雨の中に蔓延る闇

 ――ぱしゃん
 そんな水音が一際大きく聞こえたような気がして、彼はそれに目を向ける。視線の先に居るのはぽつぽつと歩く人を真似るように傘を差し、立ち尽くす一人の青年。燃えるような淡い炎の色を持った髪にルビーのような瞳が酷く印象的な女だった。

「……レイン、お前」

 薄暗い瞳に静けさを湛えながら立ち尽くすレインと呼ばれた女は、以前終焉の怒りを買い、商人の盾にされそうになった女だ。彼女もまた教会とは関係なしに街を彷徨いていたようで、シスターのような服とは違い、清楚な私服を身にまとっている。淡色の七分丈のカットソーに踝まで伸びるロングスカートが黙りのレインによく似合っている気がした。
 ヴェルダリアが思わず驚くように瞬きをしながら言葉を洩らすと、レインはスカートに隠れる足をつい、と前に出して彼の元にそうっと駆け寄る。その容姿に見合わない黒い傘はまるで曇天を思わせるようで異質だった。
 レインの手元にあるのはひとつの傘。それをヴェルダリアの方へ差し出すと、彼女は何も言わずただじっとヴェルダリアの顔を見つめる。仄暗いルビーの瞳に間抜けな表情を浮かべたヴェルダリアの顔が微かに映っていた。「……何だ?」と差し出された理由も分かっていながら彼はその行動に問い掛ける。

「俺はもう濡れてるから別に要らねぇよ」

 彼はレインが差し出した傘を手で押し返すと嫌そうに屋根の下から体を出そうとした。

「…………」

 ――すると、レインがヴェルダリアの体を押し戻し押し返された傘を再び目の前に差し出す。その反動にレインの手元から黒い傘が弾かれるように落ち、雨に濡れていない体がみるみるうちに濡れていくのが見てとれた。雨粒が大きさを変えたのか、跡が大きく服に染み渡る。
 「おいおい濡れるぜ」押し返されたことに驚きを覚えながらも紡いだ言葉に、レインは落ちた傘を茫然と――まるで手元から落ちたことが不思議で仕方ないと言わんばかりに――見つめて、彼へ顔を向け直す。「傘を差してください」なんて今にも言い出しそうな顔付きで、差し出す傘を尚もヴェルダリアに近付けた。

「……だからよぉ、俺は要らねえってば。そう遠くねぇだろ? 差さなくても問題なんて」
「…………」

 彼は終焉殺しの異名を持つことと、好戦的な性格で程好く周りから恐れられている。――しかし、そんなヴェルダリアにも頭の上がらない――と言うよりは何を言っても聞いてくれない――存在が居る。それが他でもないレインそのものだ。
 レインはヴェルダリアが何度必要ないと言ってもろくに話を聞かなかった。それどころか口を開く度にぐいぐいと傘を押し付けてきて、自分の体が濡れることなど気にも留めていない様子だ。端から見ればただ好意を押し付けあっているカップルのように見られる可能性さえあるのだが、雨が降っていて人通りが少ないことから、そのような噂など立つ兆しもない。
 彼は「しつこいぞ」と口を溢したが、レインはそこはかとなく顔をしかめてじっと彼を睨むように見つめている。このままでは――多少手遅れな気もするが――どちらも風邪を引きかねない。更に言えばレインは女だ、目のやり場に困ることが懸念されるだろう。
 ヴェルダリアは一向に引く気配のないレインに大きく溜め息を吐き、頭を掻いた。じっとりと湿った汗が指先に伝う。それが嫌で小さく舌打ちをすると「仕方ねえなぁ!」と気を紛らすように一言。レインが持つ真新しい傘を手に取って留め具を外す。
 彼女はそれにどこか表情を明るめて落ちた傘を取りに行った。

「濡れてるから意味ねぇって言ってん…………おい何だこれ」

 ばさ、と音を立てて勢いよく開いた傘には桃色のストライプの柄が程好く施されていて、女が使っても可笑しくないほど可愛らしいものだった。

 ――そもそも可笑しいと思っていたのだ。レインが使っている傘はあまりにも無骨で、男が使っても可笑しくない代物だった。その傘は体をいとも簡単に覆い隠してしまい、大きすぎると言っても過言ではないほどだ。何の装飾もなく持ち手は可愛らしさの欠片もない。
 彼はレインが自分に不満があるのかと思い、徐に彼女へと顔を向けて様子を窺った。レインはヴェルダリアの言葉に傘を拾う手を止めてヴェルダリアを見やる。そこには可愛らしい傘を開いたまま固まってレインを見つめるヴェルダリアが居た。
 ほんの少し状況を理解するのに時間が掛かったのだろう。レインは雨に打たれながらそれをぼうっと眺めていると、咄嗟に首を横に振ってヴェルダリアが言いたげにしていることを否定する。

 ――聞けばそれは教会の長、モーゼがレインを遣いに寄越したそうだ。その際にくつくつと笑いながら「これを持って行きなさい」と傘を手渡したそうで、彼女はそれに従っただけだという。
 モーゼが笑っていたのはヴェルダリアの反応を想像してだろう。それにまんまと嵌まってしまった彼は酷く不愉快で、胸の奥が――腹の奥が煮えきるような感覚を覚えてしまう。食道を通って出てきそうな鬱憤を言葉に乗せたら目の前の女が自分のことだと思って傷ついてしまいそうで――彼はそれをモーゼのために取っておいてやろうと言葉を呑み込む。
 落ち着いて深呼吸を繰り返した。しかし、手元にあるそれを見る度に腸が煮え繰り返るような気分に陥って、ヴェルダリアは表情を歪める。弾かれるように屋根の下から体を出して、軽く焦るレインの手から黒い傘を奪い取った。

「こっちのはお前が使ってろ」

 開いたままの傘をつい、とレインへと押し付けた。雨が凌げるよう手に取るまで頭の上に差してやって、だ。ばたばたと傘の中で反響する音は心地よく、レインは茫然とヴェルダリアの顔を見上げる。その光景が何かを彷彿とさせてくるような気がして、彼女は暫くの間身動きが取れなかった。
 その間にもヴェルダリアは傘を差すこともできず新しく体を濡らしていく。思わず「どうした」と問い掛ければ、レインはハッとした様子で慌ててその傘を手に取り、小さく口を開いた。

「……有り難う、ございます」
「――やめろ」

 レインの小さな言葉に彼は間髪入れず口を挟む。純粋無垢な礼に対して冷めきったその声色は彼女を怯えさせて、身を縮める。余計なことをしてしまったのではないかとレインの胸にいくつもの不安が押し寄せる。形のいい唇を不安げに震わせて、薄暗い瞳を揺らめかせた。
 そんな彼女に彼は手を伸ばし、濡れきった頭を撫でてやる。それは先程のノーチェを撫でるような乱暴な手付きではなく、小さな生き物を愛でるように優しいものだった。濡れきった髪に手が当てられくしゃりと音を立てるが、乱暴でないのは相手が女だからだろうか。
 それともまた別の理由があるのだろうか――。

「無理して俺と話すんじゃねえよ。喉痛めんぞ」

 ふ、と微笑んでやってヴェルダリアはレインから手を離した。今まで人を見下したように嘲笑う男が浮かべるとは思えなかったほどの柔らかい微笑みに、レインは微かに――それも悲しそうに――微笑んで小さく頷く。自分の首元に軽く指先を置いた。そこにあるのは黒いチョーカーを模した首輪のような何か。ほう、と吐息を吐いて落ち込むような様はまさに憂いを帯びた淑女そのものだろう。
 ヴェルダリアはそれを横目に一度目を閉じる。先程から雨音が傘によってくぐもったような音へと変わった。雨粒が体に当たらなくなったのは好ましいことだが、既に雨に濡れているヴェルダリアとしては雨避けができているとしても素肌に付着する衣服が厄介で仕方ない。加えてレインはそれとなく薄着ときたものだ。ところどころ透けて見えるそれに彼は小さく舌打ちを溢し、濡れた服に手をかける。
 ホックを解いて慣れた手付きで上着を脱ぐと、黒いインナーが顔を出した。七分丈のそれは違和感なくヴェルダリアに似合っていて、湿気を含んでいた分露わになると外の空気が涼しく思えるのが特徴的だった。――今はその涼しささえ湿度をより感じさせるものに近しいのが何とも言えないところだろう。
 彼はその濡れた上着をレインに向けて軽く投げつけた。顔に当たる――そのすれすれでばさりと音を立てながら上着はレインの頭の上にかぶさる。ほんのりと湿気をまとった重い上着にレインは目を丸くすると、「暑くても羽織っておけ」とヴェルダリアが背を向けながら呟いた。

 理由はすぐに分かった。
 ふと目を落とすと薄く透けた衣服の向こうにある下着が微かに透けて見えている。雨に濡れている箇所から、じっと目を凝らせば凝らすほどなだらかな体の曲線が見てとれた。それは成熟した女の体そのもので、見る者が見れば魅了されてしまうような美しい曲線だ。
 それに気が付くとレインは咄嗟に彼の上着を抱えていそいそと袖を通した。――案の定手が袖に隠れるほどに服は大きく、彼女の腰をすっかり隠してしまっている。暑いと言うのにも拘わらず、ホックを全て取り付けて首元まで隠してしまうのだから、相当慌てていたのだろう。準備いいか、とヴェルダリアが振り向いた先で見たものは、上着をしっかりと着てヴェルダリアを見るレインだった。

「……上くらいは開けりゃいいだろ。暑いんだから」

 そう言って彼女が着た上着の襟のホックを外すと、レインはほんの少し楽になったかのように呼吸を繰り返した。咄嗟に礼を述べようとしたが、ヴェルダリアの鋭い金の瞳に押し負け、レインは小さく頷いてみせる。「楽だろ」と彼が口を溢すと、彼女は一度頷いた。

「……よし帰るか」

 そう肩を並べて石畳を踏み締める彼らの後ろ姿を見ていたのは、道端に咲く青い紫陽花だけだった。