「これから大きなことをするからね。皆それを目当てに来るものだよ」
モーゼの背を追いながらノーチェは何気ない一言を一心に聞き続けた。
男の言う通りなるべく人通りの少ない道なりを選んでいる様子は、多少疑うことを覚えたノーチェでも見受けられるものだった。彼は残ったりんご飴を両の手で持ち手が壊れるほど強く握り締め、ぼんやりと見ているだけとしても警戒を解くことはまずなかった。――本当に〝商人〟達に明け渡されないかがやはり不安だったのだ。
――といえども、半ば強制的に人通りの少ない道を選ぶのは必然のようだった。
モーゼの背を追っていたノーチェは不思議と人に囲まれることが多くなった。――正確にはモーゼを慕う人間に囲まれるような形になった、というのが正しい話だ。とぼとぼと後を付いて回ると、モーゼを見かけた住人達がやたら好意的に男に話し掛けていくのだ。
その誰もが大抵「何故黒い服を着ているんですか」という質問ばかりで、それを毎回同じ言葉を返していく。「ひとつの警告だよ」――なんていうやり取りを、もう片手で数えるには指が足りないほど見てきた。ノーチェがぼんやりと見ているだけでもモーゼは露骨な疲労を見せることはなかったが、笑みを浮かべていた筈の表情が多少ひきつっているような印象を受ける。
この人はこの街で一番慕われているんだろう。――彼がそう思っていると、男は徐に振り返って「いい加減人通りの少ない所にでも行こうか」と裏へ誘われた。賑わいを背に薄暗い路地裏を足音がふたつ響いた後、僅かに開けた場所へと出る。住宅の裏側は荒んでいるというわけではないが、表通りほど手が施されているわけでもない。離れた向こうに大きな石壁があり、自然物と思われる植物がちらほらと見受けられて、木陰に椅子などが置いてある程度。
終焉とはぐれる前まで居たような場所によく似ていることから、あの男もまた人通りの少ない裏通りを選んでいたのだろう。
――あの人は怒っているのだろうか。
モーゼが気晴らしに祭りについての話を進めるものの、ノーチェは後を付いていくだけでろくな返事もせずに歩を進める。顔は俯かせて、はぐれてしまった終焉が今どんな感情を抱いているのかを考えながら、手元に収まるりんご飴をぼんやりと見つめる。
アメに包まれた果実は大変甘いのだと終焉は言った。――正確には甘いと即答しただけではあるが、あの終焉が「甘い」と即答したのだ。チョコレートの類いほどではないだろうが、それなりに甘いのだろう。
そう思えば思うほど、足早に男の元へ戻りたいという気持ちが高まるような気がした。何せ普段から欠点のひとつも見当たらない終焉が、いやに不調を訴えかけるように意識を手放すことが多くなったのだ。時間を共有し始めたのはほんの二月ほどではあるが、それでも終焉を見るノーチェは男の調子を感覚で判断する程度には慣れた筈だ。
何もできない奴隷という立場にあるノーチェが唯一できることとすれば、人間観察だろうか。以前のように活発――だったような気がする――に動くことはなくなった分、人間の顔付きに目がいくようになった。一言で表すなら「顔色を窺っている」というのが正しいだろうか――。お陰で彼は感覚で接することができたのだ。
元々誰がどう動くのか、という予想がつくのは、ある両親の間に生まれたからこその賜り物なのかもしれない。
そう思えば終焉の様子を窺うのは酷く難しく思えた。凝視していれば分かる程度の表情の変化はほんの一瞬で、無表情で繕ったかのような顔は感情の色を浮かべてはくれないのだから。普通ならば言葉にこもる筈の感情も、男にはこもらないのだ。
理由は単純だろう。以前説明を受けた、「感情を表に出せば死ぬ」という事情が男の感情を奪うひとつの原因なのだ。彼自身未だそれを目にしたことはないが、それは酷く厄介そうで、どの程度の感情を表に出してしまえば死に至るのか、まるで分からない。
万が一それに直面してしまえば、体の芯から震えるような、見覚えのない恐怖に襲われることは間違いないだろう。終焉が血を流した――それだけで見覚えのない恐怖に襲われたノーチェは、もしも自分が手をかけたとき、一体どのような感覚に襲われるのかとそれを握り締める。
――もしも、この手で終焉を殺めたら残るのは、見知らぬ後悔なのだと、無意識ながらも確信を得ていて――
「――なかなかいい度胸だね」
「……!?」
――不意に投げ掛けられた言葉に、彼は咄嗟に肩を震わせた。
あまりの声の近さに顔を上げたとき、目の前にあるのは酷く淀んだ藤色のような瞳だった。祭りの明るさがどこにも見当たらず、夜の暗さにまみれている所為か、よりいっそう不気味に思える瞳にノーチェはサッと目を逸らす。
終焉や挑発的なヴェルダリアの目付きが獣のように鋭いと例えるならば、目の前の男は粘着質な――例えるなら蛇のように絡み付くような目が特徴的だろうか。恐怖とはまた違った感覚を「不気味」と捉えたのは本能によるものか――絡み付くような目が嫌で、彼はそれから目を逸らしたのだ。
「おや、困らせてしまったね。ごめんごめん」
モーゼは苦笑を洩らしながらノーチェから距離を取り、再び案内をするように彼に背を向ける。「君があまりにも話を無視してくるものだから」なんて笑うように言っているが、ノーチェは得体の知れない感覚に思わず「……すみません」と言葉を洩らす。
終焉の表情や感情が「抑えつけていることにより読めない」のなら、モーゼという男は「笑みで蓋をしてひた隠しにしていることにより読めない」のだと彼は気が付く。
初めて見た感覚に駆られたのは紛れもない不気味さだ。陰の残る瞳が何を思っているのかも分からず、加えて何があっても微笑みを絶やさない表情が仮面のように顔を覆っている。「素顔」は見受けられず、そこにあるのは微笑――人間を「人間」として見ていないような、見下したような笑みだ。
素顔が見えず、会って間もないノーチェがそれに気が付いたのは、あくまで彼が奴隷という立場だからだろう。重くなる足で付いていく男の背中では何も読めないが、先程の目は明らかに彼を見下している目だった。似たような視線を幾度となく与えられたノーチェはそれがすぐに分かり、思わず謝罪の言葉を口にする。
そうでもしなければならないと思ったのだ。そうでもしなければ――目の前の男が何をしでかすか、分からなかったのだ。
「いやいや、そんなに畏まらないでいいよ」モーゼはノーチェの言葉を背に受けて機嫌良く笑っているように見せた。相変わらずの黒い服を靡かせて歩く姿は神父そのものであるが、表情こそはまるで変わらない――周りを見下している笑みのままだ。
彼はそんなモーゼの言葉を信じない方がいいのだと学びつつ、重くなる足をゆっくり、ゆっくりと進めていく。
本当に終焉の元へ帰れるのか不安になり始めたのだ。今更〝商人〟の元へ戻されたり、どこかへ売られたりということに驚くことはないが、今まで世話をしてくれた男へ何も返せず、黙ったまま消えることは許せないような気がした。――何故だか酷く気怠げなあの姿が頭から離れてはくれないのだ。
加えて先程与えられた不気味な感覚が体を這いずって止まない。願わくば一度終焉に会い、この不気味さを払拭してから再び奴隷人生に戻ることができるのならば、彼とて文句はなかった。
――気が付けば男との距離は数メートル空いていて、このままでは見失ってしまうのではないかと思えるほど。未だ裏道を歩く所為か、周りの景色が季節のように変わるわけではなく、ただ石壁と程好い手入れだけが施された道なりが続いているだけ。石畳から弾かれた雑草がさわさわと穿き慣れない靴を撫でて、夜のために僅かに冷えた風が頬を撫でる。
いっそのこと見失った方が早いのではないかと彼は思う。――しかし、ルフランの住人ではないノーチェには、自分がどこからどこへ流されたのかを説明するのは難しい話だろう。人混みへ混ざれば〝商人〟達の目も掻い潜れそうなものではあるが、彼もまた迷子同然になってしまうのだ。
幸い〝ニュクスの遣い〟であるノーチェは夜目が利く。特別可笑しな出来事に巻き込まれない限り見失うことはまずないだろう――。