花型の洋菓子

 厚さは二ミリから三ミリと言ったところだろうか――薄切りにされた林檎だったものがまな板の上に並べられていた。
 それを耐熱性のボウルに入れて、グラニュー糖とメープルシロップを加える。林檎全体にシロップが絡むまで混ぜたらバターを乗せてレンジで加熱。その合間にパイのシートを六等分に切り分け、加熱が終わったら冷ましている間にパイシートを麺棒で伸ばす。
 伸ばしたシートの上に冷めた薄切りの林檎を三分の一程度重ねるように乗せて、マフィンの型にバターを塗った後、林檎を乗せたシートを丁寧に巻きながら中に入れ、予め余熱しておいたオーブンで十五分程度焼き上げる。
 焼き上がればそのまま出来上がりでも良いのだが、林檎に染み込ませていたシロップを表面に塗れば、艶が出て更に美味しくなるそう――。
 ――その一連の流れをノーチェは道具が揃ったキッチンで見せ付けられていた。エプロンを着けた終焉は長い黒髪を束ねると、慣れた手付きで調理に取り掛かる。男の手にかかればノーチェが持つと危なげな調理器具も、本来の姿を取り戻すように扱われていった。
 林檎を切る動作も、シロップに漬け込む作業も、焼き上げる工程も何もかも、やけに手慣れていて格の違いをまざまざと見せ付けられる。黒い爪が目立つ色白い素手も、終焉が作業している間は特に気にならなかった。
 芳ばしい香りが鼻を擽る。昼食を逃している所為だろうか、ノーチェの腹が何度も小さく音を鳴らしているが、ノーチェは依然「食欲」そのものが認識出来ない。今までの暮らしというのは随分と体に染み付いているようで、欲求が無いと言うに等しいほどだ。
 そんなノーチェを気にかけているのだろう――幾つかの作業を終えた終焉はノーチェに振り返るや否や、「退屈じゃないか」と呟く。

「別に、無理してここに来る必要はなかっただろう。部屋にでも居れば持っていくつもりだったのに」

 当たり前のように濡れた手をタオルで拭いて、終焉は首を傾げながらノーチェに問う。
 長い黒髪が結われている、というだけで男の印象はすぐに変わった。エプロンを着けるために脱いだ黒衣の印象が大きかったのだろう。男のシャツとベスト姿は何よりも新鮮で、纏めた黒い髪が軽く靡く度に女のような印象を与えてくる。
 その姿は恐らく、老若男女問わず好かれただろう――勿論、終焉がその姿を他の者に見せればの話である。

「……別に……やることないし……」

 せめて後片付けくらいは出来るだろうし。
 そんな言葉を呑み込んで、喉の奥へと押し戻したノーチェは茫然と終焉を眺めていたが、自分の出る幕などないことは十分理解していた。
 男は手際が良い――良すぎるほどだ。何かをした後は次の工程に移りながら片付けを進めてしまう。まな板は水洗いをしたら立て掛けて、包丁は洗ったらタオルで拭いてすぐにしまう。包み紙やゴミの類いは近くにあるゴミ箱に捨ててしまって、手を出す暇など欠片も残されていない。
 それでもせめて物の位置くらいなら覚えられるだろう。終焉が居ない間に見回って酷く嫌に思っていたキッチンは、今は何故か受け入れられているような気がして、不快ではない。万が一、何か言われたらすぐにでも動けるよう、気を配らなければならない。未だ殴られないとはいえ、生き物などいつ逆上するか分からないものだ。

「そうか。生憎だが作業は終わってしまったよ。見ていて楽しいとは思えないが、折角出来たものだ。食べてもらわねばならない」
「あっ……」

 ――するり。
 出来上がった薔薇のような見た目のアップルパイが載った皿を片手に、終焉はノーチェの体を抱えるように引き寄せた。出来立ての甘い香りは不思議と心を擽っているようだったが、また食べなきゃならないのか、とノーチェが唇を尖らせる。
 特別気持ちが悪くなるというわけではないが、どこか食事という行為が億劫になっているのだろう。引き摺られながらも「要らない」なんて小さく呟いてみれば、傍らで「駄目」という言葉がすぐに返ってきた。
 我が子を諭すような声色に、むぅ、と何気なく唸ると、ノーチェは引かれた椅子に腰を落とす。――気が付けばリビングに着ていて、隣には終焉がアップルパイに手を伸ばしていた。
 焼き立て特有の軽い、サクサクとした食感が終焉の気分を良くしたのだろう。無表情ながらもどこか柔らかな雰囲気を纏ったまま男は「甘いものは良いな」と呟いて、ノーチェを横目で見る。食べないのか、と言いたげな瞳に体が射抜かれた気がして、ノーチェが体を強張らせていると――。

「美味しいぞ」

 と、有無も言わさずに手に取ったアップルパイを口に放り込んだ。

「んむ……」

 思わずそれを噛むと、芳ばしい香りと共に甘い風味が口いっぱいに広がる。噛めば噛む程林檎の甘酸っぱさが溢れてくるが、同時にシロップの甘味がそれを打ち消すようで、口に残るのは焼き立ての香りと、甘い食感だけ。
 落とさないよう口に放られたアップルパイを手で受け止めるノーチェの腹が、再三くぅ、と鳴る。もう聞き飽きたと言わんばかりに微かに眉を顰めると、それを見下ろしていた終焉が「腹は空いているのか」と呟く。

「…………別に……そこまで食べたいと思ってないけど…………」

 食い意地の張った汚い奴隷だと思われないよう、咄嗟に口を突いて出た言葉だった。
 確かに食感はない。しかし、体がそれを求めている。自分の欲が鈍っているのか定かではないが、嘘は言っていないつもりだった。

「それでも私は嬉しいと思っているよ」

 冷めた金と赤の瞳、口の端すらも上がらない動かない表情。――それのどこが嬉しいんだ、と疑わざるを得ない状況で、ノーチェは与えられた洋菓子をちまちまと食べ進める。
 不思議と、男の手料理を口にした後は食べられるのだ。いつの日かのように進んで食べ進めるような真似は出来ないが、ちまちまと口の中に入れることは出来る。時折果汁が染み出たような甘い香りに胸を満たしては、どこか懐かしい感覚に酔いしれて、ほう、と息を吐く。

「………………美味い」

 今朝方言われたように、ノーチェは砕けた言葉を小さく口から溢した。
 ――ただ少し、終焉の者のペースに呑まれただけとも言えるだろうが――無意識のうちに、吐息と共に吐き出された言葉だった。
 それにノーチェが気が付いたとき、終焉は驚いたように――それでも表情は変わらないが――目を微かに見開いていて、「そうか」と呟いて不意にノーチェから視線を逸らしたかと思えば、顔を背けてしまう。
 一瞬でも怒らせてしまったのかと、彼は微かに手指を動かした。
 ――だが、それが一種の照れ隠しだと、終焉が本当に嬉しいと思っているのだと気が付くのに時間は掛からなかった。

「…………好きなだけ食べると良い」

 そう言って口許を隠しながら眉間に皺を寄せる男はどこか愛らしく、今までの印象を砕くのには丁度良いものだ。
 ――ああ、この人もこんな表情が出来るのか、と納得するように瞬きをした瞬間には、終焉の表情は元に戻っていて。一心不乱に自分の作ったアップルパイを頬張っている。
 ――甘くて、芳ばしく、胸を満たす奇妙な洋菓子。
 昼食を逃したノーチェにそれは大きなものに思え、止まってしまっていた食べる動作を繰り返せば、隣で男は嬉しそうに次を進める。
 何故か薔薇の形が妙に愛しくて――食欲が無いと言いつつも、ノーチェはその差し出された次を手に取った。