水とタオルの入った桶からタプンと小さく音が鳴る。溢れるかと思って慌てるものの、万が一に備えて満タンではなく、少なめにしたのが功を奏した。夏場の水は随分と冷たく思えて、これなら汗も止まるだろうかと期待もしてしまう。
濡れたものとは別に乾いたタオルを片手に、ノーチェは閉まりきった扉の前でゆっくりと手を伸ばした。
「お疲れ様~」
「…………」
扉を開ける前に、きぃと音を立てて開いたそれを見て、ノーチェは茫然とする。目の前には自分よりいくらか背の低い女がにこにこと笑っていて、入れと言わんばかりに扉を開けているのだ。何の合図も出していないノーチェとしては、何故分かったのかが気になるところではあるが、部屋に入ることを優先した。
ぱしゃんと跳ねる水が溢れないように注意を払って、寝具の傍へと歩み寄る。寝具の上では終焉が酷く苦しそうに顔を歪めていた。寝苦しいのだろうか――堪らずタオルを絞り、水気を切った濡れタオルで額を拭ってやる。
すると、閉じていた瞳がゆっくりと開いた。
「…………平気なの」
ぽつりと小さく呟くが、終焉からの応答は返ってこない。余程体調が悪いのかと、ノーチェは思わず扉の近くにいるリーリエへと目を向ける。女は一度肩を竦めたかと思うと、にこりと笑って一言――
「じゃあ体拭いといてね」
――と言い放った。
「…………いや……アンタ何しに来たの」
リーリエの言葉に豆鉄砲を食らった鳩のような顔を仄めかせて、ノーチェは眉根を顰めた。リーリエ曰く「ちょっと食べるもの探してくるだけ」と言って、扉の向こうへと消えようとする。一体何をしに来たのかと問えば、リーリエは「様子を見に来たの」と言った。
なら、アンタが世話したらいいのに。――何気なくそう呟くと、女は軽く笑いながら「無理よ」と告げる。
「エンディアってば金髪の女嫌いなのよ」
だからよろしくね。
そう言って女は扉を閉めて姿を隠してしまった。取り残されたノーチェは僅かに目を丸くして、理解が追い付かないような顔をする。「金髪の女が嫌い」――その事実に頭を悩ませて、首を傾げてみせた。
じゃあ何でアンタと関わってんだ、と聞き損ねたことを後悔する。確かに身の回りには金髪など見かけないが、それが本当かどうかなと、一度聞いただけでは判断できなかった。
ほんのり溜め息を吐く気持ちでふう、と吐息を吐いて、彼は目線を終焉へと移す。男は変わらずにぼんやりと天井を眺めていて、息は荒く汗をかいている。今はただ、言われたことを優先するべきなのだろう。
「……体、拭くから。脱いで」
額からタオルを離し、ノーチェは小さく終焉に語り掛ける。重い――わけでもない体を起こしてやって、リーリエに言われた通りのことを実践しようとした。家主が不調では、居候のノーチェは何をすればいいのか分からないのだ。快復に向かわせることが、今やれるべきことだろう。
――しかし、終焉はただぼんやりとするだけで、丁寧に着ているシャツやベストなど脱ごうともしなかった。
脱げもしないのだろうか、と疑問が頭を掠める。
ノーチェは動きのない終焉にそうっと手を伸ばし、服のボタンへと手を掛けた。
「っ……嫌だ……」
「……?」
服の生地がノーチェの手を掠めると同時、終焉は小さく言葉を紡ぐ。まるで子供のように、普段とは違った様子でどこかを見つめながら、胸元で服を強く握り締めていた。
怯えるような素振りといえばそうなるのだろう。ノーチェは瞬きを数回繰り返した後、ほう、と息を吐く。普段自分がやられているように、ゆっくり、ゆっくりと終焉へ言い聞かせる言葉を紡いだ。
「……汗……拭かないと、悪化する。変なことはしないから……」
これ以上苦しくなってもしらないぞ。――なんて呟けば、終焉は茫然とした後、漸く目を覚ましたかのように瞬きをした。「……あ……? えっと……」と呟いてノーチェの顔を覗き込む様子は、事態を把握できていない人間の素振りとよく似ている。
じっくりと終焉の顔を見つめるノーチェに、終焉は押し負けるように服に手をかけた。
ゆっくりとではあるが確実に、着込んでいるらしい服を二枚程度脱いだ後、漸く露わになったのは汗ばんだ肌だ。風呂の一件ではまじまじと見ることはなかったが、男の体はしっかりと筋肉がついていて、腕はやけに逞しい。トレーニングをしているような様子は見たことはないが、普段から家事に専念しているのが体に表れたのだろう。
長い髪が汗まみれの体につくのが鬱陶しいのか、終焉は背中にある髪を何度も払うような仕草を見せる。これほどまでに鬱陶しいと思っているような表情は見たこともなかった。僅かに顔を顰める終焉は、髪を束ねるように手でまとめ始めた。
「……気持ち悪いなら背中から拭く」
「…………ん」
終焉の行動を見かねたノーチェは、手が届きそうにもない背中を優先すべきだろうと言葉をかける。存外彼の言うことに素直に従った男は、難なく背中を見せてノーチェに委ねた。
背が高いのが仇となっているのか、それとも単純に体調が悪いからか――終焉の背中は丸みを帯びている。湿ったタオルを押し当てると、びくりと肩を震わせたのが手に取るように分かった。
「……俺言ったろ……体調悪いんなら休めって」
「………………ん」
「アンタがそんなんだと、俺、何したらいいかわかんねぇから……」
沈黙に耐えきれる筈もなく、軽く会話を交えながら彼は男の背中を拭う。湿ったタオルに何気なく触れてみれば、そこにあるのはやはり冷たさではなく、微妙な温もりだった。ああ、この人にも体温があったんだ――なんて思いながら、彼はぽつりと言葉を紡ぐと、終焉が軽く俯く。
「……奴隷のような言葉を言わないでくれ」と、酷く悲しげに呟いた。
何故終焉が悲しそうな声色を出したのか、どうして俯いたのかは彼には分からない。ただ一人の人間であるという意識をしっかりと持ってほしかったのだろうが、生憎ノーチェは人権など剥奪されたようなものだ。
だからこそ彼は、こう言った。
「首輪がある限り、今はアンタのもんだよ」
多分アンタは許さないだろうけれど。
そう言ってノーチェは湿ったタオルを桶に戻し、乾いたタオルで終焉の背中をまた拭いてやる。その間にノーチェの言葉に反応はしなかったが、恐らく終焉は納得していない筈だ。
かくいうノーチェでさえも実際は嫌だと思うものの、首輪がどうにもならなければ意味がないのだ。彼はあくまで自分は奴隷であると、言い張るまでだった。
「……どう……多分、さっぱりしたと思うんだけど」
「…………ん……」
乾いたタオルで拭った後、ノーチェは終焉の顔をじっと見つめた。今は後頭部しか見えないものの、髪をまとめていた手が離れると同時に男の顔が振り返る。ほんのりどこか虚ろで、虚空を見つめるような目をしながら「…………有り難う」と小さく呟いた。
別に、大丈夫。ただそう呟いて前の方も拭こうかと手を伸ばしかけたとき、終焉が彼の行動を止める。手の届かない背中は任せたが、手の届く前は自分でやるというのだ。
それを裏付けるよう、終焉は桶へと戻された濡れたタオルに手を伸ばす。――だが、思うように力が入らず、絞りきることのできないそれをノーチェが代わりにこなした。「ああ……すまない」なんて男は呟いて、受け取ったタオルで懸命に体を拭いていく。その様子を――ノーチェはただぼんやりと見つめるだけだった。
傷が――まるで生傷のような傷痕が身体中に刻まれているのだ。切られたであろう場所だけ色が濃く変化していて、顔の肌とはまるで違った印象を受ける。背中にはひとつも刻まれていないことから、切りつけてきたであろう相手に、終焉は背中を見せることはなかったのだろう。
――やけに強い人だと思えた。狂気に立ち向かう、弱みのない強い人なのだと。
その間にも終焉は頼りない手つきでありながらも体を拭いている。腕や肩、腹回りの隅々まで。その中にある傷痕の中で、一際古い傷痕が、酷く気になってしまうのは気のせいだろうか。
――ぱたん。
そんな小さな音と共に、扉が閉じるような印象を受けた。
気が付けば部屋に入ってきていたリーリエが、不機嫌そうに目を細めて終焉を見ている。ノーチェには到底出せないあからさまな不機嫌さだ。隣では終焉がもそもそと服を着ようとしていて、咄嗟に「それ洗うから」と言えば、男は「そう……」と手を離す。
そうしている合間にリーリエは終焉の近くへと歩いてきて――「どういうこと?」と言った。
「食べ物らしき食べ物が全然ないじゃない! あるのは材料だけよ!」
私はお腹が空いたのに。そう言って女は頬を膨らませていた。
材料しかない、という点においてノーチェは頭に何かが引っ掛かるような感覚を覚え、ゆっくりと終焉の目を見る。終焉はぼんやりとリーリエを見つめていたと思えば、ノーチェの視線に気が付いて目線を下ろし、「仕方ない……」と言葉を紡いだ。
「……ノーチェの、誕生日だから」
「誕生日だからってろくなものも揃ってないってある!?」
「か……買い出しには行く予定だった」
「普通ならそこそこ食べるものある筈だけどね!」
あんた、どんだけ弱っていたのよ、と女は強い口調で終焉に言い放った。対する男は何も言うこともせず、ただ黙りを繰り返したまま。最早親に叱られている子供のような様子と光景に、彼は堪らず間に割って入る。
「一応、病人……」そう呟いて女を見上げていれば、リーリエははあ、と溜め息を吐いて「それもそうね」と肩を落とす。
終焉は相変わらずただぼんやりと虚空を見つめているようで、リーリエの叱咤など聞いてもいなかったのだろう。――というよりは、起き上がっていることが酷く辛く思えているのか、肩で息をする様子が窺えるのだ。
取り敢えず寝かせておくべきなのだろう。
彼はリーリエを宥めた後、部屋のタンスを軽く漁って、見慣れたシャツを手に取る。黒地でブイネックの七分丈の服だ。終焉はそれをやけに好んでいて、着ていないことがまずないと言ってもいいほど。特に就寝時は毎回欠かさないのだ。
「…………これ」
「……」
代わりに着ておいて、と言わんばかりに差し出してみれば、男は素直に受け取ってもそもそと服を着始めた。
恐ろしいほどの素直さにリーリエは「何か気持ち悪いわねえ」なんて口を洩らしていて、彼はそれを横目に見やる。特別何かを思っているわけではないが、あくまで自分を人として扱う終焉を、不躾な言葉で形容されるのは腹立たしかった。
その視線に気が付いたのだろう。女は肩を竦めた後、「悪かったわよ」と言って腰に手を当てる。これからどうしようかと思案を繰り返しているようにも見えた。口を挟むべきことではないのは承知の上だが、女が何を言おうとしているのか、ノーチェは気になって仕方なかったのだ。
終焉は寝具に転がった後、布団を目深にかぶってやけに寒そうに丸まっている。真夏だというのに異様な行動は、やはり体調の悪さからくるのだろう。
――何か。何かしてやれないだろうか。
――そう無意識に思っていると、リーリエがぽつりと呟いた。
「……エンディアの真似事でもしてみる?」