「…………駄目そうか……?」
自分の無能さを打ち消すよう、ぽつりと言葉を紡ぐ。ほう、と呼吸を落ち着かせて、意識を研ぎ澄ませる。〝ニュクスの遣い〟の血を継いでいるのだ。幼い頃に学んだことは、今となっても忘れることはなかった。
扉の向こうにある人の気配は五、六人――いや、それ以上だろう。森に数人送り込んだと言っているのだから、十人はいるだろうか。それだけの数がいたのかどうかさえも覚えていないが、元から潜んでいたのが紛れている、ということも有り得る。
どのみち、抜け道でも探さない限りは逃げることも許されないだろう。
他の手が、何か思い付くのだろうか。
――そう思っていると、不意に悲鳴にも似た声が、扉の向こうから聞こえてきた。
「何だと……? そんなわけねぇだろ!」
バンッ、と机を叩くような音に、ノーチェは堪らず目を瞑る。強い衝撃音だ、耳に痛みが走ったような気がしたが、構わず扉の向こうへ意識を向けた。聞こえてきた話の内容が、可笑しかったのだ。
「嘘じゃない、本当だ!」
「信じられるわけねぇだろ……いくら歩いても、この街に辿り着くなんてあるのか!?」
――話の内容を要約すれば、出口とおぼしき森の外へと辿り着けない、ということだ。歩いても歩いても、辿り着くのは街の出入り口だけ。漸く外かと思えば、目を凝らした先にルフランがあるのだという。
端からすれば非現実的な話ではあるが、聞いていると冗談には思えない。口調からくる焦りと、感情の大きさから言葉から犇々と伝わってくる。「街から、出られない……?」そう呟いてみるが、〝商人〟達は彼が近くにいることに気が付いた様子はなかった。
街から出られないとするならば、持ち物を終焉に返すことができる。
――不思議とそう思って安堵の息を吐いたが、裏を返せば、ノーチェは死ぬまでここから出られないということだ。
話を聞けば聞くほど街への疑問ばかりが浮かんで、未だに頭痛を覚えている頭で必死に事の整理を試みる。
ルフラン自体は大きな街だ。噴水を中心に、東西南北広く開拓されている。終焉が身を寄せている屋敷は、その中でも特に人気のない場所にあるものだ。その近辺に広がる森の広さは、予想を遥かに超えているものだろう。
その森をただ歩いていても、それなりの日数は掛かる筈だ。多く見積もって三日程度になるだろうか――それを踏まえて聞けば、出口に着かないのは当然だとも言えるだろう。
だが、森へ行ったと思われる〝商人〟達は、日数も跨ぐこともなく街へと帰ってきたのだ。単純に道に迷っただけだと、ノーチェを含める何人かが思ったらしい。「ただ迷った末に戻ってきたんだろ」という言葉が聞こえて、彼はそれに対する回答を待った。
その答えはまるで理解し難いものだった。
一本の木に印を付けておいたようだ。持ち合わせのナイフで軽く傷付け、何の気なしに足元には小石を落としておく。どこかで見た童話のように。歩きながら目印を置いて、瞬きをした後――戻ってきているのだという。
街から外への目印と言わんばかりに続いた小石の道。無造作に傷をつけられた木。生温い筈の風が酷く冷たく思えて、彼らは咄嗟に踵を返して再び外を目指す。
青々として心地のいい見た目をしている森に、鳥の囀りがよく聞こえてきた。歌を歌うように、チチチ、と鳴いている。時折小さな動物が木を駆け上がり、じっと〝商人〟達を見つめていた。まるで、監視でもされているようで、薄気味悪い。
思わず足を速めて、今度は瞬きもせずに真っ直ぐ突き進んだ。回っているというのなら、どこかで曲がっている筈だと思いながら。
機能しないと思って頼りにしない方位磁針を不意に見ると、やはり針が行き場所をなくしたかのようにぐるぐると回っていた。回っていて――不意にピタリと止まるのだ。ただ、西だけを指して。
その現象に見舞われたとき、彼らは再び傷を付けた木の傍に立っているのだという。
頭が痛くなった。
彼は眉を顰めて扉から離れ、首を傾げる。本当にそんなことがあっていいのか、と。何せ彼らはこの街に辿り着く前にあの森を通っているのだ。道に迷わず、思うままに歩いていれば、大きな街が姿を現したのだ。
「…………そこから既に始まっていた……?」
あの迷わずに街へ辿り着いた出来事が、切っ掛けに過ぎないのだろうか。
街に辿り着けた時間は、覚えている限りでは日が昇っている昼の時間帯だ。そして、森へ入ったのも、恐らく日のある時間帯だ。見た感じ大きいと思えるあの森を、たった数時間で街に着けるほど簡単に抜けられるとは思えない。
あの日はまるで。――そう、まるで、時間でも忘れたかのような――。
「仕方ない。少し様子を見に行くぞ」
「あれはどうします?」
「……どうせ一人じゃ何もできやしねぇよ」
――ふと聞こえてきた言葉に、ノーチェはハッとした。
直後に足音が遠ざかり、扉が閉まるような音が鳴る。金属製ではなく、木製の響きに、ノーチェはゆっくりと目の前の扉を開いた。
言葉から伝わる、〝商人〟達がこぞって森へ向かうという事実。奴隷程度には何もできないという先入観に囚われ、ノーチェを置き去りにするというのだから、滑稽なことだ。
扉を開けて、こっそりと覗き見た部屋には人が一人もいなかった。予想通りだ。このまま帰ってくるのが遅ければ、ノーチェは逃げられること間違いないだろう。街の広さにまた迷うかもしれないが、何とかなる――という、謎の自信がノーチェの足を動かした。
恐る恐る踏み入れた部屋は、ごく普通の部屋だった。クローゼットと、本棚と、キッチン。真四角のテーブルに、小さな窓に掛かるカーテン。地下室の扉はどこかの壁にあるようで、真隣には本棚が聳え立っている。
地下室への扉を閉めて、何気なく歩いて開いてみたクローゼット。未だに生活感が垣間見えるほどにすんなりと開いた先、いくつもの手紙がノーチェの足元にばさばさと音を立てて広がった。
「うわっ、なん……」
何だこれ、と言いかけた口が思わず止まる。中身を見たわけではない。特別可笑しなものがあったわけでもない。ただ、本能がそれに対する嫌悪感を露わにしたのだ。無意識に口許を押さえて、声を出すことをやめてしまうほど。
不気味な量の手紙だ。封がされているが、数十――いや、数百に及ぶであろう大量の手紙からは、何故か寒気を覚えてしまう。――薄気味悪い。見てはいけないものだ。
ノーチェは気を取り直し、散らばった手紙もそのままに咄嗟に扉へと向かった。床から微かに軋む音が聞こえたが、気にしている場合ではない。早く屋敷へ戻って、魘されている筈の終焉の元へと、帰りたいのだ。
未だ太陽は空高く昇っているのだろうか。それとも、多少は傾いてきただろうか。何にせよ暑すぎるであろう外に覚悟を決めて、ノーチェは光が微かに洩れる扉へ手を掛ける――。
「――んなぁ」
「っ!」
不意にやって来た猫の鳴き声に、彼は反射的に振り返った。
甘えるような愛らしい鳴き声が背中から聞こえた。突然のことに心臓は高く鳴り、気分の悪さを助長させる。はっきりと聞こえた鳴き声に、一体どこから入り込んだのかと、確かな疑問が頭によぎった。
この家には先程まで〝商人〟達がいたのだ。彼らは自分の邪魔になるであろうものなら、容赦なく手を出して追い出してしまう人物。猫の侵入すらも許さない筈なのに、猫がいる筈もない。気配に敏感なノーチェが気が付かない筈もないのだ。
しかし――
「……あ、え……? 今、確かに……」
――そこに猫の姿はなかった。
気のせい――ということはないだろう。ノーチェは確かに猫の声を聞き入れたのだ。この耳ではっきりと。家の外から聞こえたような声量ではない。この部屋の中心――テーブルから聞こえたのだ。
猫、といえばあの白い猫を思い出してしまって、何とも言えない気持ちになる。何の害もない動物達が、無造作に命を刈り取られるのは、妙な気持ちになった。
――ざり、
――そんな気持ちに浸っていると、足音がすぐ近くにまで迫っていることに気が付く。土を踏み締める独特な音だ。扉のすぐ近くにいるようで、小さな違和感を胸に抱く。
もし、もしも〝商人〟達が、帰ってきたのなら――どうなるのだろうか。
そんな彼の不安を他所に、扉は無慈悲にも開いていった。