天気が酷くなる――リーリエの言った通り空の様子は夜と見紛うほどに暗く、窓から見つめる外は向こうすら白んで見えなくなるほど。バケツをひっくり返した、滝のような雨とはこのことを言うのだろうか。窓越しでは外の地面の様子などはっきりとは視認できないが、恐らく酷い水溜まりでもできているだろう。
屋根を叩き付ける雨の音が大きく図太くなってしまった。最早騒音にも似た音に彼は「こんなのが夜も続くのか」と溜め息をひとつ。終焉は相変わらず意識を逸らすように黙々と本を読み進め、ノーチェの行動には目もくれない。普段何をしていても把握しているような男が徹底して意識を逸らすものだから、彼はそれなりの違和感を抱くようになった。
マカロンも程々に、昼の代わりの御茶会を済ませた二人は各々自由な時間を過ごしていた。――と言えどもノーチェには相変わらずやることはなく、終焉は本に没頭しているまま。気が付けば傍らにある本の山が高くなっている程度で、後は何も変わりがない。
明らかに様子が可笑しい終焉にノーチェは何かをすることはないが、ただ黙って違和感に苛まれるのも不思議と納得がいかない。退屈だという気持ちを胸に彼は窓から離れると、山になっている本へと向かって歩く。
手に取ったものは随分と古い本のようだった。ところどころ破けていてやけに読み込まれたような跡すら残っている。自分にも読めるだろうかと思い、何気なく手に取って見れば、七つの大罪をモチーフにした不思議な物語だった。
――腹を空かせた暴食の化身が、世界そのものを喰らい尽くすという内容だったのだ。
ピタリと止まる動きに数回繰り返す瞬き。「世界を喰らう」などという表現を使ったのは他でもない終焉そのもの。彼は思わず終焉の顔を見上げたが――男は本を読んだままチラリとも彼を見ることがない。まるで「話し掛けるな」とさえ言われているようだった。
確証もない不思議話。こんなものを信用するわけではないが、〝永遠の命〟を宿している終焉が居るほどだ。暴食の化身が何を指すのかは未だはっきりとはしていないが、この話が事実であるならば、世界は何かに喰われてしまうのだろう。
必然的に訪れてしまうかもしれない命を落としてしまう事実に彼は僅かに喜びを露わにした。何せ恋い焦がれるように待ち侘びていた「死」が分け隔てなく、ノーチェにも訪れるからだ。喰らわれるとなれば痛みなど一瞬で、意識はすぐに消えてしまうだろう。
あまりにも待ち遠しい話に、ノーチェは思わずそれに釘付けになっていた。
「――……っ」
「……!?」
――一瞬、音もなく光が走るように辺りが明るくなる。
突然の出来事にノーチェは肩を震わせ、思わず窓の方へと視線を投げた。そこにはただ雨に濡れた窓があるだけで、空の向こうは灰に埋もれているだけだ。ノーチェはそれをただ凝視していると、雲の隙間から一際目映い光が灯る。それを雷だと理解するのに時間は要さなかった。
――酷い天気になるというのはこのことだろうか。
一度だけ部屋が光る現象が何なのかを理解したときノーチェは不意に終焉へと目を向ける。普段から無表情を飾る終焉のことだ、雷にはどんな反応を示すのだろうかと気になってしまったのだろう。恐らく男は酷く澄ました顔で「酷い天気だな」なんて言うと思っていて――
「…………あれ……」
――先程まで椅子に座っていた終焉が居ないことに、ノーチェにはただ疑問が残った。
先程まで読んでいたと思われる本は山の上へ。雨音しか聞こえない屋敷内でぼんやりと耳を澄ますと、遠くから水の音が聞こえてくるのが分かる。シャワーだと気が付くとノーチェは出入り口を見つめて「いつの間に出ていったんだろう」なんて呟いて、重い腰を持ち上げる。
些細な手伝いなら自分がやると言い出した手前、終焉に手を出されるのは納得がいかなかった。
壁に手をつきながら絨毯の上を歩き、半開きになっている扉の向こうへと足を運ぶ。ひたりひたりと歩いて覗いた扉の先――、終焉が忙しなく浴槽の掃除をしているのだ。
「……俺、やるけど」
――そもそも風呂を用意するにはまだ早すぎる上に、掃除など必要がないほど浴槽は綺麗なままだ。
せっせとタイルを磨く終焉の背にノーチェはぽつりと呟くと、男は背中を向けながら「気にしなくても構わない」とだけ言う。長い髪が顔の横を掠めて、絹糸のように滑らかに落ちた。ところどころ赤が目立つ黒髪を眺めながら困る、だなんて思っていると、終焉の金の瞳がちらとノーチェを見上げる。
何かと思いながら透き通るその瞳を見つめていると――「先に入ってもいいだろうか」と終焉が静かに問い掛けた。
終焉は風呂が好きだ。恐らく甘いものの次にくるほどに男は入浴を楽しんでいる。風呂に行ってから出てくるまでの時間は平均して二時間以降。意識していなければ平気で三時間はゆうに越えることもある。
それを周知しているノーチェは、終焉が自分より先に風呂に入りたいと申し出たことに僅かながらも驚きを覚える。
終焉はノーチェに生活習慣を正すよう、基本的なことは強制してでも行わせる節がある。もし仮に彼より先に終焉が風呂に入るというのなら、楽しむ時間を大幅に削ってでも出てこないとノーチェは入れずに終わる。睡眠時間を削ってもいいというなら彼は容赦なくそうしただろう。
――しかしそれすらも許さないのが終焉という人物だ。男は確実にノーチェの為に手早く入浴を終わらせるのだろう。
「…………いいけど……アンタがいいの……?」
形のいい唇を開いて呟くように問えば、終焉は一度瞬きをすると「仕方がない」と言う。まるで言いたいことが全て分かると言わんばかりの言葉に顔色が読めない男だな、と思えば、どこか残念そうな顔付きの終焉が目に映る。
さあさあと流れ続けるシャワーの音が雨音に負けじと浴室に響いていた。終焉が本当に風呂が好きなのだと、思わざるを得ない表情に、微かに頬を掻く。正直身の回りのことなど気にしたこともないノーチェにとって、生活習慣など大したこともないこと。終焉が優先するようなことなど一切ない筈なのだが――「愛している」というだけで、ここまで気にするものなのかを考えさせられる。
そこまでして何かを避けているような行動を取り続ける理由が、彼にはまだ分からなかった。――だからそっと唇を開く。
「アンタ、風呂好きだろ…………一緒に入る?」
そうすれば長く入れるだろ――なんて多少の冗談を交えて。
あくまで「何となく」の話ではあるが、ノーチェは薄々終焉が何かから逃げるような気がしてならない。男の目を見る度に緊張のようなものが伝わって、汗が滲むような思いを先程からしているのだ。不快というわけではないが、理由もなく不安に駆られてしまうのだ。
ここまで露骨な冗談を告げられれば嫌でも終焉は風呂に入らざるを得ないだろう。我ながらいい冗談を呟いたものだと、ノーチェは無表情で、胸を張る気持ちでいるが――対する終焉はただ茫然として、ノーチェを見上げたままだ。
さあさあと流れる水の音、止まり続ける終焉の動き。――あれ、と首を傾げるような面持ちでいれば、終焉がハッとしながら首を横に振り始める。
「い、いや、そんなわけには――」
そう呟いた瞬間、一際目映い閃光が屋敷内の――浴室の――小さな窓から見えた。パチリと光るようなものではない。迸る稲妻が見えても不思議ではないほどの眩しい光だった。その後に鳴り響く地鳴りのように唸る音に、雷が鳴ったのだと気が付いてしまった。
言葉を紡いでいた筈の終焉は表情を固めていると、「そ、うだな」と手のひらを返すように発言を変える。
「……入ってくれるか?」
顔色を窺うような終焉の言葉に、彼は思わず「え」と呟きを洩らす。断る筈だった言葉を撤回するほどの事情が男にはあるとしても、成人男性がひとつの浴槽を使うなどという見苦しい光景に直面したくはなかった。
――しかし、その誘いを突き出したのは他でもないノーチェ自身だ。終焉は断ってもいいと言うように彼の顔色を窺っているが――、普段とは異なった様子を見れば断るのも鬼だろう。
「…………大、丈夫……なら…………」
裸の付き合いにいい思い出はない。それでも彼は、終焉の期待に首を縦に振った。