――バタン。音を立てて閉まる扉を見て、終焉が何かに気が付いたかのように扉へと近付く。――それに彼はハッとした。ヒビの入った取っ手を終焉はじっと見下ろしていて、ノーチェはそれを言い出すタイミングをすっかり見失ってしまう。
何をするわけでもない、怒るわけでもない――ただ無言の時間だけが、彼の体をじりじりと焼き続けた。
――不意に終焉がノーチェへと振り返る。音もなく、何の脈絡もなく。それに驚いたノーチェは、一瞬だけ息を止めた。だが、終焉が軽く手招きをしているのを見て、徐にその傍へと歩み寄る。懸念していた激怒が来るのかと思ったのだが――、やはり検討違いになるのだろう。男の表情は誰よりも柔らかく、優しく見えた。
「……私は、直す分野はとても苦手なのだがな……」
ノーチェを手招いた終焉は、白い手でひび割れた取っ手を軽く掴み、誰が見てもゆっくりと、まるで握り締めるかのような力でそれを撫でる。上から下へ、汚れを拭い取るような手付きで。
するとどうだろう。終焉が撫でた辺りからひび割れていた筈のそれが跡形もなく元に戻っている。非現実ながら説明をするのなら、男がその手でひびを拭い取ったのだ、と言い表すのがよさそうな現象。終焉は下へ下へ――最後まで取っ手を撫でると、ゆっくりと手を離した。勿論男の手のひらに汚れのひとつもついていないが、それと同様に取っ手にも傷がひとつも残されていない。
この程度の修繕は私でも扱える魔法なのだ、と終焉はその出来を見て多少誇らしげに言った。両手を腰に当てて、横目でノーチェを見やる。彼はそれを見て、驚き――ではなく、ただ何かを責め立てるように眉を顰めている。
普段の多少の変化ならば幾度となく目にしてきた終焉は、思わず唇を開きかけた。何せ今のその顔は多少、ではなく、露骨に嫌悪を表していたからだ。
だからこそ思わず男は「どうしたんだ」と声をかけようとした。――しかし、徐に紡がれる彼の言葉に動きが止まる。
「――……アンタ、怒ったりしねぇの。それ、やったの、俺だぞ……?」
「…………」
「俺が……わざとやったとか、思ったりしねぇのかよ……」
唸るように紡がれたノーチェの言葉に終焉は数回瞬きを繰り返す。恐らく、彼が何を意図してそう言っているのか理解しようと試みているのだろう。ゆっくりと味わうようにその言葉の咀嚼を繰り返し、終焉は徐に口許に手を添える。ノーチェが顔を顰めながらちらりと終焉を横目で覗き見ていることにも気が付かず、小さく首を傾げる。
数秒の沈黙が数十分の長い沈黙に思えた頃、終焉は漸く小さく唇を開いた。訝しげな声色で、且つ不思議そうに「……怒られたいのか……?」と彼に問いかけた。
「……そうじゃねえよ……だって、普通、物を壊されたら怒るもんだろ……殴ったりするもんじゃねえの」
そうしてあわよくばこの命の灯火が消えてしまえばいい。――そう言いたげに彼は数十センチ高い終焉の顔を見上げた。ノーチェ自身ではない終焉にとって、彼が一体どのような気持ちでその表情を浮かべているのか分からないが――、終焉にとってその表情は不安に濡れる子供のように見えてしまう。
見上げた終焉の目は不思議そうでもなく、訝しげでもない。ただ無表情がそこにあるだけで、ノーチェを責め立てるような目ではなかった。
それが妙に気に食わないノーチェは、つい終焉から目を逸らしたが、その場から立ち去ろうとは思っていなかった。服の裾を手で握り締めて唇を噛み締める。唇が切れて血が出てしまいそうなその行為に終焉は「やめろ」とだけ呟くと、案の定彼の頭を撫でる。
「生憎私はその程度で貴方に怒りを表そうとは思っていない。物が壊れるのは当然のことだろう」
柔らかな毛髪が終焉の手を軽く包んだ。――死人のように冷たい。そんな感覚がノーチェの頭に伝う。触れられれば背筋が凍るような、ひやりとした冷たさを覚えるものだ。包み隠さず率直に言うのなら――まるで、血液が流れているとは思えないほど。
それを頭の先で感じているノーチェは一度目を閉じると、「そういうんじゃない……」と小さく呟いて、恐る恐るといった様子でこう言った。
「薄々分かってんだろ……俺が死にたがってるってことくらい……」
それでも自分で死ねないことくらい――と。ノーチェは終焉の手を払うことなくぽつりぽつりと呟きを洩らしていた。小さく開かれる唇は震えてはいないが、ハキハキと話せるような雰囲気ではないことがよく分かる。それを終焉は責めることもなく、急かすこともなく、ただノーチェの言葉の続きを待っている。
やがて彼が続きを話さないと思うや否や、笑わずに「悪いな」と口を溢して彼の頭を再び撫でる。
「残念ながら私は貴方を殺さない、私に貴方を殺せない」
「…………なんで……?」
男が笑った様子はない。しかし、その口調は誰がどう聞いても柔らかく、割れ物を扱うような優しいものだった。何故、とノーチェは小さく男に訊いた。分かりきっている筈の答えが返ってくることも気に留めず、不満そうに軽く唇を尖らせる。
――言葉にすることは重要らしい。
そう不意に呟いた終焉は、ふて腐れ気味のノーチェの頬を包むと、先程屋敷を出ていったリーリエと同じように頬をこねくり回す。女ほどではないが、肌触りのいいそれは滑りがよく、女を彷彿とさせるようなものだ。
ノーチェはその行動に呆気に取られ、声を上げることもなく、ただされるがまま。状況に理解が追い付かず、ただ思うままの表情――それこそまさに顰めっ面とでも言うべきだろうか――を浮かべている。眉を顰め「こいつは何をしているんだ」と言いたげな表情そのものだ。
彼は思わずその両手を掴み、「何すんだ」と一言。トゲを含んだ張りのある声――とまではいかないが、明らかな嫌悪が滲み出ている。
「……理由を教えてやろうか」
調子の戻ったノーチェを終焉は軽く宥め、ほんのりと口角を上げて分かりきった答えを言った。
「ノーチェを愛しているからだ」
だから私は貴方を殺さない、――殺せない。
最もらしいその理由に、ノーチェは納得せざるを得なかった。男が彼を愛しているという理由は相変わらず分からない。もしかすると訊けば教えてもらえるだろうが、生憎ノーチェにはそれに対する興味を抱けるほど、終焉に興味があるわけではなかった。
彼はむくれている表情をやめると、「意味わかんねぇ」と愚痴のように低い言葉を洩らす。男の両手を掴んで、ぐいと引き剥がすものの、これといって特別嫌だと思っていたわけではないのは確かだ。ただ鬱陶しかった、それだけに他ならない。
終焉はそれに仕方なく手を下ろしてやる。「言葉にするのは恥ずかしいものだな」と、微笑みを掻き消した表情のまま彼に呟いた。感情の冷めきった顔付き、抑揚のない声色――それのどこが恥ずかしがっているのだ、とノーチェは横目で軽く睨んでやる。心持ちは不機嫌になった猫と同じ気分だ。
そうして思い付くひとつの疑問を、男にぶつけてやった。
「……なあ、変な話……アンタ達の言う『ノーチェ』と、俺は、別人なんじゃねぇの? アンタが愛してるってのも、多分俺じゃなくて――」
――突然だった。目の前いっぱいに映り込んだ端整な顔立ち、透き通るほどに美しい瞳。あ、案外睫毛が長い――なんて思う暇もなく、頬に伝わる軽い違和感にノーチェが目を丸くする。頬をつままれているのだ、と気が付く頃には終焉が口をへの字に曲げて「何可笑しなことを言っているんだ」と不機嫌そうに言う。
「この世界に『ノーチェ』は貴方だけだし、私が愛しているのも貴方だけだよ」
「冗談も程々にしてくれ」男はほんの少し、悲しげに眉尻を下げたと思えば、惜し気もなくノーチェから手を離しエントランスを後にする。「私にも紅茶を淹れてくれないか」と軽く振り返りながらノーチェに言えば、彼はやはりふて腐れるような顔付きで、ほんのりと唇を開く。
「……何で自分より料理が上手い奴に振る舞うんだよ……」
――なんて馬鹿にされることを懸念した上で、じっとりとした目付きをくれてやった。終焉は特に気にしている様子もない。ただ「それは残念だ」と置き去りにするように紡がれた言葉が、いやに寂しげに思えて仕方なかった。
エントランスに置き去りにされたノーチェは、終焉が撫でていた取っ手に目を移す。まるで傷など初めからなかったと言うように存在するそれは、掃除した直後と同じように真新しい輝きを取り戻していた。魔法とは相当便利なもので、どこかの世界では生活に欠かせないものなのだ、と誰かが言っていたような気がする。
そんな昔の記憶に思いを馳せていたノーチェの耳に、強さを増した雨の音が耳をつんざくほど強く聞こえてきた。バケツを引っくり返したような雨とはこのことをいうのだろう、と思う最中、遠くに聞こえる低く唸るような雷の音を聞き入れる。
誰がどう聞いてもそれがいいものではないことは分かっていた。――特にノーチェにはそれが胸の奥の何かを刺激するような、大きな不安になっているような気がしてならない。「恐ろしい」という言葉だけで形容しきれない漠然とした不安が、足元に大きく広がっているような感覚が気味悪かった。
「ノーチェ。これからパンケーキを焼くんだが、食べるか?」
遠くに聞こえる澄んだ声色。「まだ食べるのかよ」の一言も発することもなく、彼は徐に声のする方へと足を進めていった。
男が手に掛けてくれないことは分かりきっていた。仕方のないことだ。来るべきその日が来たら、男の愛などという気の迷いは消えてなくなるだろう。それまでは奴隷扱いしない男に対して、思うままに付き合ってやれば文句は言われまい。
キッチンの向こうで終焉は丁寧にエプロンを着けていた。「……じゃあ、ちょっとだけ」と言ったノーチェの皿に、十分すぎるほどの量が載せられていて、たっぷりかけられたメイプルの香りに胸焼けを覚えたのは、言うまでもない。