苦い香りと赤い染み

「おはよう、セリウス! 今日は良い天気よ!」

 不意に目が覚めれば窓から差し込む陽の光が男の目を焼いた。カーテンが開かれる軽い音と女の声は耳を劈くものと等しく、咄嗟に目元を隠した男は陰で苦い顔を浮かべる。昨日もいやに良い天気だっただろう――なんて言葉を喉の奥で噛み殺し、「だから何だ」と小さく呟いた。

 徐に体を起こすと初夏を感じさせる薄い掛け布団が捲れる。傷に服の繊維が入り込むのを嫌がってか、包帯がほつれるのを防ぐ為か、布団の下から顔を出したのは男の――セリウスの体だ。肩や胴体に巻かれた白かった包帯は所々血が滲んでいて見るに堪えない。
 それでも不意を突かれてしまった女は、アイリスは頬を赤らめ、顔を俯かせた。

 空気が重い――ふと、キッチンの向こうでしゅんしゅんと軽い音が鳴っている。先日聞いた音に酷似していて、彼が「火を止めてこい」と呟けば彼女は弾かれたように顔を上げて「またやっちゃった」と駆けて行く。ちらりと横目で見れば観葉植物やテーブル、椅子などが視界の端に映り込む中、カウンターの向こうで火を止めるアイリスの顔があった。いやに呑気で能天気な表情だ。
 その上、一人暮らしにしてはやけに良い家だ。窓から差し込む日の光も、ピアノが入ってしまう程余裕のある広さも、キッチンの造りも何もかも。同じような人間だろうか――暗い瞳を細めて見る向日葵のような眩しい橙色は目に悪く、目頭を押さえて彼は「意味が分からない」と小さく呟きを洩らしていた。

「コーヒーは好き? あ、でも怪我してる時は止めた方が良いのかしら……」

 そんなセリウスを差し置いて、カウンター越しでセリウスに問い掛けたと思えば一変した。自問自答するように頬に手を添え、神妙な面持ちでうんうんと唸るアイリスの様は自分勝手のようにも見える。ミルクポット右手に、シュガーポットを左手に持って首を傾げては「甘いのは嫌いかしら」なんて呟く。

 セリウスはその様子を寝具の上から茫然と見つめていて、ふと二つのカップに砂糖を入れようとするアイリスに「ブラック」と言い放つ。
 ブラックはカフェインがいっぱいで睡眠には悪いのに――不満げに、尚且つ哀しげに唇を尖らせながらポットを下ろすアイリスに彼は「それが良いんだ」と口を開きかける。

 それが良い、眠らずに済むから――、なんて言おうとして首を横に振る。自分の事情など他人に話すものではないのだ。
 何気なく体に巻かれた赤と白の包帯に手をあてがう。痛みが伴うが動かない程ではないだろう。試しに右腕を動かしてみれば目を覚ます程の鋭い痛みが全身を駆け巡ったが、依然動かし難い左腕の痛みよりは酷いものではない。
 これなら数日待たずとも逃げられるのではないか。

 決意のような意志を胸に、ふと顔を上げると窓辺には色鮮やかな紫陽花が顔を覗かせている。覆される事のない青紫色の中に所々混じり合う赤の色は双方の色を湛えているようで、「梅雨だったのか」と何気なしに呟いてみせた。
 何せ多忙の日々を送っているのだ。季節を感じさせるものに目移りしている暇などこれっぽっちもない。

 久し振りに見た感性をそそるものだからだろうか。セリウスがそれに目を奪われていると、「できた」と余韻に浸る彼の頭を覚まさせる女の劈く声が耳に届く。
 振り向けば寝具の近くにある小さなテーブルに二つのカップを置いて、椅子に座るアイリスが目の前に居た。丁寧にスカートを膝で折りながら静かに腰掛け、橙色の髪をゆっくりと丁寧に編み始める。いやに騒がしいくせに慣れた手付きで三つ編みをする様や、何気ない動作がお淑やかさを醸し出している。

 そんなアイリスにセリウスは目を奪われ、ふと目が合うと「何だか恥ずかしいわ」と照れたようにアイリスが笑う。

「……誰かとこうして居るのは久し振りでちょっと緊張しちゃう」

 頬に手を添えはにかむその様子は「お淑やかな女性」と言うよりはまだ少女に近く、先程の大人びた様子は見る影もない。
 今のは何だったんだ、と差し出されたカップを口に運んだ。舌に広がる目を覚ます程の強い苦味と癖になりそうな香ばしい匂いに安堵するよう、ほうっと一息吐くと、アイリスは安心したかのように「気に入ってもらえて良かったわ」と胸を撫で下ろす。

 どす黒いブラック珈琲の色とはうって変わって、アイリスの物と思われるそれの中にあるのはミルクティーのような亜麻色に染まっている。砂糖とミルクをふんだんに使った甘い珈琲なのだろう。
 どちらも好みではあるが、どちらかと言えば苦味を求めるセリウスはそれを微かに、訝しげな目で見つめていた。

「今日はお医者様が来てくれるのよ。あっ、セリウスの手当てをしてくれた人でね、定期的に包帯を替えてくれるわ」

 私が替えるんじゃあまりにも、その、あれだから。
 そう言って何故か照れ始めるアイリスを他所に、セリウスは口を噤んだまま左腕を右手で擦る。動かない訳ではないが痛みは左よりも遥かに酷い。その上、足もよく狙われていたのだ。先日は歩けた事から大事には至らない程度のものだとは思えるが、やはり状態は確認しておかなければならないだろう。胴体に巻かれている包帯の下もまた気になって仕方がない。

 ふと気になって「その医者はいつ頃来る予定なんだ」と彼は訊いた。
 時間には大した重要性など感じられないものだが、傷の状態や完治がどれくらい掛かるのかが気になるのだ。治るものを治さなければこの先が不安で仕方ないのだ。
 セリウスはテーブルにカップをおいて、何気なく死角になる枕元に添えた黒光りする拳銃を右手で撫でる。
 ――すると、心なしか安心するような感覚に落ちた。こんなもので安心するなんて、――小さく眉を顰めていると「まだ痛むの?」とアイリスが不安げに呟いた。

「初めて見たときよりはだいぶ、良くなったと思ったのだけれど……」

 何故だか自分の事のように痛々しげに、珈琲の入ったカップを強く握り締めている。――そこで、セリウスはふと疑問に思う。

「……俺を見付けたのはお前か?」
「そう! 酷い雨でね、あ、私雨も好きだからよく外に出るんだけど、人通りが少ないからはしゃげるのよ!」

 話がほんの少し脱線した。しかし、それでも持ち直すようにアイリスは答え続ける。

 その日は人通りが少なく、雨脚が強く、――彼女が言うにははしゃぐには持って来いの天気のらしい――倒れていた彼が見付かるか定かではなかった一日だったようだ。
 ふと、気が付けば塀に何かが擦ったような暗い色が付いていて、雨に濡れて垂れている事から真新しいものだった。何気なく辿って歩けば死んだように眠っているセリウスが居て、思わず善意が働いたのだという。街の医者の手を借り、自宅へと運んでもらったそうだ。
 その話を聞いてセリウスは確信を持つかのように納得をした。何故雨の日に女の声が聞こえたのか――言動から能天気な性格が窺えるアイリスの事だ。能天気さが招いた彼女の行動が結果的に彼を救ったに過ぎない。

「……雨が」
「……?」
「雨が止んだと思ったが……」

 記憶の糸を手繰り寄せ、不意に思い出したのは意識が完全に飛んでしまう前の体に伝わる奇妙な感覚。体を打ち付けていた雨粒が消え、静けさが訪れたようなもの。凍えるような寒さを一変させるように、打ち付ける雨の感覚から逃れたあのときの安心感は、家に帰ったときの落ち着きと酷似している気がした。

 それをふと呟けばアイリスは一度瞬きをすると「雨は止んでいないわよ」と微笑みを浮かべながらセリウスに告げる。酷い雨だったあの日は一日中――二日に亘って――強く降り続いたのだという。
 アイリスはその日を体ひとつで出迎えるだけの女ではなく、傘を持ちながら足軽に散歩を楽しんでいたのだ。セリウスを見付けたとき、彼が「雨が止んだ」と思ったのは彼女が傘を差したからだろう。

 雨が止んだと思っていたのは気のせいだったのだ。寧ろ雨音すら聞こえなくなっていた自分がいかに危険な状態であったのかを、彼は理解させられた。一週間も眠っていた原因は大量の出血と、体力の消耗から来るものだろう。
 こんなことをしている場合ではないのに――そう思わず左腕を掴む右手に力を込めると、傷口が開いたようで真新しい痛みがセリウスの腕を襲った。

「あっ、あっ! 駄目よ! お医者様はお昼頃に来てくれるから!」

 咄嗟になってアイリスは口をつけていた甘いコーヒーを倒しながらセリウスの手に飛び付いた。カタン、と物音を立て、床に叩き落とされるマグカップは傷ひとつなかったが、テーブルや床、更には布団にまで甘栗色の染みがじわりと広がる。
 手を捕まれ腕から引き剥がされた彼はその光景をじっと見つめていて、思わず「おい」と呟いてみせる。「コーヒーが溢れたぞ」と言ってアイリスの注意を逸らそうと試みたが――彼女は酷く辛そうな表情でセリウスの顔を見上げたまま、コーヒーへと意識を向けようともしなかった。

 赤の他人のくせに理由もなく何故か男の身を案じている女に、セリウスは動揺すら覚える。何故この女は会ったばかりの人間をいやに心配しているのかと、疑問さえ抱くのだ。

「…………離せ」

 驚きに思考を委ねるセリウスが口から溢した言葉はあまりにも無愛想で、彼の身を案じているアイリスには酷なものだった。――しかし、彼女はそれに動じることもなく「もうしない?」と彼の窺うようにじっと視線を投げている。
 それに折れたのは紛れもなくセリウスに他ならなかった。

 はあ、と大きくあからさまな溜め息を吐き、子犬宛らの視線を投げ掛けてくる彼女の目から視線を逸らすと、「しない」と呟く。彼とて自らの傷口を抉るような真似はしたくない。治りが遅くなり、ここから出ていくのが遠くなるだけだ。追われている以上セリウスはひとつの場所に留まりたくなければ、誰とも関係を築かないつもりだ。

 それに――何より危ういのだ。体勢が。

 咄嗟のことにアイリス本人はまるで意識もしていないだろう。飛び付いてしがみつくように彼女はセリウスの手を取り、ただ握り締めている。それがあまりにも無防備に他ならない。掴んだ腕が、胸が当たっていることに彼女は気が付いているのだろうか――。

 「本当!? よかった!」そう言って彼女はセリウスの腕を放すと、先程とはうって変わって向日葵のような笑顔を咲かせる。長い睫毛が、瞳が弧を描き頬は赤みを取り戻して宛ら子供のような満面の笑みだ。その後に落ちたマグカップを手に取り、「染みになっちゃう~」なんて言って、カウンターキッチンへと駆けていった。
 見た目とは裏腹に豊満な胸が腕に当たっていたことには気が付いていないようで、取り残された彼は何とも言えないような、眉間にシワを寄せながら再びブラックコーヒーを一口。悩みを掻き消すほどの強い苦味が、彼の気持ちを落ち着かせるようで心地がよかった。

 ほう、と一息吐けば絡まっていた思考の縄がほどけていく。

 アイリスが言うには昼頃に医者が訪ねてくるというのだ。恐らくセリウスの体の容態と、傷の経過を見られるのだろう。そのときに彼がやるべきは「どの程度で動くのに支障が出ないほどに治るのか」を聞くことだ。雨でいくらか血が流れたとはいえ、いずれは足取りを掴まれるのがオチというもの。そうなる前に彼は一刻も早くこの場を離れなかった。

 人情というものをかなぐり捨ててきたつもりだったのだが、やはり不完全だったのだ。無関係な人間を巻き込みたくないという感情が、胸の奥底から沸々と沸いて出てくる。そんな悠長なことを思っている場合ではないことも把握しているのだが――、これが人間の性なのだろう。

「ついでにお風呂代わりに体を拭いて――きゃっ!?」

 そして――長男であり、妹の面倒を見てきたという過保護欲が彼の体を咄嗟に突き動かした。何もないところで躓く女の体を優先するか、宙を舞う水の入った桶を優先するか、そんなもの考える時間が勿体なかった。

 ――ばしゃん

 アイリスを守るように抱き寄せたセリウスが、冷たい水を頭からかぶってしまったのは言うまでもない。