夜が更けて尚降り頻る雨の音が喧しく思えた。それも昼とは違って夜は周りの音が聞こえないほど静まり返っているからだろう。高い屋根を打ち付けるその音が耳障りで、ノーチェは目的もなく屋敷の中を彷徨いた。客間のソファーへと座ってみたが、ばたばたと音を立てているそれが気に食わず目を伏せる。
雨の日は特に孤独感を覚えることが多かった。夜になればなるほど自分が惨めに思えることも多かった。ニュクスの遣いだと、夜に祝福されているだと言われていようが、そんなこともただの嫌味に聞こえるほど現状が気に食わない。ただ誰にも――自分にも打破できない今にそれを迎えると、自分がどうしようもない、何もできない人間なのだと思わされているようだった。
だからこそこんな雨の日は膝を抱えて溜め息を吐く。何も聞かないように顔を埋めてただ朝になるのを待った。どこか遠くでは何かをしているような物音が聞こえる。恐らく終焉が何かをしているのだろう。終焉はノーチェが寝た後に風呂に入る傾向があるようで、今終焉はノーチェが寝ているものだと思って行動しているのかもしれない。
――それはそれでノーチェには好都合だった。気分が落ち込んでいるときより触れられて嫌になるものは他にはない。相手側はこちらの身を案じているのだろうが、満足に返事を返せない以上不愉快に思い、思われることが殆どだ。家主にさえも気が付かれず朝を迎えるまで一人で居たかった。
――不意に顔を埋めているノーチェの目に見慣れないものが映り込む。暗闇に沈む世界は彼の瞳には何の意味も成さず、仄かに暗いだけの部屋に素足がひとつ。それに違和感を覚えていると、ノーチェの頭を小突く硬い感触が伝わる。
こつん。
控えめのそれに徐に彼は顔を上げると、夜目が利きそうな鋭い瞳がじっとノーチェを見下ろしていた。その手にはマグカップが収まっていて、それを手渡されているのだと気が付くとノーチェは「いらない」と首を横に振るが――
「貴方の意志は聞いていない。受け取れ」
と有無も言わさないその言葉に気圧され、徐にマグカップを受け取った。
時折終焉はノーチェのことさえも押し黙らせるような威圧感を放つことがある。それがどんな意味を孕むのかは知る由もないが、思い通りに動かないことが終焉にとって不愉快でしかないのだろう。
温まっているマグカップの中を覗くと甘い香りが漂ってきた。「これは」と思わず唇を開くと、終焉は「ただのホットミルク」とだけ呟く。
「貴方が眠れないようなので」
その口振りからはまるで先程からノーチェが屋敷内を彷徨いているのが分かっていた、と言わんばかりのもので――彼は目を伏せながら「そう……」と呟きを洩らしていた。
「落ち着くぞ」と終焉の後押しを受けて彼はそれに息を吹き掛ける。出来立てのホットミルクはマグカップの上から触るだけでも温かく、舌を火傷するのではないかと思うほど。ただでは冷めることがないと思い、気が済むところで吹き掛けるのをやめてカップの端に口をつけて飲むと、甘く、仄かにコクのある後味が残る。
「…………何か入れてんの」
「少し蜂蜜を。美味いか?」
ノーチェが何かを口にすると決まって訊いてくるそれに彼は小さく頷いて、ちびちびとそれを飲み進めた。甘いミルクが食道を通って胃に収まる度に胸の奥がじんと温まるような違和感を覚える。それと雨音が相まって余計に寂しさのようなものを感じてしまって――無意識のうちに涙を溢したようで、頬に何かが伝ったような気がした。
――まずい
そう思うものの、何故だか体は動かず、マグカップを両手で包んだまま茫然としてしまう。終焉はこれと言って特に動くこともなく、ただノーチェの様子を凝視したまま。確かに数秒が数時間にも感じられた重い空間だった。それでもホットミルクを飲む手を止められなかったのは無意識のうちにその温もりを気に入ってしまったからだろう。
数十分かけて漸く飲み終えた頃には何故か溢れた涙など引っ込んでいたが、多少のプライドも持ち合わせているノーチェだ。何故無意識に涙を流してしまったのか――それを終焉に見られたことが酷く気になった。
それは恐らく雨によって膨れ上がった孤独感が拭われたのが原因だろう。もらったホットミルクには気持ちを安定させる効果があり、眠気を誘うことも当然のように世間に知られている。お陰でノーチェの瞼は多少重くなり、屋根を打ち付ける耳障りな雨音など気にすることもなくなった。
ぼうっと意識を手放しかけるノーチェの手からカップを取ると、終焉はそのまま近くのテーブルへと置いて、徐にノーチェの腕を自分の首へ回す。男が何をするのか理解に時間がかかったのは、落ち着いた波のようにゆったりと押し寄せてくる眠気の所為だろう。――そのまま体を抱き寄せて軽く持ち上げると、柔らかな香りが漂った。
薄ら香るのは花と、桃の香り。仄かに熱を帯びる体と微かに湿ったその黒髪から、終焉が風呂上がりなのだと思わざるを得なかった。その結果――ノーチェを襲う睡魔は量を増して彼は抱き抱えられることに抵抗を示せずにいた。
必要な箇所以外は照明を消した薄暗い部屋、遠く聞こえる雨の音。ノーチェの意識を刺激しないよう細心の注意を払って階段を上る音は低く、くぐもったようなものだった。
「…………アンタ……くつ、履いてなかったっけ……」
軽く聞こえた扉を開く音に掻き消されてしまったかと思われるほど、小さな声がぽつり。抵抗の意志を見せるのをやめて体を預けながらノーチェは問い掛ける。その後に感じた柔らかな感触は――恐らく部屋の寝具だろう。布団に包まれるような柔らかな感覚は、いつまで経っても慣れることはなく――そして心地好かった。
ノーチェに布団をかぶせた後、終焉は小さく口を開く。
「雨の日は極力床を汚したくないのでな。――それに、ノーチェはいつまでも素足のままだろう」
足を踏んで怪我をさせる危険があるのでやめた。そう告げる終焉の表情は恐ろしいほどに無表情で、ノーチェへの気遣いなど感じられるようなものではなかった。
しかし、それが終焉という人物なのだろう。
ノーチェは微睡む視界に意識を手放しかけていて、「あ、そう」とだけしか返せなかった。
「…………おやすみノーチェ。明日も貴方にとっていいものであるといいな」
――「おやすみ」など、一度でも返したことがあっただろうか。
恐る恐る割れ物を扱うような手つきで頬を撫で、眠りを妨げないように小さく挨拶を溢した後、終焉が部屋を出ていったのは扉の音で理解していた。その後の記憶がないのは、彼が意識を失ったからだろう。耳障りだった筈の雨音は小さな子守唄にも思え、眠りに就くのは楽だった。
――彼は違和感のあった出来事さえ、終焉に告げられずに眠ってしまったのだ。