路地裏の蛇の視線

「…………?」

 ――不意に先を進むモーゼの手のひらが制止を促すように向けられた。同時に、夏だというのにも拘わらず妙に冷たい何かが足元を掠めるような気がして、ノーチェは思わず身を捩らせる。
 何かあるのだろうか――。
 そう思った矢先、モーゼが徐に唇を開いた。

「……やっぱり祭り事、少しは減らしてみるのもいいのかもしれないねぇ」

 ぽつり、呟かれた言葉に今までの見下すような色は含まれていなかった。寧ろその逆――ただ静かに燃えるような怒りがふつふつと沸いているような、僅かながらも怒りがこもっているような気がしてならない。
 作り上げたような声色は消え失せ、代わりに低くくぐもった声がモーゼという男の素性のひとつなのだろうか――。
 「何かが来るような気がするんだけど」――生身の人間である筈のモーゼは薄暗い前方から何かが来るような気配を感じているようで、足を動かせずにいる。――だが、祭りの光は言うほど届かないのが裏道というものだ。一本道しかない前方はいやに薄暗く、目を凝らしようもない。

 加えて男は多少目が悪かった。

 それでも余所者であるノーチェを庇うということは、〝商人〟よりは遥かに善人の部類に入るのだろう。
 彼は立ち止まったモーゼとの距離を保ちつつ、何気なく脇から顔を覗かせる。身長は然程変わらないが、俯きがちのノーチェは相手を刺激しないよう、こっそりと前を見るのだ。
 ノーチェの目に映るのは一人の男だった。祭りには似つかわしくない洋服を着て、何かを抱えながら一心不乱に走ってくる。道中後方を確認しては再び前を向くものだから、盗みか何かを働いた人間だろうか。
 そう言えば犯罪率上がるって言ってたな――なんてことを思いつつ、ノーチェは小さく唇を開く。

「……走ってくる…………一人……」
「……おや、目がいいのかい。助かるねえ……他に何か特徴は?」
「えっ、あ……」

 助かるだなんて言われるとは思わなかったノーチェは肩を震わせると、咄嗟にそれを凝視する。言えるほどの特徴はないが、ただ何かを抱えているのがひとつの特徴だろうか。

「…………何か持ってる」

 小さく小さく呟けば、「じゃあスリだ」と言ってモーゼはゆっくりと微笑んだ。
 男はそのまま制止のための手を胸元に寄せると、白い手袋を取る。そのまま前方へと差し出すと、ノーチェに向かって「離れていてくれるかい」と呟く。彼はその言う通りに今までよりも長い距離を取ると、石畳を駆ける足音が少しずつ大きく聞こえてきた。

 暗い闇の中でもノーチェは真昼のように視認することができるが、モーゼは彼ほどの目を持っていないようだ。何か問題があればどうするつもりだろう――そう心配を胸にノーチェはその様子を見守っていたが、余計なお世話、というものだった。
 微笑む男の瞳が一瞬だけ火を灯すように鋭くなる。優しげな微笑から一変、ほんの少し私情を込めた瞳と同時にまとう雰囲気が変わったような気がした。
 ――夏だというのに酷く寒かった。

「足」

 ――ぱちん、と心地のいい破裂音にも似た音が鳴らされる。それが指を鳴らした音なのだと気が付くのに時間は掛からず、それを見守っていたノーチェは瞬きをひとつ。
 暗闇に紛れて近付いてきたものの足に季節外れの氷が一瞬、まとわりついた。音と共に現れた氷は動かそうとする足を凍らせて動きを抑制――そのまま何かを投げ出して倒れるようによろめくそれを、捕まえようという算段だったのだろう。

「おや?」
「あっ」

 ――たったひとつの誤算といえば、距離があまりにも近すぎたことだろうか。
 足を止められ躓くように倒れ込んできたその手はモーゼにあまりにも近く、手が顔の横を通りすぎる。ノーチェの目から見てもそれは一目瞭然で、衝突は免れないと思うほど。
 ナイフの類いを持っていなかったのは不幸中の幸いというやつだろうか。薄暗い場所から出てきたそれを男は動かずに見ていて――じゃり、と砂が擦れ合うような音を立てながら足を半身引いたのをノーチェは聞き逃さなかった。
 倒れ込むように伸びてきた手を両手で掴み上げ、その勢いを利用するようにモーゼはそれの体を投げ飛ばす。それの体は倒れた勢いを利用された所為か、見た目よりも軽々と背負われ、背中から石畳へと強く打ち付けられる。――所謂背負い投げをしたモーゼはその手を離すと、「いやぁ、危ない危ない」なんて言って笑う。

「ああよかった、君に当たらなかったね」

 そう言ってノーチェの姿を確認するが、彼自身肝が冷えたような気持ちで先程の行動を見守っていて、僅かに焦りを覚えた。

 ――というのも当然だろうか。ノーチェの足元には先程投げ飛ばされたスリの男がいて、目を回しながら石畳でのびている。勢いを利用された衝撃は計り知れないものだろうが、それ以上に頬を掠めた風に彼は嫌悪感を隠せなかった。
 確かに離れていろと言われていたのだが、何をするのかが明確になっていなかった以上対処のしようがなかったのだ。先程よりも距離を取っていたとしても、それが投げ飛ばされれば当然空ける距離は更に広くなければならない。 そうであれば、真横を通り過ぎるなんてことは起こらなかった筈なのだ。

 ――とはいえ彼は怒りを露わにすることなどまずなく、ただ無表情でモーゼをじぃっと見つめるだけ。たったそれだけでノーチェの言いたいことが分かると言わんばかりに男は両手を掲げ、「ごめんごめん」と平謝りを繰り返す。

「だから君に当たらなくてよかったねと――もう忘れてくれないかい……凝視されるのは苦手だよ」

 未だじっとりとした目を向けるノーチェにモーゼは勘弁しろと言って、投げ出され落ちたそれを拾う。スリと言うだけあって男が持っていたのは女物の可愛らしいサコッシュで、こういうことが陰で行われているのだ、と彼が認識するのに時間はかからなかった。
 目を回し気を失うそれにモーゼは小突いてやった後、ノーチェに「先を急ごうか」と告げる。彼は瞬きをしながらこれはどうするのかと問えば、「そのうち見付けてくれるから」と男はほくそ笑んでノーチェを手招いた。

 モーゼ曰くこれから噴水広場で大きな見世物があるという。「花火は知っているかい」という問いに彼は「……一応」と小さく呟くと、「なら話は早い」と要らぬ世話を焼き始める。

 それは花火を使った見世物だという。勿論燃えるようなものでなければ、火を使うような類いではない――一言で言うなら魔法でぽんぽんと生み出して、祭りを賑やかにするそうだ。
 当然殆どの人間がそれを扱える筈もないということから、火を使う普通の花火を使うこともある。その大半が線香のように小さくも、パチパチと音を立てて輝く手持ちの花火だ。あまりにも大きいと問題が起きかねないと〝教会〟が思案した結果、線香花火が採用されたのだという。
 魔法で生み出した花火は燃え尽きることがないが、実物の線香花火はすぐに消えてしまうと批判を食らったものだが――今では納得してもらっているというのだ。
 曰くそれは一種のパレードとも言えるような賑わいを見せるようで、住人にはとても気に入られているのだ。

 ノーチェは歩きながらも「ふぅん」と呟くが、「あまり興味がなさそうだね」とモーゼは苦笑する。
 ――当然彼には祭りに対する興味が湧かないのだ。首輪の効果も相まって、楽しむよりも早く帰りたいという意思の方が湧いて出てしまう。彼は居候させてもらっている身だが――あまりにも賑やかな街並みと人の多さに疲労さえ覚えるのだ。
 「……あんまり」そう正直に呟けば先頭を切る男は「まあ仕方ないよね」と背を向けながら言葉を紡ぐ。表通りの賑わいを置き去りに裏通りを進む彼らの前にあるのは、ただ仄暗く細々とした分かれ道と中途半端に手入れされた街並みだけだ。やはり足音はどこか響いているようにも聞こえるほど。灯りと人の少なさ故か――表よりも遥かに涼しいと思ったのは気のせいではないだろう。

「――ときに少年」

 ――不意に唇を開いたであろうモーゼの声が、ぼんやりと足元を見つめながら歩いていたノーチェの耳に届く。少年っていう年齢じゃないんだけど――そう思っていると、彼の返事を待たずに男が徐に振り返って笑った。

「君は、〝永遠の命〟を信じるかい?」

 やんわりと頬を撫でる生温い風と、モーゼの目が酷く不快に思えたのはこれが初めてだろう。
 確信を得るような口調ではない。ただ、信じているか否かを問い掛けているだけのものだ。――しかし、その表情にあるのは先の見えない仮面のような笑みで、細められた瞳には何かを探るような意志を感じてしまう。
 〝永遠の命〟といえば彼の脳裏に浮かぶのはたった一人で、それ以上に可笑しな体を持つ存在を目にしたことはない。傷はたちどころに治ってしまい、死んで尚同じ命を繰り返すというのだから、端から見ればいやに好ましいものなのだろう。
 しかし、とうの本人はそれをやたら嫌がっているようで、奴隷であるノーチェに「殺してくれ」と頼むほどだ。便利だと思ってしまうが、得てしまったが最後、ろくな人生を送れたものではないのだろう。
 理由は定かではないが、終焉は死にたがっているのだ。ノーチェ自身も自分の人生に何かを見出だせているわけでもない。――だからこそ、それが本当にいいものであるのか、考えさせられてしまう。

「…………」

 〝永遠の命〟を宿していると告げた終焉の存在を――死んだ筈の命が甦っているのを――知っている以上、彼の答えは決まっているようなものではあったが、あくまで彼は頷くこともせず黙りを決め込んだ。目の前の男が何を思ってそれを問い掛けたのかノーチェには知る由もなければ、知りたいとも思っていない。教えようと思えば教えることはできただろうが――ノーチェはそれを黙秘で避ける。

 ――目が、表情が不気味なのだ。祭りが行われているとは思えないほどの、陰のある不気味な顔。先程から何度も見掛ける胡散臭い、信用してはいけない類いの表情だ。終焉の存在と命が本当にあると知れば何をされるのか、なんて誰もが予想できてしまいそうなものだった。――それ故に彼は押し黙ることを決めたのだ。

 ちらり。軽く俯いている顔を動かさず目だけでモーゼを見れば、男は何かを探るような目をじぃっとノーチェに向けている。身体中に蛇が這うような気味の悪さは二度も体感したくはなかった、というのが本音だが――あくまで自分を「奴隷」として扱わない終焉を、下手に売る真似をする気など毛頭なかった。
 その程度の人間性は未だ保てていることに小さく安堵の息を洩らしていると、モーゼは「まあいいや」と言ってノーチェから目を逸らす。「実際にあったらそれこそ吃驚するからねえ」なんて言って、冗談だと言わんばかりに肩を竦めるのだ。

 モーゼは恐らく何かを企んでいる。確証は得られないが、首輪により押し込められていたノーチェの血が小さく騒ぐ。両親から受け継いだそれは紛れもなく彼の力に成り得そうではあるが、それに耐えられる精神を持ち合わせていないばかりに得などしないと思っていたが――そうでもないのだろうか。
 ノーチェは自分の疑いを悟られないよう、無表情のまま「…………便利そうだけど」と小さく口を洩らす。便利そうだけど、他の人間にはよくない目で見られそうだと告げれば、モーゼは彼を背にしたまま「それもそうだね」と他人事のように呟く。

「それでも私は、死人を甦らせたいと思っているんだよ」

 石畳を踏み締めて歩くモーゼによると、〝永遠の命〟は所持者のみならず、死人さえも甦らせることができるそうだ。人魚の肉を食べれば不老不死になるという話が音もなく蔓延るように、〝永遠の命〟を所持しているものを喰らえば死者が甦るという。
 そんな非現実的な――命のあり方に背くような――ものが実際に可能だとするのならば、ノーチェが「死にたい」と告げた相手は相性が悪いのではないのだろうか。仮にノーチェが死んだとしても、彼を愛しているという終焉ならば禁忌を犯すのではないだろうか――。

 ぐっと息を呑み握り締めるりんご飴を掴む手にやはり力がこもる。持ち手が折れるということはなさそうではあるが、手のひらに食い込む爪はほんの少し肉を貫いたような気がした。ちくりと痛みが走るものの、ノーチェにとってそれは気に留める程度のものでもなかった。