雨の中に蔓延る闇

 雨は止むことを露知らず。鈍色の――今にも雲が落ちてきそうな――空からざあざあと降り頻る雨の音は不思議と心地好く思えた。街にある大きな時計塔は雨の日も静かに時を刻んでいて、一時間毎に金を大きく鳴らしている。それが酷く喧しく聞こえてしまうのだが、この街にはなくてはならないものだろう。
 大きく広がる庭の間を縫って聳え立つ教会の扉を押し開ける。ぎぃ、と小さな音を立てて開いた向こう、普段は明るい色で満ちた聖堂は薄暗さにより奇妙な雰囲気を湛えていた。光が差し込んで美しく煌めくステンドグラスは、日差しがなければ寂れた廃館のような不気味さを覚えさせてくるようだ。

 傘を折り畳みふう、と一息吐くヴェルダリアは自分の頭を掻いて上げていた前髪を下ろす。濡れてしまった以上、髪型を維持するのも無意味だと思ったのだろう――前髪を下ろした彼の見目はどこか幼く見えて、珍しいことこの上ない。額にあった傷痕は髪に隠れていて、頬に残る傷痕だけが痛々しく姿を現している。
 彼の隣でくるくると傘を畳み、レインはほっと肩の荷を下ろすようにヴェルダリアと同じように一息吐こうとした。すると、彼は「早く着替えてこい」と背を押すように呟く。
 休憩のひとつも取らせてくれない――なんて不満は彼女にはなかった。レインはハッとしたように目を丸くして、咄嗟に聖堂の奥にある部屋に駆けていく。「上着返せよ」思い出したようにヴェルダリアが声をかけると、レインは彼に振り返って両腕を包むように服を握り締めた。
 まだ駄目と言いたげな行動に、ヴェルダリアは思わず口を開いて「反抗期か……?」と独り言を洩らす。傘を抱えて駆けるその後ろ姿は特別反抗するように見えないが――心のうちは皆目見当もつかない。人知れず反抗期を迎えて大人にでも成長するのだろう。

 そう思えば思うほど、彼の胸には謎の感動が生まれたような気がした。

 ――しかし、その感情に浸るのも束の間。かたん、と小さな物音と共に姿を現したそれにヴェルダリアは眉を寄せる。レインが向かった方とはまた別の方向だったのがせめてもの救いだろう。――押し寄せる鉄の香りに彼の鼻の奥が痛むような気がした。

「やあ。傘は気に入ってくれたかな?」

 そう呟いたのは他でもない、レインを寄越したモーゼ本人だった。
 モーゼは慣れた足取りで聖堂を歩き、ヴェルダリアの傍へと近付いていく。長椅子で隠れていた手元が露わになると同時に彼はレインを早めに部屋に向かわせたことに安堵を覚えた。こつりと低い音を立てて赤い絨毯の上に足を踏み入れたモーゼの手元には黒い塊――一匹の猫が掴まれていた。
 正確には一匹「だった」と言うべきだろうか――モーゼは片手に頭部を掴み、もう片手に胴体を掴み上げていた。誰がどう見てもその猫の頭と体は分離していて、断面と思われる箇所からは絶え間なく血が滴り落ちている。猫がそうなってから数分程度しか経っていないのだろう――真新しい血の香りは酷く不快だった。
 それを手にしながらモーゼは人のよさそうな微笑みを浮かべている。「誰が気に入るかよ」そう答えてやってヴェルダリアは例の傘が気に入らなかったことを示した。

 モーゼはヴェルダリアのような男が可愛らしい傘を使っているのを見て笑いたかったのだろうが、勿論彼はその手には乗らないつもりだ。だからこそレインから傘を奪い取って半ば無理矢理交換をしたのだろうが――恐らくそれもモーゼの手の中だろう。でなければレインが大きな黒い傘を使うことなどない筈なのだから。
 大方雨が降り始めた辺りでモーゼがレインにヴェルダリアを迎えに行くよう言ったのだろう。その際に多少のおふざけを混ぜ、レインには男物の傘を、ヴェルダリアには女物の傘を使うよう彼女に言ったに違いない。
 ヴェルダリアは自分が玩具のように思われたことが酷く不快で、モーゼを睨み付けながら舌打ちをした。「おお、怖い怖い」そう言って笑いながら亡骸を手にモーゼはヴェルダリアの目の前で立ち止まる。

「はい、じゃあ燃やしてくれるかい」

 何でもないかのように猫だったものを彼に差し出すと、ヴェルダリアお得意の魔法でそれを燃やせと言った。
 ぐったりと項垂れるような胴体は微かに湿っていて、つい先程まで生きていたのではないかと思わせてくるほど。――実際はその湿り具合が雨によってなのか血によってなのか、判断はつかないが、滑り気を帯びたその鮮血からすれば、もしかすると血液によっての所為なのかもしれない。
 「可哀想に」――そう言ったのはヴェルダリアではなく、手にかけた筈のモーゼだった。

 彼はその亡骸の傍に素手を差し出して、ゆっくりと親指と中指の腹を合わせる。同時に薬指と小指を折り畳んで、――指を弾いてぱちん、と小さく鳴らした。
 すると、音もなくたちどころに火が燃え盛り猫の亡骸を包み始める。肉の焼ける奇妙な臭いは鼻の奥をつん、と刺激して心地いいものではなかった。頭部と胴体それぞれを掴み上げているモーゼの手を火が襲うものの、男は何の反応もなくただ小さく話をする。

「この子はね、足に怪我を負っていたからね。痛みがなくなるようにしてあげたのさ」

 ぱちぱちと燃えるそれを見て、そう語るモーゼにヴェルダリアが鼻で笑う。

「ほざけ。てめぇが傷を負わせたんだろうが」

 火が燃える向こうで見る互いの顔は懐を探り、相手の考えを読もうという意志が読み取れる。仄かに暗闇を湛える深い紫の瞳に獣を彷彿とさせる金の瞳――交差する視線は針のように鋭く、一瞬でも気を許してしまえば不意を突かれるような錯覚も覚えてしまう。
 その中でヴェルダリアは確かに呟いた。彼自身が目撃していたかどうか、モーゼは知りもしないが、その核心を突くような確かな口振りからすれば彼は見ていたのだろう。
 猫を傷付けた挙げ句殺したのはお前だ、と暗に言われている――それにモーゼは悪びれる様子もなく肩で一度笑いながら「そうだねぇ」と思いを馳せるように呟いた。火が燃え尽きると、手の中に収まっていたその残骸を男は振り払い、汚いものを見るような目で手を拭う。「この服も変えないとね」なんて言って、鮮血で汚れきった聖職者のような服をつまみ上げる。
 モーゼは否定することはしなかった。露骨な肯定もせずやんわりとヴェルダリアの言葉を呑み込むように受け入れたのだ。

「――それで、実際のところはどうだったんだい。“終焉の者”はそこに居たかな?」

 ゆっくりと目を薄めてモーゼはヴェルダリアに結果を求めた。

「ああ、居たよ。……まあ、居たのはあいつじゃなくて坊っちゃんだったけどなぁ」
「坊っちゃん……?」

 ヴェルダリアの口から馴染みのない言葉が発せられた所為だろう。モーゼは不思議そうに首を傾げながら言葉を繰り返すと、彼は「こっちの話だ」と言って会話を区切る。

「まさか猫を使って居場所を突き止めるなんてなぁ……それが教会のやることかね」

 ヴェルダリアはくっと口の端を上げて嫌味たらしく馬鹿にするようにモーゼを見やった。そこにあるのは何の変哲もない、澄ました顔の一人の男――何かを悪びれる様子もない、善悪の判断がまともにつかないような表情があるだけだった。

 何も彼は偶然で終焉の屋敷を見つけたのではない。ただ転々と匂いを辿っていったのだ。時には家の裏道、時には雑草を越えたその向こう――日当たりのいい場所なんかも見つけてしまって、屋敷に辿り着くとは思ってもいなかったのだが、何事も諦めないことが肝心なのだろう。
 退屈だと思う矢先、欠伸を噛み締めながら見据えた先にあったのは不自然に森を背に佇むひとつの屋敷だった。外から見る限りどうも廃れた小汚いただの空き家同然にも思えるのだが、彼はそこに人の気配を感じていた。
 ほんの少し錆びたアーチ。周りを彩り豊かな花が取り囲んでいて、大きな窓が備え付けられた庭には垣根と薔薇、紫陽花なんかも見事に咲き誇っている。 白い家具を取り揃えたガゼボの下には軽く石階段なんかがあって、茫然と「いい暮らしをしているんだな」と思うほどだ。
 彼は街の外れにある屋敷の存在には気が付いていたが、赴く気にはならなかった。――というよりはただ億劫だったのだ。決して教会のために働いているわけでもないヴェルダリアが、何故廃れた屋敷などに赴かなければならないのか――という単純な軽い反抗心からだ。
 万が一にそこに終焉が居るにしろ居ないにしろ、どうなろうがヴェルダリアには関係のないこと。ただそれだけだった。

 ――だが、それだけの理由だからこそ、屋敷を訪ねる理由も簡単に生まれるのだ。
 ――何せ彼は終焉が嫌いだから。

 黒い服をまとい、何もかもを見据えるような静かな瞳で見下ろされるのは屈辱でしかない。その目で見つめられると不思議と彼の中の何かが騒ぎ立てるような不快感が身を襲う。ざわざわと蟠りが胸焼けを引き起こして居ても立ってもいられなくなるのだ。
 だからこそヴェルダリアは屋敷へと赴いた。終焉の存在などどうでもいいという感情がある反面、男を殺したいという衝動が顔を出す。その衝動を知っているモーゼは彼にひとつ提案をした。それは勿論終焉の居場所を突き止めること。何匹かの動物に傷をつけたから傷口から流れる血の匂いを追え、ということだ。
 どこの情報かは定かにはなっていないが、モーゼは終焉がやたらと動物に好かれることを知っているようだ。それを手当たり次第に傷付け、いつかは終焉の元に辿り着くだろうという考えからヴェルダリアに話を持ち掛けたのだろう。

 当然彼はひとつ返事で済ますことをやめようとした。――だが、モーゼはヴェルダリアの弱味を握っているようで、「やってくれるよね?」とだけ言って圧をかけると彼はしぶしぶそれに従う。
 結果として彼は終焉に出会うことはなかった。しかし、代わりに連れ去られたという奴隷が一人居た。その事実から言えば、終焉が離れにある屋敷に身を寄せているのは間違いないのだろう。

 ――今回の雨で殆どの匂いは消えてしまった。それでも街の外れにある屋敷など、たったひとつしかないのだ。

「ふふ……これで彼の者の居場所は掴めたね。あとは――邪魔をどう排除しようかね」

 くすり、笑うモーゼを他所にヴェルダリアは興味を失ったようにその場を後にした。