道なき森と猫の鳴く声

 ――目を閉じてから大した時間も経っていない頃に、それは来た。
 頭痛から逃れるために閉じていた目を開けて、ノーチェはじっと前へと目を向ける。閉じていた頃に治まりかけていた頭痛は戻り、目の奥が酷く痛むような感覚に苛まれながらもそれを待つ。
 彼の視線の先には扉があった。その向こうから微かに足音が聞こえてくるのだ。コツ、コツ――と急ぎもしない普通の足取りで、確実に誰かが近付いてくる。ノーチェ自身としては、知っている顔――それこそ終焉やリーリエ、最悪ヴェルダリアやモーゼでもいい――の存在を望んだ。
 〝商人〟でなければいいのだ。奴らであれば、彼の素性も知られている上に、それなりの使い道が決まってしまっている。そうなれば最後、ノーチェは懐にしまい込んだ財布と氷嚢を、病に伏している終焉に渡すことができないのだ。
 ――とはいえ、終焉の存在を望むなど、場違いであることは理解している。しているのだが、この状況で真っ先に思い浮かんだのが、終焉だったのだ。何せ男はしょっちゅうノーチェの傍にいるものだから、当然だと思ってしまっているのだ。
 思考回路が麻痺してしまったのだろうか。
 堪らず頭を抱えたい気持ちになったのだが、その衝動も束の間。コツン、と響いていた足音が唐突に途切れたのだ。それも、彼がいる部屋の扉の前で。
 ノーチェは望みを断ち切って、扉から誰が顔を出してくるのかをじっと眺めた。
 終焉やリーリエの筈がない。可能性があってもヴェルダリアかモーゼだ。顔はこれっぽっちも見たくはないのだが、屋敷に帰してくれる可能性のある人物といえば、彼らしか思い浮かばないのだ。

「――何だ、目が覚めたのか」

 ――勿論、可能性があれば、の話なのだが。
 きぃ、と金属のような音を立てながら開かれた扉から姿を現したのは、フード付きのマントを羽織った〝商人〟だった。その姿は以前から見ていたものと何ら変わらない、憎たらしい姿そのもの。唯一違う点を挙げるとするならば、ノーチェを連れて歩いた男ではないというところだろうか。
 あの男よりも比較的若い顔をしていて、終焉よりもいくらか背の低いがたいの良さそうな男だ。片手には見慣れないグラスを携えていて、無色透明な液体で満たされているらしい。暗闇で軽く揺れた景色が、そうだと認識させた。
 結局彼に残されているのは奴隷としての人生なのだろう。――歩み寄ってくる男を見つめながら「……何」と呟けば、男は屈んでグラスをノーチェの目の前に差し出す。

「水だ」

 飲め。
 そう言ってグラスを押し付けた男に押し負け、ノーチェは咄嗟にそれを両手で包んだ。僅かに火照っている手のひらに伝わるのは、水特有の冷たさだった。先程汲んできたのだろうか――冷たいそれの匂いを確かめながら、彼は訝しげな表情を浮かべる。
 毒の類いでも含まれているのだろうか。そう易々とただの水を渡してくるとは思えない人間達に、確かに警戒していると、男が気怠そうに頭を掻く。短い髪が軽く揺れた。

「お前、暑さで倒れたんだ。ただでさえ貴重なんだから、易々と見殺しにするわけないだろうが」

 さっさと飲んでおけ。――そう言われて受け取った筈のグラスを口許に寄せられ、ノーチェは堪らず水を口にしてしまう。渇いた舌と喉を潤すように、冷たい液体が食道を通って、鳩尾の辺りが仄かに冷たくなったような気がした。
 易々と殺してくれないのは奴隷になってから重々承知しているつもりだった。しかし、何度も同じように望んでしまうものだから、改めてそう言われてしまうと傷付くものがある。自分は永遠に奴隷として生きていくのだ、と思わされているようで、酷く悔しかった。
 頭痛の原因を知った彼は「ここは」と問い掛ける。倒れる前に見た屋敷であるならば、それ相応の答えが返ってくるだろう。
 ――だが、男の返答は彼の予想もしていなかったものだった。

「ああ……確か、街からほんの少し離れた家の、地下室……? だったかな」
「……離れた家……?」

 一体どういうことだろうか。わざわざ廃墟同然の屋敷を見せてきたというのに、置き去りにしたのは街から離れている場所にある家の中だという。しかも、この家もそれなりに広いようで、地下室なんてものがあるのだ。多少涼しいところに置いてくれたのは感謝しようかと思ったが、彼の口を突いて出たのは、疑問に対する答えを求める言葉だった。
 あの屋敷じゃないのか。堪らずそう訊けば、男は一度考えるような素振りを見せる。ううん、と唸って、眉を顰めて――やがて「そのうち知るから言っても問題ないか」と言えば、ノーチェの目を見つめる。

 男の説明を一口で言うならば、「逃げるため」だった。
 廃墟同然の屋敷には〝商人〟達が何人か潜んでいたようで、あの場所を待ち合わせとしていたらしい。ルフランへ共に来た仲間達と、売り物であるノーチェを奪い返して、この街から逃げようという魂胆なのだ。その道中、ノーチェは脱水によって意識を失ってしまい、元々身を寄せている人気のない家へと逃げ込んだらしい。
 ルフランは森に囲まれていて、簡単に逃げ出せないのは目に見えている。ノーチェが目を覚ますまで、数人の仲間達は森の出口を探し歩いている真っ只中ということだ。彼が殴られもせず、蹴られることもなく叩き起こされなかったのは、逃げることを優先しているからだという。
 倒れた拍子に投げ出された財布や箱を捨てるのではなく、敢えて拾ったのは、ノーチェがいた痕跡をなるべく減らしたいからだそうだ。

 ――そう説明されて、ノーチェはただ困惑した。この街にやって来たのは、あくまで奴隷を売るためだ。それは上手くいった筈だし、今後とも贔屓するために街を知る必要があるだろう。今まで通りの手口で事が行われる筈なのに、そうしないことへの疑問がただ募る。
 思わず「どうして」とノーチェは訊いた。どうして逃げようと思ったんだ、と。
 だが、目の前にいる男もそれは知らないようで、「さあ」と言わんばかりに肩を竦めるだけだった。

「――怖いんだよ」
「……っ!」

 以前よりもどこか柔和な雰囲気を割くように、呟かれた言葉に彼らは肩を震わせる。驚いて扉が開いている方へと顔を向けると、ノーチェを連れていた〝商人〟が、じっと二人を見つめていた。
 コツン、と音を鳴らしながら男は部屋の中へと入る。どうやら彼らに靴を脱ぐ、という習慣はないようで、土足のまま上がり込んでくることに彼は多少の違和感を覚えた。
 それと同時に、ノーチェは体が強張るのが分かる。膝を抱えている手に力がこもり始め、反射的に震えを覚えてしまう。
 普段から殴られていた所為か、その男が振るう暴力に対する恐怖が体に根付いているようだ。何てことはない、と何度も自分に言い聞かせても、足音が近付いてくる度に、どくどくと鼓動が強く脈打つ。酷く気分が悪くなり、無意識に腹に力を込めようと覚悟を決めた。
 ――途端に呟かれていた〝商人〟の言葉が脳裏をよぎる。ただ一言、「怖いんだよ」という言葉が。

 ――何がだ。一体何が恐ろしいのだろうか。

 目の前に躍り出た男の顔は、以前見た頃よりも遥かに痩せているように見えた。夏の暑さにやられている所為だろうか。それとも、単純に痩せる気でも起きたのか、理由は彼には分からない。薄暗い部屋では具体的な顔色は窺えないが、目元の違和感と、僅かに肉が落ちた頬は見えた。
 〝商人〟はノーチェを殴るような行動には出なかった。それも痩せているのが原因だろうか。殴りはしなかったが――彼の襟をぐっと掴み上げて、酷く暗い瞳でノーチェを見る。

「……ッ、ぁ……」

 唐突に目の前が歪むような感覚に襲われた。それも倒れた影響だろうか。後頭部がずきずきと、まるで頭の内側から衝撃を与えているような痛みが走り、堪らず顔を顰めてしまう。
 息はできる。だが、目の前が回るように歪む。
 ――そんなノーチェに対し、男はぽつりと問い掛けた。

「お前、何で俺が怖いのか、知ってるか?」

 ――聞いた当初はただのからかいかと彼は思った。満足のいく答えが得られなければ、顔を殴る。答えなければ腹を蹴られる。そういった行為に出ると、思っていたのだ。

「…………?」

 しかし、ノーチェが答えられずにいると、男の顔が酷く歪む。くしゃりと表情筋で顔の表面をシワだらけにして、目は何かを訴えるかのように見開かれる。外よりも涼しい筈の地下室で、額から汗を滲ませて――ノーチェが異変に目を奪われている間に、男は手を離した。
 殴られなかった。殴られなかったのだが、不可解な現象に見舞われている。
 ノーチェは襟を直しながら男の様子を窺った。男は頭を抱えたかと思うと、唸り声を上げ始める。ノーチェに水を与えた若い男が声を掛けると、顔を覆っていた手の隙間から、焦点の定まらない瞳が見えた。

「あ、頭が……っ」

 頭が痛い。そう呻く男は、耐えられずにその場に崩れ落ちる。
 奴隷であるノーチェでさえ、その様子はあまりにも可笑しいことは分かっていた。まるで薬か何かを盛られてしまったかのように、男は不調を訴える。男が呟いた疑問が、それを引き起こしているのかと思っていると――、男は丁寧に、苦しそうに言うのだ。

「ここには、ここにはいちゃならねえ……いたくねぇ……けど、何でそう思ってるのか、全く思い出せない……!」

 ここに来た理由はよく分かっている。だが、今に至るまでの記憶の殆どを失っているようだ。男はいくつか思い付く限りの単語を溢しては頭を抱え、それが何かを誰かに問う。倒壊、修復、蝋燭、花、教会――何かを暗示する言葉を洩らすが、それが何を示しているのかが分からないようだ。
 呻き声を上げる男の口からぱたぱたと涎が滴る。汗にまみれた顔を上げて、「にげるんだよ」と呟いて、ノーチェへと訴える。相手の事情など気にも留めず、血走った目で、彼ではない何かを見つめていた。
 あまりにも突然の出来事に彼はただ表情を歪める。この男は何を言っているんだ、と正気を疑う言葉ばかりを心中で呟く。からかっている様子は全くないのだが、それがまた恐ろしく思えて、後退りをした。

 森に仲間達が入ってからもう一時間は経つようだ。何かしらの結果を見付けたら戻ってくるように言ってある、と若い男が言った。頭痛を訴えていた〝商人〟は次第に呼吸を整えて、ゆっくりと立ち上がる。顔には汗が滴っているが、目は先程よりも正気に思えた。
 準備ができ次第、早々にこの街を立ち去ると言って、男達は外の様子を伺いにいった。
 コツコツと複数になった足音が少しずつ遠ざかっているのがよく分かる。取り残されたノーチェは胸元に手を添えて、未だに高鳴る心臓を落ち着けようと試みた。

 冗談ではない、早々に立ち去るなど。彼の懐には終焉の財布と、終焉のための氷嚢が収まっているのだ。素肌に当たる異物感は既に慣れていて、最早違和感もない。それらを渡せずにルフランを出るなど、彼の何かが許そうとしなかった。

 ――とはいえ、今のノーチェに何か打てる手があるわけでもない。たとえ今宵満月だとしても、武器も何もない彼が身ひとつで逃げ出そうとするなど、あまりにも無謀だ。聞いた話では仲間を集めているのだから、尚更無理があるだろう。
 しかし、渡せないという事実に屈するつもりは毛頭ないのだ。
 隙を突いて家から抜け出すのがいいだろうか。満月である以上、それなりの活力に溢れている彼は、ゆっくりと立ち上がる。暗い部屋の扉を開けて、そうっと顔を出せば目の前には階段があった。どうやら階段の上にある扉の向こうが、ただの部屋に繋がっているようだ。
 ゆっくり、一歩一歩確実に階段を上り、そうっと扉に耳を当てる。何人かの男の声。どれも〝商人〟のものであることは間違いない。その内容は、外の様子と、森の様子を窺うものばかりだ。中には今後のことを話している内容もあって、抜け出せるような隙などまるで作っていない。
 何かが理由で抜け出したいのは明白となった。