賑わいに潜む嵐の前触れ

 夏を迎えて終焉が用意したのは生地の薄い風通しのいい服だった。男曰く半袖を用意しようと思ったものの、ノーチェの体にある傷痕を露出させたくない、という意向で相変わらずの長袖だった。未だに取れる兆しのない首輪の造りは他のものよりも遥かに特殊なのだろう――風呂に入ったとしても蒸れず、暑さを感じることがなかった。寧ろ冷たささえも覚えるほどだ。
 特殊な金属か魔法でも施されているのだろうか。ノーチェは首輪に指を当てながら、「服とかに活かしたら絶対に売れるのに」と心で呟く。夏の、特に昼間の日差しは暑く、いくら薄手の服を着ていても汗が体にじんわりと染み出るのだから、首輪に施された特殊なものを衣服に活用すれば人気が出るだろう。
 それすらも視野に入れない人間というものは、あくまで自分が優越感を抱いていたいがために奴隷を売り、買ってしまうのだろうか――。

「ノーチェ、こちらを向いて」

 首輪に手を宛がいながら茫然としているノーチェに低く抑揚のない声がひとつ。上から降り注ぎ、何かと彼が顔を見上げると、終焉の冷たい手のひらが彼の頬を包む。ぬるりとしていて、何とも言えない感覚が顔中に広がった。
 ノーチェは咄嗟に首を左右に振って終焉の手から逃れると、「吃驚した」と小さく呟いて顔に塗られたであろう何かを手の甲で拭う。すると、終焉が「取れるぞ」と言って懐から何かを取り出した。

「…………それは?」
「日焼け止め。リーリエの奴がしつこいのでな」

 終焉の手のひらに載せられる白いクリームが仄かに香りを放つ。それを手に馴染ませ、頬に塗る様子は日焼けを気にするただの人間だ。――しかし、終焉もまた面倒だと思っているようで、どこか鬱陶しそうに顔に塗る様は、化粧を嫌う男のようにも見える。
 リーリエの名を聞いたノーチェは、「ああ……」と納得するように溜め息がちに呟いた。

 森に住むと言われる魔女、リーリエは時折終焉の屋敷へ訪れてはお節介を焼く女だ。ブロンドの髪に赤いルビーのような瞳が特徴的の、黒いマーメイドドレスがよく似合う「魔女」の異名に相応しい女。それが夏の初めに屋敷へと押し掛け、化粧水のような見た目の容器をぐいぐいと終焉やノーチェに押し付ける。

『いい!? 日焼けは美容の大敵よ! あんた達は特に肌が綺麗ですっごく腹が立つんだから、シミや日焼けなんてしたら許さないからね!?』

 二人が言葉を挟む余地もなく、用事を済ませたリーリエは「またね~!」と手を振ってすぐに家路に就いた。腹が立つというのに褒めてケアをしろと言ってきた女にノーチェは理解が及ばず、思わず終焉に「あの人何なの」と問い掛ければ、男はどこか遠くを見るような目でリーリエが去った方を見つめ――

『……何なんだろうな』

 ――と呟いた。

 押しが強く厄介な女ではあると思うノーチェは渋々日焼け止めを塗ると、終焉の姿をまじまじと見つめる。――やはり終焉はお決まりの格好をしていた。
 黒地に白のラインが目立つ裾の長いコート。フードにこさえた灰色のファーが柔らかく、風が吹く度に先がふわふわと揺れる。直接ボタンなどで留めるわけでもなく、ベストを見せるように開かれたコートにはささやかに逆十字の留め具が施されている。
 終焉は「やはり私らしくなくては」と言うように満足げに頷いて、フードを頭にかぶせる。更には両の手をコートのポケットに入れ始めてしまった。――勿論、その手は黒い手袋に覆われているのだ。
 一言で言い表すならば、ただただ暑かった。
 終焉を見つめるノーチェは自分の体にじわりと汗が滲むのを感じて、思わず眉を顰める。首輪が冷たくて心地がいいとさえ思えるほどの熱を、太陽ではなく、終焉の姿を見て感じてしまった。当の本人は特に暑がる様子もなく、仰々しく空を見上げては煌々と照り付ける太陽を睨む。口癖のように「忌々しい」なんて呟いて、ふ、と顔を逸らした。
 自慢の長い黒髪は衣服の中に隠れているのだろう。男はフードをこれでもかと言うほど目深にかぶって、深く溜め息を吐く。

「…………見てて暑い……」

 耐えきれずノーチェが誰もが思いそうなことを言うと、終焉は瞬きをして「そうか?」なんて言った。

「むぅ……私は人間ではないから、人間とは体温感覚が違うんだろうな……」

 終焉は口許に手を添えて考え込む仕草を取る。私には丁度いいんだが、なんて言って悩む姿はまさに人間そのもの。人間ではないという箇所を強いて言うなら血液の色と、〝命〟と体温程度だろう。それ以上の何かが男にはあるのかも分からないが、ノーチェは遂に追求することをやめて「あんま気にしないで」と小さく呟いた。
 ろくでもないほどに容赦のない太陽に生温い風。今ではその生温さも涼しいとさえ思えるほど彼は汗に濡れていて、思わず手を扇ぐ。少しの風の当たる量が増えるわけではないが、最早この行動は衝動的なものだろう。

 「暑い……」思わず呟いた言葉が終焉の耳に届いたようで、彼の背後から名前を呼ぶ低い声が聞こえる。ノーチェはそれに徐に振り返ってやると、終焉の体が――正確にはコートに隠れた体が――頬にぶつかった。
 突然の熱に足元がふらついたのかと思い、彼は咄嗟に謝ろうとしたが、自分がふらついていないのだと知るのに然程時間はかからなかった。徐にノーチェの後頭部に添えられた手がぐっと終焉の体に顔を押し付ける。その手の感触に素手独特の冷たさは感じられず、布の生地が後頭部をざらりと撫でるような感覚がした。
 ふと男が手袋をする理由が相手に冷たさを与えないためなのではないか、とノーチェは思う。人間にとって終焉の素肌はまるで死人で、相手に驚きを与えかねない。そういった衝撃を与えないよう工夫を凝らしたものが、手袋やコートなのだろうか。
 ノーチェは体に顔を押し当てられたことに対し、ぼんやりと終焉を見上げて顔を見る。フードをかぶる終焉はノーチェをじっと見下ろしていて、その顔に汗のひとつも流れていないのが特徴的だった。

 ああ、なんて涼しげな顔をするんだろう――そう思ったのも束の間。ノーチェは自分の体感温度に多少の変化が現れたことに気が付き、徐に自分の手のひらを見つめる。何の変哲もないただの手のひらではあるが、ノーチェ自身は確かに感じているのだ。――つい先程まで感じていた暑さが拭われたことに。

「…………どうだ?」

 じっとノーチェを見下ろしていた終焉がふと彼に問い掛けた。男はノーチェが涼しさを感じている原因を知っているのだ。「多少変わると思うのだが」と呟かれた言葉はまるで自分の所為で感覚が変わっていると言いたげだった。
 確かにノーチェは涼しくなった。風をまとったかのような、触れられている頭から地面に面している足先まで、妙な心地よさを覚えているのだ。夏に吹く風など非にならないそれは、春や秋に感じる心地よさと同じで、ほう、と彼は吐息を吐く。

「何か……涼しい」

 徐にノーチェがそう答えると、男は一度目を閉じて「そうか」とだけ言った。

「街の方は人で溢れているからな、更に暑さを感じると思うぞ。夏は接触をお勧めする」

 そう言って終焉は自分から触れていた手を離して主導権をノーチェに譲る。このまま押し付けるわけにはいかないだろう、なんて言ってノーチェを体から離すと、彼の動きを待った。その瞬間にノーチェの体をまとう涼しさが消え失せ、湿気をまとう熱気が体の内側から這いずるように出てくるのだ。
 ノーチェは思わず頬を伝う汗を袖で拭い、ちらりと男を見上げる。終焉は相変わらずノーチェがどんな動きを取るのか観察しているようで、ノーチェをただ黙って見下ろしているだけだった。

「…………屋敷じゃ、あんまり暑くなかったのに」

 そう呟いてノーチェは終焉の手を取る。控えめながらも小指だけを手のひらに包むと、そこから涼しげな風が吹くような感覚に陥った。終焉はどこか退屈そうな目でその手を見つめていて、納得がいかないようにむぅ、と呟く。手を握ってくれても構わないのに、なんていう言葉が聞こえてきそうで、ノーチェは思わず目を逸らした。
 屋敷から離れるように終焉が歩き出すと彼もまた倣うように歩を進める。ノーチェの疑問に答えるよう、街へと歩きながら男がポツリと語った。

「屋敷は私の『領域』だから」
「……領域?」
「…………そう。謂わば縄張りのようなものだ」

 だから屋敷が涼しいという理由の裏付けにはならなかった。
 それ以来終焉は口を開くことをやめて、ノーチェに歩幅を合わせながら歩いていく。結局何故涼しくなるのかは分からないが、これもまた魔法の類いなのだろうと決めつけたノーチェは疑問を持つことをやめた。
 どこを歩いても若草だった緑が深く色付き、夏の息吹を感じさせる景色をぼんやりと眺めながら歩く。時折ポツポツと立つ街灯に虫がついては鳴き喚いていて、耳を押さえたくなる衝動に駆られるのだ。ちらりと何気なく終焉を見やると、何に対しても動じることがなくただ前を見据えているのがフード越しでもよく分かる。
 普段から無表情でいる人物は何においても動じることがないのだろう。ポーカーフェイスというやつだろうか――それくらいできていれば奴隷商人に不意を突かれなかったのかと、ノーチェはぼんやりと考えて小さく息を洩らした。終焉の気も知らないで小指を握る手に僅かに力を込める。――すると、男が何かを思い出したように「そうだ」と声を発した。

「言い忘れていたが、夏と秋は犯罪率が格段に上がるのだ。街に入ったときは何がなんでも私から離れないでくれ」

 振り返ってノーチェの顔を見た終焉の表情は真剣そのものだった。伏し目がちの目は相変わらずの無表情を湛えているが、よく見れば眉根が僅かに寄せられ、眉間に微かなシワを刻む。声色は普段と変わらないようでほんの少し低く思えたのは気のせいだろうか。
 一般的に言う犯罪率が上がる時期というのは春麗らかな日和と、夜の時間が延びる冬の時期ではないだろうか――。ノーチェは小さく首を傾げ、「何でその時期なんだ……?」と終焉に問い掛ける。活気のいいルフランならば犯罪など、周りの人間達の手で食い止められそうなものだろう。いくつか路地裏があるようだが、そこにさえ入り込ませなければ犯罪は抑制できるのではないだろうか。
 そんな彼の意見に男は「もっともだが」と呟くが、徐にノーチェの手を掴み、空いている片手を彼の頬に添えて、「理屈など関係ないのだ」と言う。
 手袋越しだというのに、先程よりも遥かに終焉の冷たさが頬に伝うような感覚に陥った。

「この街は〝光明〟と呼ばれているが、同時に〝晦明〟でもあるのだ。そして、夏や秋は祭り事がやたらと多く用意されている。この街は〝教会〟に支配されていると言っただろう……? 言いたいことが分かるか?」

 ルフランは〝教会〟に支配されている――それは、街の安全を〝教会〟が保証しているということだ。警察のようなものよりも遥かに優秀で、力や存在も認められた、人々から信頼を得ているひとつの組織。それが犯罪を抑制していると男は言う。
 勿論、ノーチェもその事実は僅かながらも理解していることだった。春の暦、花達が背筋を伸ばして凛と咲く季節――忘れもしない一瞬の出来事を彼は未だ昨日のように思い出せる。あのときに助けに入ったのは確かに〝教会〟の人間らしいが、そこまで重要な機関だとは思えないのだ。それでも大きな街を支配できるというのだから、何かしらの秘密でも抱えているのだろう。

 一瞬の拉致を許してしまったことを男は悔いているのだろうか、それともまた別の理由があるのだろうか――街に入る際は片時も離れることのない終焉が、強く「離れるな」とノーチェに言い聞かせる。頬に手を添えるだけでなく、額を合わせてくるのだ。

「……あのときのように消えられては困るのだ」
「…………アンタは俺に、殺されたいから……?」

 長い睫毛が印象的だと思いながら、ノーチェは何気なくポツリと呟いてみせた。しかし、終焉はすぐにそれを否定して――というよりは曖昧に濁して――「愛しているから」と恥ずかしげもなく理由を述べる。

「愛しているから、手離したくないんだ」

 アンタ本当に恥ずかしい奴だな、なんてノーチェが顔を引きながら突き付けようとした。――と同時に終焉が唇を開き「だから連れ去られてしまったら、」と続きを紡ぐ。彼は邪魔してはいけないと咄嗟に唇を噤み――どきりと跳ねる心臓が気持ち悪いと心中で悪態を洩らした。

「――ノーチェ以外の人間を皆殺しにしてしまうよ」

 背筋を走るゾクリとした悪寒は明らかに終焉に対する警戒の意志を持っていた。瞼の裏に隠れていた男の瞳は獣のように鋭いだけではなく、嘘偽りのない固い意志を瞳の奥に宿している。フードをかぶっているのが裏目に出たのだろうか――、影が差すその顔付きは、ノーチェが一度見た終焉が蘇生した後の表情と酷似しているようだった。
 涼しく汗のかいていなかった筈の体に、じわりと染みるのは熱によるものではないのだろう。走った後のような心臓はひたすらに鼓動を繰り返していて、ノーチェは自分の頭に血が上らない感覚を覚える。足元がふらつくような――首の周りをいつ切れても可笑しくない縄で絞められ、吊り上げられた挙げ句、ぽっかりと空いた穴に落とされてしまうような奇妙な感覚。血の気を失い、呼吸が僅かに乱れるのが彼自身もよく分かっていた。
 自分に向けられたものではない筈なのに、本能が「逃げろ」と警報を鳴らす。――しかし、終焉の威圧感は意志を持つ動物の行動を縛るようで、一向に動かない足に彼は意気地無しだと自虐を胸に募らせる。
 ――そう、何ひとつ勇気が出ないから、遠い昔に思えるあの頃のように体が動かないから、彼は今奴隷としての人生を迎えてしまっているのだ。

「…………冗談だ」

 不意に終焉がノーチェの体を引き寄せて頭に手を置いた。柔らかくなった毛髪を撫でるように、上から下へ。子供をあやすような手付きで撫でて、低く心地のいい声色で「大丈夫」と言う。以前と何ら変わらない声はただ大丈夫とだけ言って、ノーチェの呼吸を落ち着かせるには十分だった。
 先程の雰囲気のどこが冗談だと言えるのだろうか。

 ノーチェは頭を撫でて落ち着かせてくる終焉に「もう平気」と呟くと、男が惜し気もなくゆっくりと離れる。顔色が戻ることはなかったのか、「悪かったな」なんて言ってそっぽを向いてしまう様子は、嫌われることを覚悟しているかのようなものだった。
 ――だが、どうだろうか。威圧感を与えられるノーチェは確かに終焉が恐ろしいとは思うことがあるのだが、不思議と嫌いだとは思えないのだ。まるでずっと前から知っている馴染み深い存在に抱くような、友達や親友、または上司と部下――恋人未満に抱くような感情に最も近いものを彼は覚えている。
 脳ではなく、体が終焉に対する見知らぬ感情を憶えているのだ。
 その違和感は〝教会〟に属しているらしいヴェルダリアや、森に住むリーリエが与えてくる違和感に近かった。もしかしたら、物心つく前の――もしくは物心ついたばかりの――小さい頃に終焉と出会っていたのかもしれない。
 ノーチェは違和感を胸に押し留めて離れたばかりの終焉の手を小さく握った。それに男が驚くようにノーチェの顔を見てくるのだから、可笑しな話だ。

「……買い物……行くんだろ……」

 眩しいし早く行こう。そう終焉に伝えるノーチェには男に対する嫌悪の欠片も見当たらず、太陽の眩しさを防ぐ術もないから早く帰りたいという意志が伝わる。それに終焉は目を逸らして、「……そうだな」と小さく言葉を洩らした。