赤い炎は揺れ踊る

 ――温かい。

 そんな感覚でふと目を覚ます。懐かしい記憶を夢に見ていたようだが、どうにも思い出せない。ここ最近ではやたらと古い記憶を掘り起こされているような気がして、彼はぼんやりと自分の手元を眺めていた。
 ここはどこだったかと、不思議な疑問が湧き上がる。それと同時に動かしにくい体に疑問すらも覚えた。
 秋までの記憶はあった。焦点の合わない目で手元を見つめているが、これが本当に自分のものかを彼は疑う。確か――そう。教会の前で焼き芋なんてものを押し付けられた記憶はあるのだ。
 だが――、そのあとの記憶がどうにもうろ覚えで。彼は鈍い腕を僅かに動かして、額を押さえながら小さく呻く。
 温かいような、寒いような――酷く不愉快な感覚に堪らず顔を上げると、彼は言葉を失った。

「――……レイン……?」

 大嫌いな雨の名前をつけてしまった。何となくでつけてしまったその名前にほんのり罪悪感を抱きながら、彼は近くにある見知った顔を見つめた。
 〝教会〟で身近にいた女が妙な近さで小さく微笑む。その顔色は酷いもので、目の下には隈があり呼吸は疎らだ。彼女に食事の概念は存在しないものの、睡眠はとても重要で、レインの顔色を窺った際にその異常性には嫌でも目が行ってしまう。
 まるで一睡もしていないかのような酷い顔色だ。女と思えないほどの疲れきった顔は、彼が今まで一度も見てきたことがなかったほど。
 つい先程までは健康的だった筈なのに――あまりの豹変に、彼は言葉を失った。

 ――「先程」って、いつだった……?

「何……何やってんだ……お前、やめろ」

 妙な距離感に回された腕。彼は、漸く自分が彼女に抱き締められていることに気が付き、咄嗟に腕を払おうと試みる。
 胸が当たっているだとか、顔が近いだとか――、普段のレインからすればすぐにでも恥ずかしそうな素振りを見せるものだが、彼女は首を横に振った。
 「いいえ」たったその一言だけが力強く唇から紡がれる。

 レインは体内に残る力の全てを彼に分け与えるよう、周囲を暖めている。まるで、彼の頭や体の芯を温めようと一心に魔力を溢し続け、彼は動揺を隠せない。
 そのまま彼は静かに周囲を見渡して――漸く事態の把握をした。
 辺り一面は氷だった。青や水色、ほんのり紫がかったような綺麗な結晶ばかりが周囲を凍てつかせている。まるで今いる一室だけが別の世界にでもなってしまったかのような光景に、彼の頭は痛んだ。
 何か固いもので頭を力強く打ち付けられたような痛みに、彼は歯を食い縛る。
 天然ではなく人工的な氷の塊。明らかに異質な部屋。彼はこの場所をよく知っていて、ゆっくりと目付きを変える。
 明確な敵意を向ける場所は決まっていた。

「……よお……モーゼさんよ……」
「やあ、元気そうじゃないか。ヴェルダリア……気分はどうだい?」

 くすりと微笑む男の顔に彼――ヴェルダリアは舌打ちをひとつ。何があったのか、何が起こっていたのか。空白だった記憶が少しずつ戻っていくような感覚に、彼はもどかしささえも覚えた。

 モーゼは相変わらず地下室に氷を広げ、棺桶を守るようにバラを幾重にも敷き詰めていた。特別なことがなければヴェルダリアでさえも入りたがらない一室に、男は常に入り浸り、それを眺める。棺の中で眠る「それ」は目を覚まさないというのにも拘わらず、語りかけ続ける様は非常に不気味なことこの上ない。
 そんなモーゼに彼は、頭の中を直接凍らされ、部屋の中に押し込まれてしまった。

 〝終焉殺し〟の異名を持つヴェルダリアの存在は、モーゼにとっては非常に都合がいい存在だ。言い伝えによって忌み嫌われている〝終焉の者〟を殺しさえすれば、〝教会〟は今以上に名声と厚い信頼を得られる。
 その結果――、モーゼが何か悪さをしたとしても、「〝教会〟の人間がそんなことをするわけがない」の一言で全てが片付いてしまうのだ。

 ――しかし、ヴェルダリアを都合よく扱うにはそれ相応の時間が必要だった。
 何故なら彼は人間が好きではないから。誰かの下に就こうなんていう考えがこれっぽっちもないからだ。
 そうなってしまっては漸く見付けた〝終焉の者〟が、再び姿を眩ませかねない。ルフランの平穏を維持する為には、〝終焉の者〟の死が絶対条件だ。
 その上モーゼは見付けてしまったのだ。黒の予言書に書かれている事実を。追い求めていた唯一のものを。
 それを手に入れる為には、誰よりも早く手にする為にはやはり――ヴェルダリアの力が必要だった。

 しかし彼は従順ではない。ならばどうするべきか。頭を捻り、思い付く限りの考えをまとめた。その中でモーゼが得意とするものは頭の中を軽くいじること。
 つまり洗脳を施してやるということだ。
 我の強いヴェルダリアを支配するためにはどうするべきか。そう思い悩んだときに、男はふと、目元に手を当てる。
 ときに悪意は人に妙な自信を与えるものだと、何度思ったことだろうか。
 頭を凍らせてまともに機能しなくなった彼に、新しい知識を与えようと思った。燃える意思を無理矢理閉じ込め、新しい炎を焚き付けてやろうと思ったのだ。

 ――しかし、それは失敗に終わる。

 ずきりと痛む頭を抱えながら、未だにろくに動かない体をどうにかしようと、彼はもがいた。華奢な女一人に抑え込まれるほど力が振り絞れないことが、酷く不快だった。
 だが、そんなヴェルダリアを差し置いてモーゼは「予想外だった」と呟く。

「レイニール、君が私の邪魔をしてくるとは思わなかった。君はとても従順で、賢くて、間抜けで、か弱い女だと思っていたんだ」

 なんてことをモーゼは微笑みながら言った。ほんのり困ったように眉尻を下げているように見えるが、とても困惑しているようには見えない。
 寧ろこうなることが分かっていたような口振りだ。

 君が普通ではないことは分かっていたけれどね。――そう言ってモーゼは後ろ手を組む。
 ――不意に、ヴェルダリアの耳元に何かが割れるような音が聞こえた。パキン、とまるで固いものがひび割れたような小さな音は、すぐ近くで鳴る。その後に床に落ちるような音がして、彼はそうっと視線を落とすと、見知った赤の欠片が溢れ落ちていた。

 透き通るような赤。燃えた形跡のある輝き。それが、レインのものであることを、彼は知っていた。

「おい、お前、これ」

 先程からどうにも動揺が隠しきれない。
 ヴェルダリアは咄嗟にレインに向き直ったが、彼女はそれを制した。まるで子供を抱き留める母親のように彼をぐっと抱き締め、小さく笑ったのだ。

「主様」

 それは、彼女がルフランへ来て一度も言えなかった言葉だった。
 酷く耳触りのいい言葉だ。氷が溶けて温かさが体に染み込むような言葉に、彼は口を開けたまま呆ける。

「今までご迷惑をお掛けしました。私、暫くお休みさせていただきます。きっともう、寒くなることはありません。私を探し回ることもありません」

 今までに聞いたこともないようなはっきりとした口調に、彼は疑問ばかりが浮かぶ。
 彼女の体にある宝石は力の結晶だ。ひとつひとつに強い魔力が込められていて、どれだけ弱ろうが砕けることのない、特別なものだ。
 それが、あろうことか見るも無惨に――袖口から溢れ始めてしまっているのだ。

「……何だ、それ……」

 何を馬鹿なことを言ってるんだ、と彼は呟いた。まるで別れのような言葉に混乱しているのは、他でもないヴェルダリアだった。今まではいくらでも離れてしまえと思っていた筈なのに、いざその時が来てしまうと酷く焦る自分がいる。
 レインに情が移ってしまったかのような現状に、彼は事態が呑み込めなかった。

 そんなヴェルダリアに彼女はくつくつと笑い、漸くその手を離す。離れた手の隙間、袖の間――白い肌から溢れ落ちる赤色の結晶が、いくつも床に落ちていった。
 酷く窶れたような顔をしていながらも、レインは笑みを絶さなかった。普段の困ったような笑い方も、少女のようなふて腐れた顔もせず、淑女のように微笑むのだ。

「お前何したんだ……つか……首輪、どうした……?」

 レインには命令に逆らえないよう、普段から首輪をつけられていた。俗にいう奴隷のために用意されたものだ。
 それは〝ニュクスの遣い〟に施すものとは多少異なり、意欲から始まる様々な活力を奪うものではない。彼女に与えられていたものは力を抑制させておきながら、たったひとつ盟約を交わさなければならないものだった。
 それがどういうわけが姿もなく、あるのはいつの日には与え、巻き付けられたままの白い包帯だけだった。

 彼の動揺にレインは瞳を瞬かせた。ぱちぱちと、数回の瞬きが落ちる。そうして彼は初めて知った。彼女の瞳が髪の色と同じよう、赤と青の炎が揺れるように時折瞳の色が変わることに。赤や、紫が僅かに存在を主張する。

 ――こいつは、こんな顔をしていたっけ。

 絶えず湧き上がる疑問に彼は自分らしさを見失った。行き場を失った彼の手はゆっくりと空を切ってから、床に落ちる。その際に赤い破片がちくりと手のひらに刺さった。

「主様。今生のお別れではありません。私はちょっとお休みするだけです。その間の貴方はもちろん契約なんてものに縛られません」

 そう言ってレインはゆっくりと立ち上がると、ヴェルダリアに背を向けて前へと立ち憚った。向こうにいる筈のモーゼが「おや」と小さく声を上げたのが、彼の耳にも届く。
 華奢な女に守られている、という状況で情けなく思える状況だ。それなのに、ヴェルダリアはその背中がとても大きく見えて、茫然としていた。

 立ち憚るレインが肩越しに小さく彼を見る。そうして、ヴェルダリアの周囲が少しずつ暖かくなってきたかと思うと――唐突に炎が灯った。
 ごう、といやに強い炎の発火音が鳴った。すると、モーゼの薄笑いが漸く歪む。
 それは、レインの背後にいるヴェルダリアの周囲を張る氷を全て溶かし尽くそうとする、強い炎だった。

「主様は寒いのがお嫌いでしょう。温めておきます。どうか、ご自身の意志を大事にしてくださいな」

 そう言って軽く笑ってから、一歩、また一歩とモーゼへ歩み寄る。その姿を見て彼は漸く口を動かし、どこに行くんだ、と言った。
 しかし、彼女がそれに反応を示すことはない。じゅうじゅうと妙な音を立てて溶け崩れていく氷が酷く厄介だった。強い熱が寒さを拭い取るが、同時に嫌になるほどの熱を与えてくる。

 ――見くびっていた。女だからと、何もできないと。

 その動揺はモーゼも同じようで、一歩一歩近付いてくるレインに強い嫌悪感を抱いているようだった。
 彼女が歩く度に足元の氷がみるみるうちに溶けていく。まるで、彼女自身の怒りを再現しているかのような熱に、男が「やめてくれないか」と小さく、小さく口を洩らした。

 そして――レインは人の形を失った。

 ぱたり。氷の上に小さな体が落ちる。あれだけ輝いていた炎は瞬く間に勢いを失い、最後にはヴェルダリアの目の前で静かに消える。
 氷の上に残った獣は息をしているのか、していないかも分からない。ただ、炎のような煌めきも、宝石の数々も、どこにも見受けられなかった。

「……いやぁ、驚いた。ここまでしてくれるとは」

 静かな空間を割くように先に口を開いたのはモーゼだった。
 男は氷の上を器用に歩き、倒れたレインの体を拾い上げる。成猫程度の大きさのそれは、小さな寝息を立てているようで「死んでいないのか」と男は言った。

「…………何してんだ」

 漸く口を開いた彼から絞り出せた声は、笑えるほど小さなものだった。

「ああ……言っていなかったね。一種の契約さ」
「…………何だと?」

 モーゼ曰く、彼女はいざヴェルダリアに手を出そうとしたときに間を割って入ってきたのだという。
 酷く気弱で、口数の少ない筈のレインが、強くモーゼを睨み付け、初めて牙を剥いたのだ。
 ――薄々、この二人の関係は気が付いているつもりではあった。契約関係にあった、ということだけが予想外であっただけで、親密な関係であることだけは分かっていた。
 だから、彼女が身を挺して彼を庇い、治すために首輪を外してくれと懇願することも、ある程度は予想していたのだ。

「私はね、言ったんだ。『そんなに言うなら君が彼の人質になるかい? 君が人質になれば彼は私の思い通りに動いてくれる。しかし、彼が君に何の未練もなければ、君は捨てられてしまうけれど』と」

 小さな体を持ち上げて、撫でるように手を重ねる。その姿は死を慈しむ神父そのものに見えたが、ヴェルダリアには不快なものでしかなかった。
 触るな、と言いかけた口が途中で止まる。今の自分にはそんな資格はないのだと、咄嗟に言葉を呑んだ。
 そんな彼の様子を見かねて、モーゼは「何もしないよ」と言う。

「言っただろう、人質になってもらうと。君にとって彼女は『大事なもの』なんだろう?」
「――ッ!」

 酷く、酷く優しい言葉だった。それがヴェルダリア本人を小馬鹿にしているものだと知っていたが、手を出さないことにやけに安心感を抱いた。
 それと同時に――酷い頭痛が彼を襲う。こめかみに走る深い深い痛み――まるで偏頭痛のような気味の悪いそれに、ヴェルダリアは頭を抱える。

「……どうしたんだい。私は何もしていないが」

 珍しく身を案じてくるモーゼの言葉が、ノイズと耳鳴りの間を縫って入ってこようとしたのは分かった。だが、「分かった」だけで、彼はその言葉を満足には聞き入られなかった。
 痛みと、耳鳴りが強くなって、堪らず呻き声を上げると、ノイズに混じって何かが聞こえてきたような気がした。
 ――いや、思い出した・・・・・のだ。

 ――貴方の一番大事なものを奪ってあげる――

 ――はっ、として、彼は浅い呼吸を何度も繰り返す。はあ、はあ、と肩で息を吸って、目眩をどうにかしようと目を細めた。
 言葉の意味を知ってからでは何もかもが遅い。
 そう、思いながらぐっと歯を食い縛る。自分自身を過信していたが、今回ほど無力であると知らしめられるのは屈辱でしかなかった。

 だから彼は人間が嫌いだ。優劣をつけたがる人間が。寄って集って弱者を痛め付け、弱点を突いてくる人間が。
 そうして、自分自身も例に漏れずそんな人間であることを、強く理解した。

「……くそ……!」

 他人相手に悔しい、と思ったのはこれが初めてだった。
 彼は氷が溶けて露わになった床に拳を叩き付ける。感情的な行動を取ることは全くなかったが、胸の中を、腹の中を渦巻き続ける妙な感情の処理ができなかったのだ。

 どこにぶつければいい、この苛立ちを。渦巻くほどの憎悪を。噎せ返るほどの殺意を――。

 ――なんて考えていると、ふと、自分の足元に赤く煌めく欠片を見付けた。
 先程の業火で大半のものは吹き飛んでしまったというのに、その欠片は力を蓄えたまま彼の足元で煌々と瞬き続ける。それは、時々少女のように笑う彼女の微笑みによく似ていた。
 彼はその輝きに引き寄せられるように手を伸ばし、そうっとそれを掴む。
 そして――何を思ったのか、赤く煌めく欠片をゆっくりと口の中へと運んだ。

 ガリ、と噛み締めたそれは、キャンディのような固さがあった。

「…………おや、もう平気なのかい」

 不意にモーゼがヴェルダリアに話し掛ける。その手元には静かに眠るレインの姿があった。やはり、炎のような煌めきはもう見受けられない。

 ――大嫌いだ。何もかも。〝終焉の者〟も、モーゼ・ヘルツローズも、あの女も、自分も。

「――はっ……面倒くせぇが、仕方ねぇ。付き合ってやるぜ、モーゼさんよぉ」

 重い足を動かし、彼は立ち上がった。崩れ落ちた髪を掻き上げ、普段通りの笑みを浮かべてやると、モーゼは笑う。普段の、見慣れた薄笑いだ。

「ああ、有難う。それじゃあ……暫く休もうか」

 頭に魔力を流し込まれるのは気分が悪かっただろう。
 ――その問いかけに彼は、一度だけ考えてから「氷は最悪だったな」と言った。