日が高く昇った正午過ぎ、橙の髪を三つ編みに施したアイリスの自宅に一人の男が訪ねてきた。医者である彼は事は早めに済ませた方がいいと思い、予定よりも早く彼女の家へ着いたのだが、荒れた現状に眼鏡越しにある目を丸くする。
水をかぶったセリウスは厄介なものを見るような目付きでアイリスを見下ろすと、「もう少し落ち着いたらどうだ」と言った。絹糸のように滑らかだった黒髪は水が滴り、包帯の色がじわりと変わっていく。セリウスの腕の中に収まったアイリスはポカンとその顔を眺めていたが、次第に頬を赤らめて、「えと、」と口ごもる。
何せ状況が状況だ。彼女は陽気ではあるものの、年相応の女性であって、男性の腕の中におさまるなど滅多にない経験だ。浮わついた話がないのはアイリス自身「恋」というものが理解できなかっただけで、そういう対象として見られていることは少なからずあった筈だ。
無論、セリウスもそうだと思っているのだ。一人の男を部屋に入れて看病なんてするものなのだから、異性に慣れていないというわけではないのだと、思わざるを得なかった。
――何より彼も男だ。女を水に晒すような真似はしないというのが彼の意志だった。
それが余計だったのだろうか。からからと音を立てて落ちた桶を目線で追うようにアイリスはパッと顔を俯かせる。礼もないのかと思ったのだが、セリウスとて鈍い人間ではない。それが照れているのだと分かるや否や、離すべきだと本能が囁いた。
「…………悪かったな。咄嗟に――」
庇った身でありながら謝罪を口にする違和感に苛まれながら、セリウスは両手を離すと――アイリスが顔を青ざめているのが見てとれた。
「……おい」
「きっ……き、傷が……!」
血の気が失せていくその表情はまるで自分を見放した奴らと同じようで気に食わなかった。
彼は思わず低い声でアイリスに話し掛けたが、顔が青ざめている理由が分かってしまい、徐に自分の体を見下ろす。見れば濡れた包帯が徐々に赤く染まっていくのだ。白を侵食する赤は鉄臭く鼻がつんとして、気分は最悪だ。
気が付いてしまったが最後。セリウスは全身を駆け巡る強烈な痛みに身悶えた。絶対安静を強いられている筈の体を無理矢理――それも咄嗟に――動かしたのだ。塞がりきれていない傷口が開き、出血するのも無理はないだろう。
それよりも気にするべきは女のことだった。
「わ、私、あの……私」
自分の所為で傷口が開いたと思っているのか、青ざめた表情のままアイリスは体を震わせていて滑稽だった。自分よりも慌てる人間を見ると不思議と冷静を取り戻してしまうのも人間の性なのか――、彼はアイリスの様子を見てから不思議と傷のことなど気にならなくなった。
――というよりは怯える素振りが妹によく似ていたのだ。顔を青ざめて震える小動物のような姿は見ていて面白く、慌てるべき自分がまるで他人事のようにそれを見ていられるのだ。
だからこそセリウスはその頭を撫でてやろうと、ゆっくりと手を伸ばした――。
「ダメダメ! 動いたら死んじゃうぅう!!」
「いっ!?」
動いたら死ぬ。そう叫んで彼の体を寝具へと押し倒す形で彼女は倒れた。
自分の体のことなのだからそう簡単に死ぬ筈がないと分かっていて、セリウスは宥めたい気持ちで一心だった。昔から女に泣かれるのは酷く不愉快で、いやに落ち着きを失ってしまうのだ。「この程度で死ぬような柔な体じゃない」とだけでも言えればよかったのだが、アイリスの突拍子もない行動は彼の言葉を遮った。
もしかするとこの女によって殺されるのではないか――そんな思考がセリウスの脳裏をよぎる。男女がひとつ屋根の下に居ることで間違いが起こるかと懸念していたが、懸念すべきは男女の関係ではなかったようだ。慌てながらセリウスの上に乗り掛かるアイリスはぴぃぴぃと泣き喚きながら、一向にその場を退かなかった。
血が滲む思いでそれに耐える彼の体に迸るのは、傷口が開いたことによる激痛のみ。胸が当たるだとか、泣きつかれているだとか、そんな悠長なことを思っていられるものではないのだ。
意識を手放したくなるほどの激痛は彼に余裕という余裕を全て取り払ってしまい、今にもアイリスを突き飛ばして駆け出したい衝動に駆られていた。床に叩き付けられた桶は彼女の足に当たってはカラカラと音を立て、小さなテーブルに載っていたブラックコーヒーはアイリスがセリウスを押し倒した衝撃で溢れ落ちる。温かく黒い液体が絨毯に落ちたのも気が付かず、彼女はただ慌てていた。
「……分かったから…………離れてくれ…………!」
彼は浅い息を繰り返しながら咄嗟に言葉を紡いだ。痛みに呻きたいところを噛み殺し、女に上から退くようそれとなく声をかける。痛みに生理的な涙が浮かんだような気がしたが――そんなものはまやかしだったのだろう。驚いて肩を震わせるアイリスが、涙で濡れた瞳をこちらに向けて、ひとつ瞬きをする。
「そうね、包帯を変えなきゃね!!」的外れな言葉を吐いてアイリスは咄嗟に彼の体から離れていった。そのときの激痛といえば計り知れないものではあったが――セリウスにはまだやることがある。
それは――絶対に何かをしようとするアイリスの手から逃げることだった。
体が悲鳴を上げようとも本能が逃げろと語りかける。この手の人間は余計なことをやりかねない。医者が来るまで下手に手を出されない方がいい。
――案の定、アイリスは真っ白な包帯を手に抱えながらセリウスと対峙した。的確な処置を施せるかも分からない女に身を任せられるかと問われれば、答えは「否」だ。セリウスは開いた傷口から止めどなく血が流れるような感覚に襲われながら「そのまま動くなよ」と吐息混じりに呟く。
アイリスは手当てしないと、と言いながらも彼の話を聞かず、じりじりと近付いていたのだ。
恐らくアイリスは血に慣れていない――そう思いながら攻防戦を繰り広げていたとき、待ちわびていた医者が漸く姿を現したのだ。
「いや、ぱっくり開いたね。これ普通に治り遅くなるよ」
ははは、と笑いながらセリウスに処置を施す医者は随分と陽気にそう告げた。
笑ってはいるものの、医師として手当てした筈の傷が開いているのは酷く不愉快そうで、麻酔も無しの体に消毒液に浸けた綿を押し当てたのはセリウスでさえも予想外だった。悲鳴にならないような悲鳴を噛み殺し耐える男に、アイリスは相変わらず顔を青くさせていて、口許に手を当てては悲鳴を圧し殺すようにそれを見つめている。
不意に顔を上げた彼の目に映るアイリスは酷い顔をしていて――セリウスは小さく唇を開いて何かを呟いた。それは、彼女に伝わることはなかったが、医者には届いたようで、男は陽気に彼女へと告げる。
「ちょっといいかい、アイリスちゃん」
「は、はい!」
「ハーブティーを買ってきてくれるかい? このお兄ちゃん、随分と血の気が多いから落ち着かせないとねぇ」
医者はセリウスをだしにアイリスへと買い出しを告げた。彼が血気盛んだと言わんばかりの言葉にセリウスは確かに苛立ちさえも覚えたが、目の前の医者にとってはそういう様子が見て取れるのだろう。――かと言って血の気が多い様子など、見せたことがないのだが。
しかし、医者の対応が悪いものなのかと問われれば、首を横に振るしかなかった。
何せ、先程からセリウスを不安そうに見つめるアイリスの顔が、青ざめているようでならなかったのだ。
女に見せるにはあまりにも酷だと思った医者の対応は適切だった。彼はちらりと彼女を見やると、目があったようでぴくりと肩が動くのを見る。その顔色はやはり青く、胸の前で組んだ手には必要以上に力が入っている。見ていて手の甲を傷付けてしまうのではないか、と思えるほどだ。
だからこそ彼は、小さく頷いて、さっさと行くなら行け、と無愛想に言った。
「まっ、ま、待ってて! 美味しいの買ってくるから!」
彼の言葉にアイリスは弾かれるように家を飛び出し、街中を走っていった。石畳の目立つ場所を走るものだから、セリウスの中にある兄としての気持ちがふと呼び起こされる。躓いて転んでも知らないぞ、と胸中で溜め息を吐いた。
ハラハラと焦る気持ちなど、今となっては必要ないものだと分かっている筈なのに。
――アイリスの背を見届けた後、二人はふと向き合った。セリウスはぐっと顔を引き締め、「悪いな」と告げた。先程から見ていたアイリスの表情に耐えかねて、どうにかしてほしいと言ったのは他でもないセリウス自身なのだ。理由がどうであれ、彼は医者に礼を述べるべきなのだ。
彼の言葉を受け取った医師は、「いいや、女の子に見せるものではなかったね」と言いながら、セリウスの体に丁寧に包帯を巻いていく。白い色は次第に赤に染め上げられてしまっていて、「取り替えが大変だ」と呟いた。
それほどまでに重症なのかと、セリウスは小首を傾げる。すると、医者は呆れがちに溜め息を吐いて「現状が理解できていなかったのかい」と言った。
「君のこの傷ははっきり言ってかなり状態が悪い。初めて見たときよりは良くなってはいるんだがね……何より出血が酷かった」
雨で流れては止まらなかったからね。
――そう医者が告げると、包帯がほつれないよう留め具をした。繊維を引っ掻けて留めるなんて、動くのにも便利そうだな、何て思っていると――医師は告げる。「半年は様子を見よう。最低でも三ヶ月まで」と。
それに彼は、確かに顔を顰めた。
「長すぎる。留まってはいられない」
追われているんだ、とセリウスは言葉を続けた。明確な理由は話さない。そもそもこの街の人間には、自分の事情など話す意味はないのだ。ただ、動かないという選択肢がない旨を伝えて、男の言葉を待つ。
しかし、医者も医者だ。目の前の患者に「そうですか」と言って、動くことを了承するような人間ではない。彼の酷く疲れたような顔をじっと見て、「……ふむ」と考えるような素振りを見せた。
「ここから出たいんだね?」
「そうだ」
間髪入れずに答えたセリウスに、医者は彼が本気なのだと思わざるを得なかった。
――それでも、易々と逃がすわけにはいかないのだ。
「……まあ、私は医者だから怪我人は止めるんだがね……君は、助けてくれた恩人に、恩を返さずにここから出ていくと言うのだね?」
あくまで含みを持った怪しげな言葉に、ぴくりとセリウスの手指が動いた。
記憶が途切れる前の雨が降るあの日に、声を掛けてきたのは間違いなくここの家主だ。傘を差して外に出ていなければ、見付けられることもなかっただろう。極め付きは医者の話す、アイリスの行動だろうか。
彼女はあの日、倒れて意識を失ったセリウスに傘を預け、病院を訪ねてきたようだ。全身は酷い雨に打たれてびしょ濡れ。酷く慌てた様子で、目尻に涙を浮かべながら助けを求めてきたのだという。
「大変なの」、「お願い」――なんて言うから知人が酷い目に遭ったのかと思えば、そこにいたのは見知らぬ存在だったのだ。
見知らぬ他人にそこまでする義理があるのかどうかを考えたが、男も医者として怪我人を放置するわけにはいかなかった。お願い、なんて何度も言ってくる生娘の頼みも無下にするわけにもいかない。「大丈夫。何とかするよ」そう言って宥めてやった後、治療に専念したのだ。
意識のない男を世話するのは酷く厄介で、どうしたものかと医師は頭を捻る。特別大きいわけでもない病院で、四六時中世話をするのは手間が掛かるというもの。都会の方へと赴いて、そこで面倒を見てもらおうかと思案していた。
そこで、アイリスが言ったのだ。「私がお世話するわ」と。こんなに酷い状態の人を放って、大きいところに移すなんて、心配で堪らないと。
――こうして彼はアイリスの家で三日間深い眠りに落ちていたのだ。その頃の彼女は酷く不安そうだったのだと、医師は告げる。
「――それでも君は、ここから出ていこうと言うんだね?」
「…………」
釘を打つような医師の言葉に、セリウスはぐっと唇を噤んだ。ただ行くあてがなくて仕方なく家に置かれたなら未だしも、意識が戻るまで面倒を見てもらっていたのだ。独り暮らしの女が男に寝具を貸して、世話をしてくれていたというのに、礼もなく出ていこうなど考えられるものだろうか。
「…………それに治療費ももらいたいからねえ」
セリウスの顔を見て判断したのか、医者は道具を片付けながらぽつりと呟く。包帯は置いていくよ、とテーブルに真新しいものを置いて、にこりと微笑んだ。年相応の、優しげな初老の笑みだ。
彼は毒気が抜かれたような気がして、思わず痛まない手でぐしゃぐしゃと頭を掻いた。黒い髪が視界に入って、若干鬱陶しいなどと思ったのは言うまでもないだろう。
――すると、見計らったかのようなタイミングで、ぱたぱたと駆ける足音が近付いてきたのが分かった。
「ご、ごめんなさい! 遅くなっちゃっ……あら?」
買い物に出たアイリスが、茶葉を手に茫然と家の中を見つめていた。僅かに汗が滲んでいて、肩で息をしている辺り、余程急いできたのだろう。見知らぬ他人にここまでするものなのか、と思うと同時に、セリウスの良心が再び疼いた。
「折角だからいただこうかな」と医者は彼女の様子を見て、陽気に笑う。
「君も飲むだろう?」
コーヒーの方が好きかね。
セリウスの悩みなど、興味がないと言いたげな医師の姿に、彼は心が折れる音を聞いた。