にそうっと目を伏せる。恐らく終焉は今夜もしっかりと夕食を用意するだろう――それをノーチェはどう断ってやろうか考えていた。
 折角死ぬために着々と用意が出来ていたのだ。それを、たった数回の食事だけで崩されてしまい、迷惑であることこの上ない。人間の生きるという本能は簡単に芽生えてしまうのだから、正直に言えば服よりも遥かに不愉快だろう。
 死ぬのならそれ相応の身なりで、――死ぬ勇気もないノーチェがぼうっとしたまま思考を巡らせていると、自室に戻った筈の終焉がふと姿を現していた。
 何か用があるのだろうか――ノーチェの居る広間には目もくれず、長い髪を靡かせてどこかへと向かって歩く。その表情はどこか嬉しそうにも見えて――。
 一息吐きながら「まあ良いや」とノーチェは足を投げ出した。

「……ノーチェ」

 表情が嬉しそうだったというのはほんの一瞬の出来事だったのか、ノーチェの勘違いだったようだ。
 再び壁の向こうから顔を覗かせて声を掛ける終焉の表情は、心などあるとは思わせないような無表情そのもので、冷めきった顔付きそのものだった。――そんな男が「あまり期待はしていないのだが」 と言葉を紡ぐ。

「何か食べるか?」

 顔色を窺うように瞬きを数回繰り返した後、終焉は片手に携えている赤い林檎をちらりと左右に振った。どうやら何か作ろうとしているようで、断ろうと唇を微かに開いたノーチェは、くぅ、と鳴る腹に再び手を当てた。