赤く彩る

 ぎ、と年季の入っているであろう寝具が微かに軋む音が耳に届く。いつの間にか寒さよりも体の熱が上がっているようで、身体中が熱く、焼かれるような気持ちに陥る。頭――こめかみの奥深くから重い鐘を鳴らされるような鈍痛が、ズキズキと短い間隔で襲ってくるものだから、目も開けられずにいる。
 外の寒さと、体温の温度差が酷い。堪らずにノーチェは唸り声を上げると、額に冷たいものが当てられる。タオルなどの柔らかなものが濡れたような感覚ではなく、硬い、妙な形のもの。それが手のひらだと思うと同時に目を開けば、終焉がじっとノーチェのことを見下ろしていた。
 その瞳は相変わらず優しいままだ。

「……熱いな。気分はどうだ、何か欲しいものはあるか?」

 リーリエが起きてくれば一番にノーチェの体を診てもらおう。
 終焉の口から溢れる言葉はいやに優しく、酷く穏やかで、眠気を誘うものがった。彼はその言葉を聞きながら額に当てられている手のひらが心地いいと思え、聞いている筈の言葉も右から左へと流れていって、思わず返事が疎かになる。
 とにもかくにも、この心地いい手のひらを逃してはならない。

 ――そう言いたげにノーチェは力が入らない手で額にある終焉の手を掴み、ぼんやりと男の顔を眺める。正確には男の向こうにある天井だが――、ノーチェ自身も結局どこを見ているのかなんて分からない。働かない頭の片隅で「返事をしなきゃ」なんて思うものの――言葉は出てこなかった。
 頭の奥にある鈍い痛みが僅かに和らいだような気がする。ノーチェが終焉の手を掴んでから数分は過ぎたが、その冷たさは相変わらず変化もなかった。

「…………動けないのだが」

 長い沈黙と、ノーチェの行動に驚いたのか、終焉が小さく呟きを洩らす。彼は漸くその顔を意図的に見れば、恥ずかしいような――けれどしっかりと無表情を装った男の顔が、気まずそうにノーチェを眺めている。かくいうノーチェも自分が何をしているのかなど分かる筈もなく――、「……う……?」とだけ呟くことができた。
 寝かし付けられる前の、終焉の言動を振り返って、彼は漸くその手を離す。ひやりとした、まるで雪に触れた後のような手は惜し気もなくノーチェから離れ、黒い愛用の手袋をきゅっと着けた。ノーチェの体温を確認する為だけに手袋を外していたのかは分からない。ただ、ほんの少し勿体ないなどという考えが、彼の脳裏をよぎった。

「……それで? 欲しいものはあるか……?」

 なければないでいいのだが。
 そう言って男はノーチェの頭に手を置いて、手袋越しで頭を撫でる。まるで自分の冷たさを自覚していて、彼の体を冷やさないように気遣っているような行動だ、彼はそれにほんの少しの不満を覚えたが、一度だけ瞬きを落とすと、「……ごめんなさい」と小さく言葉を洩らす。

「どうして?」

 そう言った終焉は、どこか寂しそうにノーチェを見ていた。

「…………階段……俺……汚して……」

 埃ひとつない屋敷なのに――そう言いたげに唇を開いていたノーチェだが、奥底からやってくる咳に言葉を言い切れる筈もなく。咄嗟に口許を押さえて数回咳を溢した。ほんのり喉の奥が焼けるように痛み、うっすらと鉄の味が舌の上を転がる。それが厄介で何とかしようともがくと、終焉は「気にするな」と言った。

「貴方の健康より大切なものはない」

 恥ずかしげもなく男の唇から紡がれた言葉に、ノーチェは珍しく押し黙る。気が弱っているからか、それともまっすぐな言葉に心が揺さぶられたのか――終焉が言い切ったあとに小さく視線を泳がせてから「何言ってんの」と言う。普段の奴隷としての暮らしなら理不尽な暴力が飛んできても可笑しくない所為か、こうして体を労ってもらえていることが不思議でならなかった。

 手を上げられるとばかり思っていたのだ。階段にいたときの男の顔は、ノーチェの知らない終焉の顔だ。人を人とも思っていない冷めた眼差しがまさにそう。邪魔だとしか思ってもいないような目付きに、彼はとうとう裏切られたような気持ちになったのだ。

 ――しかし、今の終焉は先程の異変などこれっぽっちも感じさせないような素振りで、ノーチェの容態を窺ってくる。それこそ白昼夢でも見ていたと言わんばかりの現状に、彼は遂に考えることをやめてしまった。
 ――そもそも考えられるほどの体調ではなかった。

 ノーチェは熱により無意識に目尻を伝った涙を鬱陶しいと思いながら、終焉に対して「物好き、」と小さく呟きを洩らす。痰が絡み、それこそ掠れたような声ではあったが、耳がいい男にはしっかりと聞こえたようで「お互い様だ」と男は言った。
 未だに頭を撫でてくる手がすっかり布に隠れてしまったことを、彼は確かに不満に思う。それを外してくれと頼もうかいなか、頭の片隅で考えていると、終焉は「冷やすものを持ってこよう」と惜し気もなく手を離した。
 白い髪を指先が掠めていく感覚を、味わっていたのはノーチェだけだったのだろう。すんなり体の脇へ戻っていくそれを目で追って、ほんのり寂しさを胸に留める。
 そうして部屋を出ていく終焉の背を目で追って――、重い瞼を閉じた。