「…………アンタ達、話終わったの……」
――この酷く甘い空気をどうにかしようと、不意にノーチェが口を開いた。何せ、女は雨が降る前にこの屋敷に訪れていて、ノーチェと共に終焉の帰りを待っていたのだ。何かしら重要なやり取りをするに違いない。
そんなノーチェを他所に終焉とリーリエは一度目を見合わせると、「もう終わった」と言って軽く笑った。彼が二人から離れた時間はそう長くもないというのに、二人の用事は既に終えられていたというのだ。ノーチェは微かに首を傾げると、リーリエが何かを思い出したように「あ」と両の手を合わせて終焉に口を開く。
「ねえ。折角だからあんたの作ったおつまみ持って帰りたいんだけど、持ってきてくれない? 甘いものでも何でもいいから!」
ね、お願い。そう言って懇願するように強く目を閉じたリーリエに、終焉は酷く嫌そうな表情を浮かべた。
――しかし、それも一瞬のこと。「仕方ないな」と男は席を立つと、波のように揺らめく黒い髪を靡かせて客間を後にする。背が低ければ女とも間違えられそうなその後ろ姿に、ノーチェは目を向けていると、「少年」と女が呟く。
声をかけられた方を見れば、先程の季節のように移り変わる表情など全く見受けられなかった。まるで嵐の前の静けさのような静寂。心の奥底を見透かしてくるような真剣な眼差しに、彼は思わず息を呑むと、女は言う。
「一度しか言わないからよく聞いて。エンディアにも言わないから」
そう、女らしからぬ恐ろしいほどの静かな声色でぽつりと言葉を紡ぐ。
「――体に気を付けなさい」
「…………?」
意図が読めず、思わず彼は首を傾げるが、構わずにリーリエはこう言った。「あんたの人生はあんたのものなんだから、他の誰かに委ねちゃ駄目よ」――と、諭すような一般論だ。
女はノーチェが奴隷だと知っているのだろうか。思う限り、彼が自分からそう述べたことは記憶にない。もしかすれば首元にある忌々しい黒銀の首輪がそれを物語っているのを理解したのかもしれない。
――何にせよ、彼にはその言葉が酷く気に食わなかった。まるで、人生の全てを投げ出して死に逃げるな、と言われているような気分だった。
酷く打ち付ける雨音はやけに耳障りで、止むことだけを望まずにはいられない。それと同時、この異様な静寂さがやけに気に食わず、誰でもいいから壊してくれ、と思ってしまった。――そうでなければ口から、喉の奥から吐き出されそうなのだ。
アンタに一体、俺の何が解るんだ、と。
「残念だけど私にはあんたの状況なんて分かりやしないわ」
心を見透かされたようなその言葉に、ノーチェは寒気さえも覚える。
「でもお願いよ。私はね、人生を投げ出さず、あんたはあんたの信じた道を進んでほしいと思ってる。たとえそれが間違っていても、生きていてほしいのよ。だって後悔なんてしたくない――そうでしょう? だから、あんたはここまで来たんでしょう」
聞き覚えのないその言葉に、ノーチェは頭を金槌で殴られたかのような衝撃を感じた。
――何を言っているのか分からない。理解できない。目の前の女が自分に対して話し掛けているようで、全く別の人間に話し掛けているような錯覚。それは、女と初めて対面したときの違和感と恐ろしいほどに酷似している。
あれだけ喧しいと思っていた雨の音がいやに遠く感じた。もう少し屋敷の向こうへと入っていけば、雨音などこれっぽっちも聞こえないのではないか、と思うほど。それほどまでに女の言葉はノーチェの頭を、胸を揺さぶって、目眩さえも覚えさせてくるようだった。
始めに頭によぎるのは「こいつは何を言っているんだ」という疑問。相も変わらず相手はノーチェを知っているかのような口振りをしているが、ノーチェ自身はリーリエのことを何も知らない。もしやよく似ていて全く別の人間と間違えられているのではないかと思ったが、その赤い瞳は真っ直ぐにノーチェを見つめている。
そして次に思ったのが、――自分の存在についてだ。
仮にリーリエやヴェルダリアが知る「ノーチェ」が、自分自身だとするのなら、彼らのことをまるで知らない「ノーチェ」は一体誰であるのか。出会った人間が口々に言った「ここに来た」という意味不明な言葉が、どうしても頭について離れない。
もしかしたら自分は本当に生きていてはいけない存在なのかもしれない――そんな考えが、目の前に突き付けられたような気がした。
「手作りものしかなかった」
「やぁん! それで十分よぉ~!」
凍てつくような静寂を裂いたのは他でもない、屋敷の現持ち主だった。客間に足を踏み入れ、小さな包みを片手に載せて女に話し掛けている。ノーチェは遠く失いかけていた意識をぐっと引き寄せると、自分が手を握り締めているのが分かった。荒れた爪が手のひらに食い込み、微かに跡を残している。
リーリエは先程の静かな声色など微塵も感じさせないほど、上機嫌に終焉が作ったというつまみを受け取っている。恐らく女は生家に帰った後、それをつまみに酒を嗜むつもりなのだろう。
二人の様子を見つめていたノーチェは、不意に終焉と目が合った。ここに来てからというものの、やけに人と目が合うことが多くなった気がする。男の瞳は見れば見るほどガラス玉のように透き通っているように見えて、その奥に得体の知れない暗さを持ち合わせているように思えた。
この街には不思議な人が多いな――そう、先程の違和感をひた隠しにするよう、彼は茫然と終焉の顔を見つめているつもりだった。
「…………どうした?」
「……え」
心底心配するような声がノーチェの耳を掠める。間抜けな声を返せば終焉は顔色が悪い、と言う。
「……リーリエ、何かしたのか……?」
「少年に何かしたらあんた怒るからしてないわよ! でもしちゃってたらそれは謝るわ……」
先刻まで居たのはお前だろう――、そう咎めるような眼差しが女を射抜く。それにぐっと体を強張らせると、リーリエはノーチェの方へ近寄ったかと思えば「ごめんねぇ」と申し訳なさそうに両頬を包んだ。
何故顔を包まれるのか理由は分からない。挙げ句、それをこねるようにぐにぐにと回されて、ノーチェは自分の考えていたことが次第に馬鹿らしく思えてしまう。真剣に悩んでいた筈なのに、謝罪の意を見せながら頬で遊ぶ女の行動に、頭の中にあった思考の塊が弾けるように散らばったのだ。
「いい……いいから……」鬱陶しく思えてきたノーチェは咄嗟に両手を掴み、リーリエの手を引き剥がす。「あらそう」と呟いた女の顔に反省の色は見受けられず、寧ろ「何を反省すべきことがあるのか」と言いたげなものだ。敢えて言うなら「豪快」という言葉が似合うような、花の色の移ろいによく似た女だった。
ほんの少し、鬱陶しい。――そんな思いがノーチェの胸に募る中、ふとリーリエがソファーに置き去りにした酒を抱え、「帰ろうかしら」と微笑む。金の髪が空気を含むようにふわりと揺れた。外は未だに雨が降り続いていると言うのに、女は雨具の類いを一切持ち合わせていない。
「どうせ雨はやまないしね」
分かりきったような答えを呟くよう、笑う様は見ていて心地のいいほど。リーリエは迷うことなくエントランスへと足を運ぶと、慣れた様子でハイヒールを履いて、すらりと背筋を伸ばす。後をついてきた終焉やノーチェには馴染みのないその靴は妙に痛々しく、歩きにくそう、の言葉がよく合う。
それを女は気にも留めないのだろう。迷うことなく取っ手に手をついた女は角をまさぐって、ひとつの傘を取り出した。「貸して頂戴な」と花のように微笑む様は、あれでも女なのだと思わせるものに他ならない。それに終焉は「好きにしろ」とだけ呟いて、早く出ていけと言わんばかりに手を振る。
「少年もまたね」
また、お茶をご馳走してね。女はそう言って彼に控えめに手を振ってみせた。ノーチェはそれに首を縦に振って頷くが、手を振った方がよかったのかと思ったときにはもう、閉まる扉の隙間からリーリエが傘を差して足軽に歩いているのが見えていた。