――ふ、と目を覚ましたとき、強い違和感に苛まれた。
重く垂れる瞼を開けて、ノーチェは瞬きを数回繰り返す。頬に当たる冷たい感触に疑問を抱きながら、倒れていた体を起こす。力が抜けきっていたであろう腕でぐっと床を押し退け、辺りをぐるりと見渡した。
酷く暗い印象を受ける部屋だ。街の明るさなど露知らず。光を一筋も通さない部屋で、彼は寝かされていたようだ。手のひらに当たる硬い床は、ひやりとしていて夏場には心地のいいもの。無駄にぺたぺたと手のひらで床を追っていると、革のような質感が手に当たる。
彼はそれが何なのかを思い出し、咄嗟にそれを手に取った。
閉じていた瞼を開けた直後のお陰か、はたまた生まれ持った視界のお陰か。それの認識は苦労することなく、無事を確かめて、ほっと息を吐く。
手のひらサイズほどの四角い黒い財布と、箱がひとつ。何の衝撃を受けたのかは分からないが、箱は潰れていて最早見る影もない。これなら中身を取り出して懐に持ち歩いていた方が安心だ、と判断して、ノーチェは蓋を抉じ開けた。
がさり、と音を立てて開いた箱の中から出てきた氷嚢は一般的なものだ。円を描く硬い蓋に、水色の布がぶら下がっているようなもの。懐に入れるには大きいような気がしたが、このまま放置してしまうのも気が引けたのだろう。一度考えるような素振りを見せた後、彼は自分の体をじっくり見渡した。
懐に入れると言ったがポケットのようなものはない。スラックスにはついているが、せいぜい入って終焉の財布くらいだろう。氷嚢を持ち歩けば、手を塞がれてしまう。意識を失う前に一緒にいた男の存在を思い出せば、訝しげな目を向けるに違いない。
「こんなものは邪魔だ」――そう言われて捨てられてしまえば、屋敷に残された終焉は、どうなってしまうだろうか。
「………………」
ポケットがないなら適当に空間を作ってしまおう。
ノーチェはベルトを軽く緩めると、黒いシャツの裾をスラックスに軽くしまいこむ。服と体にできた隙間に荷物をしまう。財布と氷嚢が収まっている服、というのはあまりにも見てくれが悪いが、捨てられるよりはマシだろう。
ふう、と彼は一息吐いて暗い室内をじっくり見渡す。仄かに冷気が漂っていて、外よりはマシだと思えるこの空間で、ノーチェは眉を顰めた。
――ここはどこだろうか。
窓のようなものはない。薄暗いこの室内はまるで地下室のようで、床に触れれば冷たさだけが返ってくる。彼の記憶が正しければ、やたらと暑い時間帯に街へと出た。眩しい太陽に晒されて終焉のために冷やせるものを買いに行っただけ。
その道中で〝商人〟に出会い、反抗が許されないノーチェは、ただぼんやりとしながらその後をついていったのだ。
辿り着いた場所にあったのは、廃墟同然の屋敷のような建物。仄かに開かれた窓から覗くぼろいカーテンが、熱風で小さく揺れていたのは覚えている。人が一人もいないような薄暗い外見をしていて、特別生き物がいるような気配はしなかった。
流石に地下室があったかどうかなどの判別はできていないが、あの廃墟にいるというような考えに至れない。辺りを見れば、あるのは使われていない道具がちらほらと視界に入った。
掃除に使う古びたモップや、凹凸のある銀色だったバケツ。使われていないような布団や、日常的に使えそうな道具ばかりが乱雑に置かれている。
ノーチェは部屋の隅に歩いていって、ぽつんと取り残されているかのように置かれた机に手を置く。ざらりとした木の感触の他に、埃特有の砂のような感触が指の腹に押し寄せた。中央に乗っているのは使い古されたランタンだろうか。どれもこれも埃がかぶっていて、ノーチェは小さく咳をした。
空気が悪い。今までやたら綺麗な屋敷にいた所為だろうか。埃があるこの部屋にいるだけで喉や鼻を通る空気が埃っぽくて、彼の吐き出してやろうと堪らず咳を繰り返す。不用意に近付かない方がいいのは分かった。彼はその机から離れると、再び床に座り込んでぼうっと虚空を眺める。
今日はろくでもない人間に出会ってしまっただとか、外が暑かっただとか、あまりにも他愛ない考えしか浮かばない。ぼんやりとしながら膝を抱え込んで、時折終焉の安否が気になっては、ここからどう出てやろうかを考えてしまう。
生憎ノーチェはこの部屋の外がどうなっているのかは理解していない。この部屋から一歩出た後、その先にあるのが部屋なのか、階段なのかも分からない。耳を澄ましても、あれだけ騒がしかった街の人の声が聞こえないのだから、離れにでもあるのだろうか。それとも、単純に地下に押し込められているのだろうか。
――考えても仕方がない。
ノーチェは何故か頭を打ち付けられるような頭痛を覚え、膝を抱えている腕に顔を埋める。目の奥か、後頭部か、こめかみかは分からない。ただ漠然と強烈な痛みが頭部を襲っているだけで、酷く不快感が増していく。
――最悪な誕生日。
そう呟いて、ノーチェは頭痛から逃れるように目を閉じた。