襲撃と怒り

「……あの……俺……」
「ああ、目が覚めたのか」

 ふ、と目を覚ましたノーチェの視界には、黒い髪が映り込んでいる。他には天井と、綺麗な顔立ちと、壁のようにすらりと伸びた終焉の体がある。ほんのり血生臭さが鼻を擽るような気がして、堪らず眉間にシワを寄せてしまった。――それでも男は嫌な顔ひとつせず、「気分はどうだ」と問い掛ける。

「疲れていたんだろう。話の途中で意識を失ってしまっていたよ」

 頭の下に妙な感触――柔らかいような、硬いような、上手くは言い表せない――があることに気が付き、そろ、と彼は手を当てる。ざらりとした綿混在の生地の手触り。幾重にも編まれた生地が、ノーチェの手のひらを伝う。
 そこで彼は、自分が終焉の膝で眠っていたのだと気付かされた。

「あ、あの、これは……」

 咄嗟に起き上がろうとしたのだか、終焉の手のひらが優しくノーチェの頭を撫でる。そのお陰で彼は起き上がるという行動を制限され、やむなく男の膝の上で寝転がったまま、ちらりと終焉を見た。
 終焉はやたらと優しげな表情のままゆっくりと彼の頭を撫で、やがて唇を開く。「持ち運ぶのを怠けただけのことだ」――そう言って、ノーチェを見下ろした。特別意図のない、平然とした態度である。
 終焉が言った言葉に彼は納得がいかず、眉根を顰める。

 確か終焉が死んでしまったところまでは覚えていて、何か話をしていたような気がするのだ。大切で、大事な話だった。そこまでは覚えているのに――肝心の会話の内容が少しも思い出せないのだ。
 まるで記憶を一部抜き取られたような奇妙な感覚だ。懸命に記憶の糸を辿ろうにも、辿った先にある筈のものが姿を現さない。胸にぽっかりと穴が空いたような、とはよく言ったものだ。不思議なことに記憶の喪失は、何かを失ったときと同じように、酷く気分の悪いものだった。
 疲れていた試しはない。昨夜も平然と、秋に入ってから少しずつ涼しくなっていく気温から逃れながら、相変わらず深い眠りに就いた筈だ。今朝から少しの眠気も感じられないほどの快眠だったのだが――、思うほど上手く眠れなかったのだろうか。

 ――ああ、変な気分だ。

 上手く頭が働かない、とはこのことを指すのだろう。何度も同じようなことを繰り返し考えていたが、結局は「何も思い出せない」の結論に至ってしまう。次第に何をどう考えていたのかも思い出せなくなって、頭が殴られるように痛んだ。
 考えるのをやめた方がいいのかもしれない、とノーチェは首を横に振りかける。――しかし、終焉の膝元にいたのだと思い出すや否や、彼は徐に体を起こした。
 男の制止を振り切って元の姿勢へ戻ると、漸く一息吐けるような安心感が胸に募る。考えるのをやめた頭は痛みも消えている。暫く小難しいことは考えない方がいいのだろう、とノーチェは軽く肩を落とした。
 存外残念に思う気持ちが沸々と沸き上がる。理由はやはり分からないが、何かを忘れているのは確かなのだろう。いつの日か思い出せたらいいなと思う反面、何も知らない方がいいのではないかと思う気持ちが顔を覗かせる。
 落ち着いている筈なのに、胸の奥がざわつくような不快感は彼を不安にさせるには十分すぎた。思わず首を横に振り、忘れることだけを専念した。三度頭が痛くなったと知られれば、次こそは終焉に寝かし付けられるに違いない。そうなれば体の自由など利かないに等しいのだ。
 堪らずちらりと終焉の顔を見やるが、ノーチェの考えとは裏腹に男は彼に対してろくに顔を向けなかった。微かに膝元を眺めていて、「残念だな」なんて呟いているが、あまり残念そうには見えない。ゆっくりと足を撫で、ほう、と息を吐く様は安心からではない。――疲労だ。

「……あの……」

 ノーチェは足元をじっと見つめる終焉に対してそっと声を掛ける。――だが、対する終焉はノーチェの呼び掛けに応えることもなく、ぼんやりと足元を見つめているだけだ。
 よく見れば男の目元が酷く疲れているように見えて、不思議に思いながら彼は服をつねる。くっ、と引っ張ってみて、漸く終焉はノーチェの顔を見た。

「……何だ?」

 冬の夜のように静かに、柔らかく微笑んだ終焉は小さく彼に問い掛ける。服なんて引っ張ってどうしたのかと。そのあと流れるように彼の頭に手を置いて、丸みを帯びた頭をゆっくりと撫でる。白く癖のある髪が終焉の指の隙間から小さく跳ねた。
 特に用があるわけでもない彼は、再び顔を横に振って「何でもない」と呟く。
 しかし、男の目元を見れば見るほどどこか眠そうに思えて、「何か、疲れてる……?」と問い掛ければ、終焉が納得したように一度目を閉じる。

「……疲れているよ。蘇生は、体力を奪うからな……」

 嘘偽りのない言葉なのだと、彼は本能的に感じ取った。そう思わずとも、終焉の目元や反応を見れば十分に分かる。男に言わせれば、蘇生は日常の中で最も疲労感を得るものだという。
 眠りが深ければ深いほど、傷が深いほどその分の蘇生と治癒には体力と共に魔力なんてものを消費する。傷が浅ければ浅いほど、蘇生と治癒に費やす体力と魔力は少なくて済むのだ。
 先程費やした体力はノーチェが目にしている終焉を見る限り、相当酷いものだったのだろう。終焉にとっての「幸せ」が、まるで本人を苦しめる罰かのように猛威を揮うのだから、彼は再び罪悪感を覚える。
 自分がいなければこの人はこんな目に遭わなかったんだ。――そう思わざるを得ない状況に、彼の中の死にたがりが息を吹き返したような気がした。
 今まで不思議と死にたいと思わなかったのが可笑しかったのだ。やはり自分はどうしようもない人間なのだと、ノーチェは小さく俯く。赤いソファーには影が小さく映り込んでいる。日は未だ高く昇り、静かな夜が来るにはまだ時間が足りなかった。

 唇を閉ざして黙る時間が刻一刻と募る。昼間だというのにまとわりつく空気がやけに重く、今すぐにでもその場から逃げ出したい衝動に駆られるほど。どちらが悪いというわけでも、終焉が悪いというわけでもないが、ノーチェはこの空気が嫌だった。
 男は相変わらずノーチェを見つめているが、どこか別の場所を見つめているような気がしてならない。彼の頭を撫でていた手は次第に疎かになり、――やがて眠るように動きが止まった。何気なく終焉の顔を見つめ返せば、僅かに落ちかける瞼に抗う様子が見られる。
 ノーチェを責めるわけでもなく、眠るか眠らないかの瀬戸際にいる終焉に、彼は考えることをやめるしかなかった。
 寝かしつけるべきか、放っておくべきかの選択肢がノーチェの前に現れる。死にたい云々の考えなど、また一人のときに繰り返せばいいだけのこと。今の彼にできるのは、今から終焉を休ませて夕方には声を掛けるか、夜まで耐えてもらうかの二択なのだ。

「……眠そう」

 ――そう試しに呟けば、終焉は投げ出しかけていた意識を拾い上げるかのように目を開く。咄嗟に首を横に振って、眠くない、なんて男は言う。普段よりも眉間にシワを寄せてはノーチェを見下ろすのだが、その目には強い疲労が見え隠れしているのだ。
 眠いなら寝ればいいのに。
 ――そんな気持ちを口に出しながら、ノーチェは赤いソファーから絨毯へ足を着ける。相変わらずの触り心地のいい生地が素足へ伝わるが、意識する間もなく彼は終焉の手を取った。
 どうも一度死んだあとは規制がいくらか弱まるようで、眠くないと駄々を捏ねる終焉の表情は不服そのものだ。
 だが、終焉が疲労感に苛まれているのはあくまでノーチェの所為なのだ。自分に責任があると自負している彼は半ば無理矢理終焉をソファーの上に横にする。寝具代わりにするには些か柔らか過ぎるような気がするのだが、男は大人しく自室へは向かってくれないであろうことを考慮してでの行動だ。
 その行為に自分のことを知られているような感覚に陥る終焉は、小さく頬を膨らませる。そうしたあと「むぅ」とお得意の唸り声を上げて、不満げな態度を取るものだから、彼は人差し指で終焉の頬をつついた。

「……アンタ、眠いと少し子供っぽくなるのな」
「そうか……?」

 存外男の頬は柔らかかった。
 言葉を交えたあとに彼は数回、終焉の頬に指を滑らせる。指先でも分かる肌の滑らかさはまさに女のそれだとも言っても過言ではないだろう。つぅ、と輪郭をなぞってから、ノーチェは「女みたい」とつい口を滑らせてしまった。

「…………女じゃない」

 数秒の間を置いてから、終焉がふて腐れたように彼の言葉へと反論を示す。不満げな表情がより一層不服に満ちたような色へ移ろう。小綺麗な睫毛の下から僅かに見上げるように瞳が彼の顔を捉え、獣の鋭さを置き去りに、人間のようにじと目を向けてきた。
 女だと言われることは苦手なのだろうか――。ノーチェは首を微かに傾げて不思議そうに瞬きをした。確かに女でもない、完璧のような男なのに、女と揶揄されるのは嫌なのだろう。かくいうノーチェでさえ、――生まれてこの方女だと例えられたことは全くないが――そういった扱いを受けるのは嫌だと思えた。
 「ごめん」そう小さく呟いて、彼は男の頭を軽く撫でてやる。さっきの仕返しと言えば、終焉は小さく笑って、「随分と可愛らしい仕返しだな」なんて言った。悪態のつもりなのか、ただの感想なのかはノーチェには判断がつかない。

「取りあえず何か掛けるもん、持ってくる。アンタは大人しくしてて」

 抵抗をする様子は少しも見せてはいないが、念のためノーチェは終焉に言い聞かせるように口を開いた。意外にも男は素直に頷いて、静かに立ち上がる彼の姿を目で追う。抵抗を見せないのは、あくまでノーチェに物理では押し負ける可能性があるからだろうか――。
 何にせよ、ノーチェ一人ではろくな家事もできやしない。少々時間が前後してしまう可能性があるが、終焉には少しでも仮眠を取ってもらうのが得策だろう。そのためには少しでも体を温め、且つ日の光を遮るものが必要だった。
 布団――毛布ではまだ暑すぎるだろうか。タオルケットでも十分だろうか。
 終焉が大人しく目を閉じて、ほう、と息を吐くのを見届けたノーチェは客間を後にする。柱に手をつきながら迷い、廊下の絨毯を素足で踏み締めた直後にふと違和感を覚えた。
 何気なく視線を投げた先にあるのは、赤茶色とも見える暗い色の扉だ。外と室内を隔てて、且つ何の気なしに自由に出入りができる唯一の扉。エントランスの床は大理石か何かを使っていて、夏場でもやけに冷たかった。靴はたったの二足しか並んでいないが、二人生きるのにそれ以上は必要がない。
 なんの変哲もない扉だ。時折来客が伺ってくるが、そのどれもが既に見知った顔――と言うよりは、一人くらいしか頻繁にやってこない。特徴的な足音は高く、よく歩けるな、などと何度も関心を抱くほどヒールの高いものだった。
 
 だからこそ彼はほんの少し、違和感を抱いていた。――扉の向こうからは、複数の足音が聞こえたのだ。
 
 気のせいであることを願いたい。何せ、彼は終焉の口から来客があるなどと聞いてはいないからだ。魔女リーリエが来ると分かれば、知らせがなくとも足音だけでも判断がつく。加えて妙に酒の香りが空気を漂って来るものだから尚更だ。
 警戒をするべきか、彼は頭を悩ませる。万が一、〝商人〟が相手であれば、彼にどうにかできる兆しはない。
 しかし――、疲れ切っている終焉を叩き起こすのも、ノーチェの中にある良心が痛みを訴えてくるのだ。

 ――万が一、あの人がまた殺されてしまったら。