――なんて考えている間に、大人しいノック音が二回、打ち鳴らされた。
迷う時間はもうない。律儀にノックをしてくる人間なら少しは話ができるだろう。
彼は重くなった足を引きずって、冷たいエントランスへと足を下ろす。鍵を掛けることはできるが、チェーンを掛けることはできない扉に微かに不満を抱きながら取っ手に手を伸ばす。もしも可能ならば、現家主である終焉に相談して頑丈にするのも悪くはないだろう。
話をして、帰ってもらって、起こして相談。
そう結論づけながら扉を押し開ける。――と同時に遠くから終焉が紡いだ「誰だ」という言葉を、ノーチェは聞き逃してしまった。
「……奴隷……?」
「――!」
ノーチェの視界に映るのは仄かに白い雲が量を増した青い空と、白くなびく、眩しいほどの服。胸元にあるのは煌びやかに輝く金の十字架。若い青年――ノーチェと同年代ほどの男が数人、不思議そうな目をして彼を見た。
奴隷の言葉にノーチェは驚いて目を見開く。向こうはノーチェの存在を知っているわけではないが、奴隷の存在は知っているようだ。彼らの目線にあるのは彼の顔ではない、首輪だ。
――対するノーチェも、彼らの存在を知っているわけではなかった。真夏の日差しのように眩しい白い服も。ここへ辿り着いた理由も。
一体何を目的に屋敷へ来たのかも、知らなかったのだ。
「……あの」
誰だか知らないけど帰ってほしい。
――そう言いかけて開いた唇は、目の前にいるある青年の表情を見て言葉を紡げなくなった。
驚きと戸惑いを指し示すような強張った顔。緊張が混じるように彼らの顔に汗が一筋伝う。何か恐ろしいものでも見てしまったかのような目付きは、ただただノーチェを見つめていた。先頭にいる男の他に数人が徐に口許を手で覆い隠したのを見て、彼は漸く気が付いた。
つい先程まで屋敷の中にいたノーチェは反応が遅れてしまう。数分前に彼は目の前で大量の出血を見たのだ。その頃に比べれば、屋敷内に漂う錆びた鉄の香りなど、気にも留められない程度だったのだが、彼らは全く違う。
彼らは新鮮溢れる空気を吸って、今しがた外からやってきたのだ。今この場にいる誰よりも香りの変化には敏感だった。
どうしよう――。どう説明するべきだろう。
少し前まで人が死ぬ姿を見送りました、なんて口に出せる筈もなく、彼は黙って男達の顔を微かに見上げていた。疲労した家主がいる以上、余計な問題は増やしたくなかったのだ。
すると――
「何だこの匂いは……きみ、どこか怪我でも負わされたのか!?」
「……は……?」
――目の前に立ち塞がる男が、ノーチェの両肩に手を置いて心配そうな顔で声を張り上げた。
突然の声量と、間違った解釈に彼は呆気に取られてしまう。控えめに開けていただけの扉は気が付けばこじ開けられていて、取ってはノーチェの手からは離れている。追い返す間もなく男は「もう大丈夫だぞ!」と言って、ノーチェの手を強く握り締めた。
言いたいことは多々ある。まずノーチェは怪我など一切負っていないということだ。この街に来てから殴られることはあったものの、屋敷内で暴力を受けたことなど全くない。寧ろ手当をされる一方で、死ぬような傷など負わされたことなどないのだ。
次に何故やたらと接触してくるのかということ。ノーチェ自身、終焉に触れられることを許していても、全く面識のない男達に触れられるなど、許した覚えがない。薄気味悪いと思いながら咄嗟に手を払うが、めげずに手を握るそれに嫌悪感を抱いた。
そうして、男達が勝手に話を進めている姿を見て、まともな話し合いなどできる気がしなかった。
「何、離して……」
「遠慮なんてしなくてもいい! こんな所に閉じ込められてさぞ辛かったろう」
行動が駄目なら言葉だけでも。そう思って堪らず抵抗を示したが、彼らは聞く耳を持たなかった。単なる人間相手に力を振るえるほどの気持ちはない彼は、ずるずると引き摺られるがままに外へと出てしまう。冷たい床から石造りの階段へ。
白い素足に小さな小石が刺さったようで、僅かに痛みを覚えたノーチェは顔を顰めた。
「恐らく彼が話にあった奴隷だろう」
「強奪されて何をされていたんだか知らないが、これでもう危険はないからな」
口々にノーチェの身を案じる言葉が投げ掛けるが、誰一人としてノーチェの言葉を拾い上げる人間はいなかった。一方的な善意の塊のような言葉は、彼の胸に強い不快感を募らせる。
一言で表すなら正義の塊のようだ。自分の考えは尤もであり、他の人間の言葉など自分の中の正義に一致しなければただの「勘違い」で収められそうな、「正義」の塊。酷く不愉快で、人の話など少しも耳に入れない人種だ。
試しにノーチェが「怪我もないし何もない」と言えば、男達はこぞって「そんな強がりはやめなさい」と言い始める。
四人――いや、五人の白い服の男達はこの屋敷に誰がいるのかを知っているような口振りで、ただ「無事でよかった」と何度も彼に言った。
無事とは何のことだろうか。
抵抗も虚しく、彼は黙って彼らの話に耳を傾けた。傾けて、沸々と湧き上がる妙な感情が胸の奥から顔を覗かせていることに気が付いた。
何せノーチェをそっちのけて展開されている会話は全て、〝終焉の者〟に対する悪意なのだと分かったからだ。
太陽が差し込む光の下に引き摺られながら、嫌な言葉を淡々と聞き入れてしまう。
――この屋敷の主人は悪逆非道だ。「噂」にある通り、沢山の不幸を招き入れた呪われた生き物だ。どうせ街に離れているこの屋敷に人でも攫って、痛めつけているに違いない。奴隷を攫ったのはきっと身元がはっきりとしていないから、好きなだけ好きなように甚振るのにうってつけだと思ったのだろう。
現にほら、沢山の血の匂いと奴隷が出てきたじゃないか。早々に始末するべきだ。あんな化け物は――。
確証はない。ノーチェに終焉との面識はない。――しかし、ここにいる誰よりも終焉については知っているつもりだ。
だからこそ彼は不快感を胸に、勢いよく捕まれていた手を振り払った。先程よりも明確な抵抗を示して、驚いて振り返った男の胸ぐらに掴み掛かる。耳元ではないどこかで囁く「こいつらを許すな」という言葉に従って、奴隷になって初めて明確な敵意を露わにした。
「アンタ達にあの人の何が分かるんだよ……」
どうして行動に表せたのか彼には分からない。ただ胸に募る不快感が、怒りだと分かった途端に衝動的に体が突き動かされたのだ。
奴隷になって、遣いとして生まれたことを後悔していたが、今となっては感謝しきれない。人一人を持ち上げられる程度の力が少しずつ男の足を地面から離して、宙に浮かせるには十分だ。
初めは呆気に取られていた他の仲間達は、捕まれている男が一度呻き声を上げると、咄嗟に「何をするんだ!」と声を張り上げる。――酷く耳障りな、怒声によく似ていた。
「俺は怪我もしてないし、甚振られた覚えもない。話を聞かないアンタ達が俺を何度『奴隷』と言っても文句ないけど、あの人を『化け物』って例えるのは可笑しいだろ」
少なくとも俺は、あの人に奴隷だって言われたことはない。
――そこまで言って、ノーチェは胸ぐらを掴んでいた手を離す。久し振りに力を振り絞った所為か、首輪の下が焼けるような痛みを訴えて仕方がないのだ。恐らくこれは、少しでも抵抗しようとしたときに罰を与えるための効果だろう。手を離して男を解放した途端、首元の痛みがなくなったような気がして、彼は額に滲んだ汗を拭った。
数回の咳き込みのあと、地面に尻を着いていた男は「それは悪かった」と小さく口を溢す。ゆっくりと立ち上がり、土で汚れた服を払い、漸く顔を上げる頃にはノーチェを可哀想なものを見る目で見ていた。
「可哀想に」
たった一言紡がれた言葉に、周りの人間達が小さく頷く。男の言葉と、それに対する同調が、ノーチェの首に施された首輪に向けられたものではないことは、彼でも分かった。
「化け物と一緒にいた所為で洗脳されてしまったんだな」
化け物と例えるな、と暗に示したつもりだが、伝わらなかっただろうか。
相変わらず自分の正義に酔い痴れる男は、彼が終焉の者に意識を洗脳されてしまったのだと片付けるに至った。先程から抵抗の意を示すのも、終焉を庇うのも、全ては洗脳によるものだと。甚振られてはいないが、どこかで頭を支配されてしまったのだと。
――それに彼は訂正を入れることはなかったが、口を開くこともなかった。妙な風が頬を撫でて、男達の周りを吹き荒れているからだ。
あれもきっと、魔法の類いなのだろう。
ノーチェは唇を噤んだまま、対立するように彼らへと向き合う。先程の善意が一変した。彼が終焉を庇っていると知るや否や、男達の目は敵意に満ち溢れるものになっていたからだ。まるで「自分が正しいと思っていることが否定されたこと」に怒り狂っているように見えて、言葉も通じないと悟ったからだ。
首輪がある以上、ノーチェに彼らをどうこうする術はない。しかし、終焉が休んでいる屋敷からは多少距離を置くことができた。これならば相手が怒りに身を任せたままノーチェを殺したとしても、その異変に気が付くことができるだろう。
――案外ここでの暮らしは悪くなかったな。
風が舞い落ちた木の葉を鋭利な刃物で切ったように、真っ二つにしたのをノーチェは見逃さなかった。
「仕方ない。モーゼ様には悪いが、奴隷は殺されてしまったことにしてしまおう」
そう言って男がノーチェに指を差したとき、頬に鋭い痛みが走った。
――と、同時に、後ろから引き寄せられるような感覚に襲われて、彼は目を見開いた。
ノーチェだけではない。――突然やってきた男達も同様に驚いたような表情をしていた。まるで、そこにいる筈のなかったものが目の前に現れたときのような反応だ。
それにノーチェは、手が震えた。
「――全く。面倒事を起こしてくれるな」
――その言葉を最後に、ノーチェは二度目の出血を見てしまったのだった。