歩いてたった数分の距離で不意に終焉がノーチェを見やる。何かを言いたげに一度瞬きをして、歩く速度を微かに緩めてみせた。――そこで、ノーチェは終焉と歩く速度が違うのだと思い知らされる。振り返れば屋敷は目に見える距離だと言うのに、終焉とノーチェの間には肩幅程度の距離が開いていた。――且つ、ノーチェは妙に息苦しく、肩で呼吸を繰り返している。
それが、ノーチェが奴隷になって変わってしまったものの一つのように思えた。ただ普通に歩くだけで足が重く、呼吸が難しい――体力が落ちてしまったのだと十分すぎるほどに理解してしまった。更に言えば履いている靴は自分に合ったものではない。この妙な違和感が疲労を呼び起こす一つの要因でもあるのだろう。
ノーチェは終焉が急いているように見えて、咄嗟に足を速める。――すると、男は「急がなくてもいい」と言って再び向こうを向いてしまう。
「私が歩幅を合わせるから。疲れたら遠慮なく言ってくれ」
そう言って再び歩き出した終焉の歩く速度はゆったりとしたものに変わっていた。これなら確かに追い付ける、とノーチェも歩きやすい速度に変えて、ほう、と息を吐く。終焉は何をしようにも自分ではなくノーチェを一番に考えているようで、ちらりと見上げたその横顔は何よりも凛としているように見えた。
「……なあ………………あの」
「『なあ』で十分だ。何だ?」
歩くだけの沈黙が辛い、と言わんばかりにノーチェは咄嗟に口を開く。時折吹いてくる風が見慣れない花を連れてやってくる所為か、ほんの少し鬱陶しく思えた。訂正しようと後に続いた言葉を打ちのめされ、ノーチェは終焉が答える気でいるのを認識する。
「……初めて来たとき、屋敷……って言うのか? 中、結構廃れてるように見えたっていうか……何て言うか…………」
綺麗ではなかった、と言いかけて、どこまでが失礼に値するのか未だ掴めないノーチェはそっと口を閉ざす。
彼の言いたいことは確かに伝わった、初め屋敷を訪れたノーチェの目にはそれが廃墟にも似た何かに見えたのだ。お世辞にも綺麗とは言えないが、汚いとも決めつけがたい微妙なライン。下手をすれば獣以外の何かが陰から出てくるのではないか、と思わせてくるほどの暗さだった。
しかし、一夜を過ごせばそこは何の変哲もない、独りで住むにはあまりにも広すぎる小綺麗な屋敷だった。――いや、綺麗すぎた。部屋の隅々にまで至る完璧な掃除、植物の葉っぱ一枚にまで拘る手入れ、料理にまで滲み出る器用さ――どれをとっても廃れていた筈の景色など生み出すようには見えない。
――だが、その質問でさえも予想の範囲内だと言いたげに終焉はノーチェを見ることもなく、「そのことか」と口を溢す。
「先程出ていくときに見ただろう? あれだよ。他者から見るあの住み処は、霊でも出てくる廃墟に見えておいた方がこちらとしても都合がいいのだ」
それがノーチェの問い掛けに対する明確な答えかどうかは、問い掛けた本人にも理解しがたかった。ただ、「そういうもの」という認識をしてしまう方が楽なように思え、「そういうもんなのか」と小さく口を洩らす。不思議とその呟きは終焉に届いてしまっているようで、くすりと笑い混じりに「そういうものなのだ」と男は言った。まるで、理解しなくても問題はない、と言いたげなその様子にノーチェは瞬きをしてから「ふーん」と呟く。
ぽつぽつと微かに拓いた土の上を踏み締めていると、小さな丘を目の前にした。そこには街には似合うとも言いがたい大きく立派な木が悠然と佇んでいる。枝のいくつもの淡い桃色の花を咲かせていて――、その風貌は何よりも儚く思えた。
――いやに立派な桜の木だった。
晴れた春の日に聳え立つその桜の木は何を見た後でも感嘆の息を洩らしてしまうほど、神々しくも儚い。木洩れ日が時折花の隙間から溢れ落ち、さわさわと音を立てて風に揺られる度に心地のいい感覚に襲われる。
思わずノーチェはほう、と忘れていた呼吸を繰り返すと、全身の血液が身体中を巡る感覚に陥った。胸をいっぱいに満たす満足感のようなもの――これが感動であると懐かしく思う前に振り返り、ノーチェを見て口許だけ微かに笑う終焉と目が合った。
何度も思う感覚に違和感もなくそれを受け入れる。女のように艶やかな黒い髪、やけに白い肌――黒を纏ったその姿に桜の淡い色がよく似合うような気がして、遂に言葉を忘れる。
花弁がはらはらと舞い落ちる中でその黒い色は何よりも際立って見える。――否、黒い色に桜の淡い色が際立たされているように見え、その桜に攫われてしまうのではないか、と思えたのだ。
「――疲れたか?」
考えに浸っていると、ふと、終焉がノーチェに語りかける。屋敷からそう離れていないが、足は痛むのか、と。それにノーチェは首を左右に振って、「疲れたわけじゃない」と言う。ただ、外をまともに歩くのが懐かしいのだと。
「そうか」終焉はそう溢すと、ノーチェの傍に近寄って桜の向こうを指し示す。目指す街はもう少し先にあるのだと言って、やはりノーチェの頭を撫でる。
「…………何で今日、外に連れ出したんだ……?」
風に揺られるまま、ノーチェは不意に終焉に問いかけると、その自分より幾分か高い背を見上げる。奴隷として生きている所為か、妙に背が丸まってしまっているようで、その数十センチ高い背丈も見上げるのがやけに億劫だった。
理由は多少分かっている。靴を新調するためだ。いくら衣服を与えられたとしても靴がなければ足が常に傷付いてしまい、まともに歩くこともできなくなってしまう。そういった要因を一つでも無くすために終焉はわざわざ連れ出したのだ。
――だが、ノーチェを連れ出さずとも衣服を買い与えた終焉のことだ。足の大きささえ伝えておけば、外に連れ出す必要もなかったのではないか――。
「……むぅ……仕方がないな……」
そう呟きながら終焉はノーチェの手を引き、ゆったりとした足取りで桜の木を後にする。はらはらと落ちる桜の花弁を背に、若草や土を踏み締めながら終焉はぽつりぽつりと呟きを洩らす。
「今日は祭りなのだ」
「…………祭り……?」
手を引かれなければ歩かないと思われているのか、終焉はノーチェの腕を放す様子もなくただ前を見据えたまま歩いていく。
花祭り――恋人、親友、知人、家族に感謝の意を込めて各々選んだ花を渡すための祭り。元はといえば素直に感謝を伝えられなかったとある当主が提案し、自ら祭りに参加したとされている。それが時を越えて世代を超えて、今の今まで伝わってきたとされているのだ。
花の種類に規定はない。余程の恨みが込められたものでない限り、自由に選んでもいいと言われている。――中には花に疎く、参加の意識もない人間が多数居るが、街で配る花を押し付けられたが最後、最も感謝している人間に手渡さなければならない日とも言われているという。
その光景はまるで春の訪れを祝うかのような華やかな景色で、誰も彼もがその雰囲気に呑まれてしまうと囁かれている――。
そんな祭りを歩きながら伝える終焉は表情ひとつ変わることなく、淡々とした口調のままだった。それが妙に退屈そうな表情に見えて、手を引かれたまま歩くノーチェは「そう」とだけ呟いて、くっと手を引く。「別に引っ張らなくても歩けるから」――そう意志を込めた動きだった、
そのノーチェの行動に気が付いた終焉は、ふと振り返って彼の顔を見る。無表情ながらもどこか鬱陶しげな目で終焉を見上げていて、微かに口をへの字に曲げている。いい加減離してくれと言わんばかりの表情に終焉はどこか渋り、むぅ、と口を洩らしたが――やがて惜しむようにゆっくりと手を離した。
漸く手を引かれることから解放されたノーチェはほっと息を吐く。どのような意図があるのかは分からないが、靴を買うついでに終焉はノーチェと共に祭りに身を投じるというのだ。街がどの程度の広さか、どの程度の人口密度か、足を踏み入れて間もなく自分の身に起きた出来事を思い返しながら、多少の警戒はしなければならないと口を固く結ぶ。
――いや、首輪がある以上逃れられない運命なのではないか――?
不意に喉元で息が詰まるような感覚に呑まれ、ノーチェは無意識に与えられた服の裾を握り締める。春の空は彼の心とは裏腹に燦々と照る太陽が眩しく、程好く散らばった白い雲も、その隙間から覗き見える青い空も何もかもいやに綺麗だった。
一言で言い表すなら、やけに憎たらしかった。
何も知らないでのうのうと青空の下で生きている人間、奴隷を買って蔑み、いたぶる人間、丁度いい人間を奴隷にする商人、そして腐ったこの世の中を見逃し続けている世界――その何もかもがやたらと憎かった。
重くなる足を引きずるように歩いていると、終焉がこちらを見て何かを見つめているように見えた。その時間はたった数秒だというのに、体感時間は優に数十分を超えているように思えた。
ノーチェは終焉がたった今振り返ったものだと思い、「ちゃんと歩いてる」と口を洩らせば、終焉は軽く首を左右に振って、何かを否定する。
「……随分と考え込んでいたようだな」
「………………」
視線が痛い。穴が空くのではないかと思うほどじぃっとこちらを見つめる鋭い瞳が、棘のように体に刺さっている気がする。それをも感じさせず、ノーチェは「別に」と軽く俯くと、終焉は追及することもなく、「そうか」とだけ呟いて徐に腕を差し出す。
再び手を繋ぐのだと言われているようで、咄嗟に「歩ける」と言ったが、終焉は一度首を傾げたあと、気が付いたかのように「ああ」と口を開いて自分の袖を指で摘まんだ。
「袖を摘まんでおくのだろう? 善くも悪くもここの人間は多いからな」
もう間もなく着いてしまうよ。終焉はノーチェに手を差し出しながら徐に振り返ってしまった。その向こうは確かに見慣れない街並みに妙な飾りつけがよく目立つ。いつ膨らませたのかも分からない風船に、いつ飾り付けたのかも分からない三角旗がところどころ建物に掛かっている。
遠巻きに見ても分かるその賑やかな光景はあまりにも慣れがたく、差し出されたその手の袖をゆっくりと摘まむと、妙な緊張感が胸にのし掛かるのがよく分かった。むず痒く、胸元を押さえつけたくなるほど、動悸が激しいと感じる。思わず不快なものを見るようにノーチェは眉を微かに顰めたが、理由は明白だった。
ちらりと目で終焉を見上げる。男はこちら側の意図などまるで分からないと言いたげにノーチェを見つめたまま動くことはなく、まるでノーチェの答えを待っているように見える。
妙な緊張感の原因は――この男が奴隷として買っていないからだ。
奴隷として買われていればろくな衣食住は与えられない他、まともな外出さえもろくにできなかった筈だ。痛めつけられるか、こき使われるか、それこそ玩具のように弄ばれるかのいずれか。殴られないことなどまずなかっただろう。清潔も保てず、満腹感も得られず、生まれてきたことに後悔さえ覚えてしまうほどだ。
――それがどうだろう。目の前の男はまず弄ぶことはない。あくまでノーチェのために金を使い、ノーチェのために料理を振る舞い、景色を見せたいがために外に連れ出し始めるのだ。挙げ句にその場所は人が溢れ、祭りのために華やかな場所へと変貌しているという。
今更ながら蔑まれることに恐怖など抱いてはいない。――しかし、今の自分からはかけ離れていた眩しく、小綺麗な場所に赴くなど、気持ちがついていかなかった。胸に募る緊張感と、ある種の抵抗があるのは今の自分が行くには到底縁のない場所だと思っているからだろう。
「……!?」
――不意にノーチェの視界に自分とは真逆の色をした黒い髪がいっぱいに広がった。同じ洗髪剤を使っているというのに漂ってくるその香りはまるで知らず、初めて感じるもののように思える。
突然の出来事にノーチェは思わずぐっと体を仰け反らすと、終焉はノーチェが驚いたことに気が付いたようで、「すまん」と言いながら何事もなかったように距離を保つ。
「びっ……くりした…………」
妙な緊張感を張り巡らせている最中に起こった出来事なのだから、それに対する反応もどこか過剰だった。反射的に胸元に手を当てて脈を測ると、どくどくと動く速い鼓動が手のひらに伝わってくる。
顔が近かったというよりは、首元に顔を埋められている感覚がした。咄嗟に首にも手を当てたが、当たるのは冷たくヒヤリとした感触だけ。一体何をしていたのだと問いたくなったが、終焉は「早く行こう」とまるで子供のように急いてくるので、どこか気が削がれてしまった。――代わりに大きな溜め息をひとつ。はあ、と吐きながら摘まむ指に力を込める。
「――ああ、あと、そう警戒しなくていい」
何もかもを見透かしたような発言に、ノーチェの手指がぴくりと動く。
「まだ貴方にとっていいことを教えてやろう。――この街は〝教会〟に支配されているのだ」
――そう言って、二人は土から石畳へと歩く場所を変えた。