「…………ん、ぅ……」
――ばたばたと屋根を打ち付ける雨音が煩わしいと感じる中、ヴェルダリアはゆるりと目を覚ます。聖堂の長椅子に行儀悪く寝転がっていたところ、深い眠りに落ちてしまったようで夢を見ていた。酷く懐かしい、過去の話だ。
日の光が届かない今、鮮やかなステンドグラスは一変して仄かに不気味さを湛えており、教会の中は酷く薄暗かった。嫌なときに起きてしまったものだと思いながら、ヴェルダリアは体を起こすと――ぱさりと音を立てて何かが落ちた。
音に驚き彼はふと視線を向けると、そこにあるのは掛けた覚えのない布団が落ちていた。
「…………あー……」
勘のようなものが囁き、彼は軽く頭を掻く。無地の何の変哲もないただの布団に多少思い当たる節があって、小さく吐息を洩らした。すると、それを裏付けるように離れた扉がきぃ、と音を立てて開く。――成長するにつれてほんのりと赤みが増していくグラデーションに染まった髪が小さく揺れた。
「……!」
小走りで駆け寄ってきて彼女はヴェルダリアの傍に寄る。唇を開くことはないが、手に持っている食物を見たとき、それが自分のためにあるのだと彼は気が付く。特に必要がない筈なのに、人間と然して変わらない扱いをするのも特有の行動なのだろうか。
彼は軽く目を擦った後、彼女の頭に手を載せる。「今日も雨だな」なんて言って気分が悪そうにステンドグラスの向こうに視線を投げる。仄暗いガラスの向こうから雨が打ち付ける音が聞こえて、不愉快極まりない。
――そんな彼を宥めるよう、レインはそれを差し出してやる。どこで学んできたのかも分からない、兎の形をした林檎が彼の目の前に出された。「……お前器用だな?」思わずそう呟けば彼女は照れ臭そうに目を逸らす。褒めたわけではないが、決して貶したわけでもない言葉に、ヴェルダリア自身も言い方を模索するべきだと頭を捻った。
差し出された林檎を手に取り、彼は容赦なく口へと運ぶ。その様子を見かねたレインは何とも言えないような――ほんの少し泣きそうな――顔をしてしまった。愛らしい形のそれが食われるのがいたたまれないようだ。
「……いや、そんな顔すんなら切るなよ……」
林檎の食感は軽く、飲み込むのも苦ではない。
それを喉の奥へ流した後、ほとほとと涙を流すような素振りを取るレインを撫でてやる。柔らかい毛髪の手触りは心地好く、女特有の艶も十分にある。どこぞの誰かと同じくらいの綺麗さに満足していると、レインが頬を赤く染めて小さく顔を俯かせた。
「レイン――」
「…………?」
お前は本当に感情が出やすいな、などと言おうとした矢先、ヴェルダリアの言葉が止まる。彼女はそれに気が付かない様子だったが、ヴェルダリアは辺りを見渡すほどその変化に気が付いていたのだ。
――雨が大嫌いだから、雨音が突然やんだことにいち早く気が付いてしまった。
有り得ない、と小さく呟きを盛らす。レインはヴェルダリアの様子が変わったことに気が付くと、倣うように辺りを見渡し始めた。仄暗い教会に響いていた筈の音がひとつも届いてこない。冬のような静寂に僅かな恐怖さえも覚えてしまう時間だ。
そう、まるで時が止まったかのような――。
「――相変わらず威勢だけはいいのね」
リン、と鈴の音が鳴るような軽やかな声が静寂の中に響き渡った。
瞬間、彼は顔を顰めて「何の用だ」と低い声で呟く。その声はヴェルダリアの背後から聞こえるような気がするが――彼は振り返る様子もなく、前を見据えたまま舌打ちをする。声の主を目にしているのは、ヴェルダリアの向かい側に立ち尽くすレインただ一人だ。
その声は随分と幼いものだった。丁度ヴェルダリアの体で見えなかった姿が、長椅子越しに漸く現れる。薄金の長い三つ編み、フード付きのローブを着て、短めのスカートを軽く揺らす。淡い若草のような目に優しい色が薄金の髪をよりいっそう引き立てているようだった。
前髪からちらりと覗く躑躅色の瞳には、僅かながらも嫌悪が見て取れる。
少女は跳ねるように軽やかに、教会の中を軽く回ると「気分が悪いのだわ」と小さく愚痴を洩らす。教会内の薄暗さを嫌っているのかと思ったが、また別のものを嫌がっているようで、パイプオルガンやマリア像には一切近寄らなかった。
そんな少女に彼は「だったら消えろ」と怒気を含んだ声色で言い放つ。視線こそ投げ掛けてやらないが、明らかな嫌悪は少女に向けられたものだろう。取り残されたような気分のレインは、目の前にいる男が不機嫌になるのを恐れ、ただ宥めようとした。
ああ、嫌――少女が軽く呟く。表情が窺えず声色だけで判断すれば、あまりの無機質なその声に堪らず身震いを覚えてしまう。少女らしからぬ声にヴェルダリアは眉根を顰めていると、ぽつりと言葉が呟かれる。
「大嫌いな貴方にこんなにも時間をあげているのよ。ただでさえあれにもイライラしているの。取り返しのつかないことになってほしくなかったら、早くして頂戴」
ふらり、少女が蝶のように舞うように、教会の扉をゆっくりと押し上げて雨が降る外へと行ってしまう。――瞬間、止まっていた時が動き出したようにけたたましい雨音が聖堂に響き渡った。ばたばたと酷く厄介な音だ。静けさを求めようにも雨が降る時間では願いも叶わない。
取り返しのつかないことになってほしくなかったら――そう少女の言葉がヴェルダリアの頭の中で反芻する。金の瞳が軽く揺れるように静かに細められ、レインは小さく瞬きをする。少女が現れてからいやに静かになった彼が気になるのだろう――何気なく手を伸ばすと、赤い髪を軽く撫でる。
「…………んだよ」
子供をあやすような手付きに思わず彼が唇を尖らせると、彼女は小さく笑って――
「ひゃっ!?」
「うお……!」
――突然の雷鳴に驚いて咄嗟にヴェルダリアへと抱きついた。
ゴロゴロと唸るような低い音が真上から聞こえてくる。大きな物音が苦手なのか、彼女はヴェルダリアにしがみついたまま体を震わせていて、彼はあやすようにひたすら頭を撫でてやる。
酷い雨だ。この調子だと夜には更に酷くなるような気がして――、ヴェルダリアは天井を仰ぎ見ながら溜め息を吐くのだった。