路地裏の蛇の視線

 街の中心から離れるように歩き始めること何十分経ったのだろうか。体感で言えば、一時間近くは歩いているのではないかと思えるほどの足の疲労に、彼はほう、と息を吐く。何度も外へ連れ出されることがあっても、終焉は人混みを嫌っているようで足早に屋敷へと帰ることが多かった。足が疲れたと思えるほどに歩いたのはこれが初めてではないだろうかと、頭の片隅に休憩の二文字が息を潜める。

 疲れたと、まだなのかと言えるような性格はしていないが、中心の賑わいから随分と離れたところに来たと言っても過言ではないだろう。祭りの残響を置き去りにして久し振りに味わう疲労感に、彼は「本当に〝商人〟の元へと送られるのではないか」という考えだけが顔を覗かせる――。

「――っと……ここら辺でいいかな」
「…………」

 ふと気が付けばモーゼの足が止まる。男の一言にノーチェは足を止めると、小さく顔を上げる。ちらりと顔を見やれば辺りを見渡して、「あまり時間がないや」なんて肩で笑う。一体何があるのかと思えばモーゼは小さな路地裏を指差して「ここをまっすぐ歩くといい」と言う。

「ごめんね。祭りがもうすぐ大きくなるから最後までは案内できないんだ。ここを歩いていくと目的の場所に着くよ」

 多分何も起こらないと思うけれど。そう言われてノーチェは指を差されている方へと顔を向けると、いやに静かな路地裏の先に僅かな広さが見てとれる。建物で囲まれているからだろうか――その道は酷く薄暗く、人気のない様子がやたらと恐怖心をそそるようだった。
 本当に終焉の元へ辿り着けるのだろうか。そんな疑問がノーチェの頭を掠める最中、モーゼは「こうしちゃいられない」と彼を横切る。――不意に鼻につくバラの香りが、酷く不愉快だと思えたのもこれが初めてだっただろう。

「そうだ、何かあったら〝教会〟へおいで。君は面白いから歓迎するよ」

 やんわり微笑みながら男はノーチェに言葉を置き去りにして足早に歩いて行った。
 終焉以外に黒に身を包んだ男を見るのはモーゼが初めてだったな、と何気なく目線を足元に落としたまま、モーゼの言葉を頭の中で反芻する。〝教会〟へおいで、なんて歓迎される理由は特に思い当たりもしないのだが――ノーチェは溜め息がちに「遠慮する」と言葉を洩らす。
 品定めをするように、探るように、じっとりと蛇が這うような目を寄越す男の元へ行くくらいなら、終焉の元でひたすら手伝いをする方がマシだと思えるのだ。

「…………そう思えるんだから多分……良くなってるんだろうな……」

 ――そう言葉を洩らしながら土地勘のないノーチェはモーゼが指し示した路地裏へと歩みを進める。一時的に光の届きにくい場所に居るからだろうか――夏とはいえ酷く薄暗い場所に彼は陰気臭さを覚える。いくら雰囲気がいいと思っても、建物の隅にあるゴミと、小さな獣の気配は誤魔化しようがなかった。

 これもまた晦明たる所以なのだろう。光があれば闇があるように、表があれば裏があるこの街もまたありふれたものなのだと、思わざるを得ない。理想郷なんてものがないように、善意だけに溢れた街などどこにもないのだ。

 じゃり、と砂を踏みにじる音を背にノーチェはただ歩く。今回ばかりは目的があって動いている所為か、手元に収まる赤い艶めきが随分と頼り甲斐のあるようなものにしか思えなかった。それをぎゅうっと両の手で握り締め、落とさないようにと細心の注意を払いながら彼は歩く。
 道中ゴミ箱を漁る小動物を横目に見ながら進んでいくと、目の前が唐突に開けたのだ。

 ――眼前に広がるのは薄暗い街並みに灯る提灯と呼ばれる明かり。規則正しく一定の距離を保ち並べられたそれを目に、「一体どこから得たものなのか」を茫然と考える。街並みから言えば提灯だの花火だの、見た目や名前の響きからして似合わないものだが、時折外部から人間が来るという街だ。その人間に新しい文化を教えてもらったにしろ、やけに馴染んでいるなと不思議そうに見やる。
 まるで、遥か昔から――それこそ初めからルフランには根づいていたと言わんばかりに――当たり前のように受け入れられていることが不思議でならなかったのだ。

「祭りも店も、前々からあるもんなのか…………」

 ほう、と吐息を吐くように何気なく呟いて視線を動かすと、ノーチェは瞬きをひとつ。目の前には自分が街に入ってきたときと同じ出入り口が存在していた。少し歩いた先に見えるりんご飴を売る店舗は、初めに見たときと人の数は減っていたが、終焉とはぐれる前とは一切変わらない。その店舗の目の前にある路地裏で、終焉は体を休めていた筈だ。
 万が一はぐれたらさっきのとこで――そう呟いた自分の記憶が頭を小突く。人の通りは遥かに減っていて辺りが見渡しやすい。ちらほらと疎らに歩いている様子は見かけるが、終焉の姿を探せないほどではない。誰よりも特徴的なあの外見は一目見ればすぐにでも分かるだろう。
 ノーチェは辺りを見渡しながらゆっくりと小さく足を踏み出す。裏通りよりも遥かに空気が軽いような気がするのは、気のせいではないのだろう。
 先程よりも辺りは明るいのだ、早く終焉を見付けなければ――

「………………何で俺焦ってんだ……?」

 ――不意に足を止め、彼は茫然としたままぽつりと言葉を洩らす。自分がしていたことの行動を思い返しては首を傾げ、目線を足元に落とす。出入り口に着いてから間もないというのに焦るように跳ねる心臓が小煩くて敵わない。一体何を焦る必要があるのか、石畳の繋ぎ目をぼんやりと眺めながらノーチェはゆっくりと呼吸を繰り返す。
 愛していると言われて自分も絆されてしまったのかと思ったが――そういった感情を覚えていなければ、抱いていた記憶も一切ないものだから、はっきりとした答えは出なかった。

 ただ言うとすれば、この焦りは迷子になった子供が親を探すときのものと酷似しているのだろう。辺りを見渡しても見付けられない間に、見知らぬ人間に手を引かれてしまえば取り返しのつかないことになるように、彼もまた〝商人〟に存在を見付かることを心の底では恐れているのだ。
 ――ということに落ち着いた。自分を納得させるために探した理由の中で、これが一番しっくり来るとノーチェ自身が見付け出した理由だった。誰かを好いた試しがないノーチェが終焉に絆されて好きだと思うなんて――、間違いだと思ったのだ。

「…………む」
「……!」

 ほう、と胸を撫で下ろすような気持ちで小さな息を吐くと、来た当初とはうってかわって静かになった街に低い声が降り注ぐ。ハッとしてノーチェは顔を上げると、そこには相変わらずの無表情のまま色違いの瞳でじっと彼を見下ろしている終焉が居た。男は物珍しそうに「本当に辿り着けたのか」と呟いていたが、ノーチェは足早に終焉の懐へ入るように近付くと、「平気なの」と問う。

「……ここなら来れるって言ったけど…………アンタ、体……」

 体調悪いんじゃないの――なんて言おうとしたところで、不意に終焉がノーチェの頭に手を置いた。

「よくできたな」

 ――初めてのことをこなした子供を褒めるように、終焉はいやに穏やかな声色でノーチェを褒める。彼はそれに茫然と終焉の顔を見上げたまま「……何で……?」と小さく問い掛けた。
 ノーチェの問い掛けに終焉は小さく首を傾げる。男曰く「ちゃんと自分が言った通り戻ってこられたから」とのこと。案内を受けていたことも、どこまで流されていたのかも聞きはしなかったが、ただ戻ってきたことに対して何故か褒めたのだ。
 そのことにポカンと口を開いてノーチェは身動きも取れずにいた。

 ――酷く懐かしいと思えたのだ。自分と変わらない筈の手のひらで頭を撫でられ、褒められることが懐かしいと。
 覚えていない気がして確証も得られないのだが、恐らく小さい頃に父親にでも褒められたのだろう。それが酷似したのか、もしくは――終焉と離れていた分、撫でられるのがやけに嬉しかったのかもしれない。

 彼は何気なく自分の頭に手のひらを乗せると、終焉が「どうした」と問う。「何か変なことがあったか?」なんて言って不思議そうに見下ろしてくるのだ。それにノーチェは首を横に振ってから、徐に両手で持っていたそれをつい、と男の目の前に差し出す。

 赤く熟れた果実をシロップなどでコーティングしたりんご飴というもの。ノーチェ自身に馴染みはないが、甘いものが大層好きらしい終焉が甘いというのだから、それ相応の甘さなのだろう。結局貰ったひとつは落として台無しにしてしまったが――自分の手で買い求めたもうひとつを、彼は終焉へと押し付ける。
 男は一度瞬きをすると不思議そうに首を傾げて「それは」と呟く。恐らく「それは貴方が買ったのだろう」なんて言おうとしたのだろう。彼はそれを遮って「俺は別に食べたいって言ってない」と告げると、男は一度考え込むような素振りを見せた後――むぅ、と唸るような声を上げた。

 自分が納得いっていない事柄に出会すと妙な唸り声を上げる終焉は、ノーチェによって押し付けられるそれをゆっくりと手に取る。取って付けたような持ち手の棒切れは弱々しく、力を込めれば簡単に折れてしまいそうなものだ。それを終焉は柔く受け取って、「仕方ないな」と淡々と――しているがどこか嬉しそうに――呟いた。
 少しは喜んでもらえたのかも、だなんて何気なく思ってみると、不意に終焉の手元のそれに目が向かう。細長く、先端には紙のようなものが付いた棒状の何か。ノーチェはそれを指差しながら「何かすんの」と訊けば、男は――

「……まあな」

 ――とだけ呟いて、彼の手を引いた。