青い瞳と鉄の香り

 ノーチェはゆっくりと、終焉の体があるであろう背後を振り返る。彼が髪の隙間から見てしまった首と、あの出血の量でどう息を吹き返したのか気になって、男達に背を向ける。
 足元に転がっていた終焉は徐に体を起こし、ひとつひとつの動作を丁寧に確かめるように立ち上がる。ノーチェの意に反して首の傷は塞がっていないようで、体を起こす毎に首からの出血が見て取れた。
 真新しい鉄の香りに、忘れていた恐怖がノーチェの体を支配し始める。足がみっともなく震えてしまって、全身から血の気が引くような感覚。呼吸を忘れて「アンタ、大丈夫なの……」と小さく呟くが、容体が気になるほど悪く見えるのはノーチェも同じだろう。
 彼の問い掛けに終焉は何も答えることはなかったが、一度だけ「あ、」と口を開いた。それは、喉から空気が抜けるようにひゅうひゅうと吹き抜けるような音と混じっていたが、確かに言葉を洩らしていたのだ。

「あ……あー……?」

 空気が抜けるような音が気になるのか、終焉は首元に手を添えて切れた口を塞ぎ始める。相変わらず傷口からは血が溢れているが、その色は黒く、全く普通ではない液体が溢れ出している。さらついていながらも絶えず溢れ続ける。
 その光景が当たり前ではないことはノーチェも十分に理解していたが、漠然とした不安が彼の脳を刺激していた。

 傷の治りが遅いような気がする。

 確証を得てそう思ったわけではないが、胸焼けのように募る不安が少しずつ大きくなっていくのは確かだ。
 何せノーチェが目にしていた光景では、終焉は既に傷口が塞がった後で、悠然とした態度でいることが殆どだったからだ。特別それを目撃し続けたというわけではないが、どうにも傷が塞がらない現状が何よりも不安でしかなかった。
 もしかすると、傷の塞がりは本人の体力に応じて速度が変わるのだろうか。
 もしそうであれば、終焉は酷い疲労感に苛まれている。万が一、傷が塞がらなかったら、男はどうなってしまうのだろう――。

「――……ふ、」

 ――そんなノーチェの不安など杞憂だと言うように、終焉の口許から笑みが溢れる。それを切っ掛けに、ノーチェの背後からは怯えるような言葉がひとつ。咄嗟に振り返ると、リーダー格の男が地面に尻もち突いて、震える手でノーチェの向こうを指差し始める。血の気が引いた顔で「化け物」と呟いた。
 誰もがこの光景を見てしまうと、終焉のことを人として見なくなるのだろうか。
 チクリと針が胸を刺してきたような痛み。その正体が分からないまま、溢れるようにポロポロと口から洩れる終焉の笑いに、ノーチェの気が逸れる。

「はは……首……首、か」

 笑い声を溢す度に溢れる血液が塞がってきた頃、俯いて見えなかった終焉の顔が、ゆっくりと露わになる。

「……あれ……」

 眼前に姿を現したそれに、ノーチェは思わず言葉を洩らす。
 終焉が笑みを浮かべていたことはもちろんのこと。彼は、終焉の獣のように鋭い瞳にそれとなく威圧感を覚えることが多かった。
 血のような赤い瞳。光はないくせに透き通るそれが、見下ろす瞬間にやたらと圧倒されることが多かったのだ。
 もちろんそれは今日とて例外ではない。何なら例外は昼間に見た、終焉の蘇生後の瞳がそうだろう。優しく微笑むようなあの目付きはきっと、意識しなければいけないほどのもの。そうでなければ、獲物を見つけた野生のように鋭い瞳が、向けられるのは間違いない。
 間違いない筈なのだが――その赤い瞳が、何故か彼の瞳に映らなかった。

「なる、成る程――首は、新しいな」

 手に隠されていた終焉の首が漸く露わになる頃に、終焉の首は傷跡が初めからないと言い張れるほど、綺麗に塞がっていた。
 男はそのままノーチェの体を押し退け、〝教会〟の男達にゆっくりと歩み寄る。その瞳にノーチェの姿は映らないまま。彼が最後に見たのは口許から覗く鋭利な八重歯と――真昼の空のように青い、終焉の瞳だった。

「う、ああぁぁああ!」

 ト、とノーチェが地面に尻を突くと同時、男達が一斉に騒ぎ立てる。日がまだ昇っているとはいえ、酷く耳障りな声だと、まるで他人事のように思ってしまったのは、終焉がノーチェに敵意を示さないからだろう。
 地面に腰を下ろしてしまった彼の視線の先で、一方的な迎撃が男達を襲う。
 魔法の発動条件は彼が知る由もないが、対象を明確にするためだけに差し出された手が邪魔だったのだろう。男達の足元で脈打つ黒い影が蠢いて、足元から浮かび上がったと思えば、鞭のようにしなやかな動きで腕を弾き飛ばす。
 ボッと破裂したかのような音と共に赤い血液が辺りに飛び散る。緑に萌える草に、相反する色が存在感を増す中、ノーチェの近くに弾き飛ばされた腕が地面に叩きつけられる。
 ドシャ、と血液と落下音が混じる音に彼は嫌気を覚えたが、それすらも忘れてしまうほど目の前の光景は圧倒的だった。
 男が一人、手をあげられたことに呆気に取られた仲間達が、咄嗟に終焉に対して一冊の本を懐から取り出した。
 それは表紙に煌びやかな装飾が施された手帳ほどのサイズの小振な本だ。金の装飾が細部にまで施されたそれは、終焉に対してのみ開かれるもののようで、誰も彼もがその本を手に取った。

 ――それも男にとっては子供が歩くよりも遅い動きだったのだろう。

 先程と同じように影が鞭のように唸ると、男達の腕が容赦なく切り落とされる。辺り一面に広がる赤い色と、錆びた鉄の香りにノーチェは嫌な顔をひとつ。対する終焉は、至極楽しそうに笑いながら〝教会〟の人間達に向かって、足を繰り出した。
 終焉の足が、男の脇腹を殴る。同時に黒く汚れた手のひらで男の頭を鷲掴みにして、慌てふためく仲間の顔に強く叩きつける。ノーチェには聞こえなかったが、そこには確かに鈍い音が鳴り響いた筈だ。
 それを見ながら終焉は軽く唇を舐めて、蠢く影の真上へと投げ飛ばす――。すると、男の――男達の体を、棘を模した影が貫いた。
 一度〝教会〟の人間の体がびくりと跳ねたのを最後に、それらは一切動かなくなってしまう。
 そんな亡骸に、興味を無くしたように終焉は顔を逸らして生き残る男達へと視線を投げる。終焉の白い顔には赤い返り血が点々と付着していて、誰が見ても恐怖を与えるほど瞳があやしく輝いている。
 尻もちを突いていた男が咄嗟に盾にするよう、終焉に向かって仲間を押し付け始めた。
 肩を貸したたったふたつの命が、化け物と呼ばれてしまう男の前に駆り出されてしまう。その光景を見ていたノーチェが「結局自分の命が一番なんだな」と考えていると――、終焉の腕に黒い影がまとわり始めるのを見た。

 ――あれは何だろう。

 そう思うと同時に、終焉が優しい笑みを浮かべながら男の胸を貫いた。

「……あ……?」

 片手で胸を突き、もう片手で人間の首を飛ばす。
 どう見ても人間技とは思えない所業に、ノーチェは「ああ、」と言葉を洩らした。

 あの腕にまとわりついたのは魔法の類だ。身体能力を向上させる魔法があるのと同じように、体の一部にそれをまとうことで自身の体を鋭利な刃物と同じように武器として扱うことができるのだろう。
 ノーチェ自身過去にそういった行動に出なかった分、終焉が難なくこなしていることが酷く珍しく思えた。

 あの人は一体あれをどこで覚えたんだろうか。

 終焉の顔に再び赤い返り血が降り注ぐ。これでもかというほど顔にかかってしまっていて、自ずと彼は風呂の状態を確かめたくなる衝動に駆られた。
 あれだけの血を浴びて噎せ返らないなんて流石だな、なんて思いながらぼんやりと男を眺める。終焉はやはり亡骸には興味がないと言いたげに、突き刺したそれを呆気なく振り払った。
 そうして黒く蠢く影の元へ数人の体が横たわる。傍観者であるノーチェは後片付けが大変そうだと視線を向けていると、奇妙な光景を目にしてしまった。
 終焉が投げ捨てた死体の数々が少しずつ、地面へと沈み始めたのだ。

「……何だろ、あれ」

 傍観者であることをいいことに、ノーチェはぽつりと言葉を呟く。横たわったそれは少しずつ体を沈めて、あっという間に半分までも失ってしまった。その真下には今もなお蠢く影があることから、沈む現象も終焉が巻き起こしているのだろうと彼は考える。
 あれなら後片付けがいらないのかもしれない、もし殺されるならあれでもいいかもしれない――そうぼんやりと眺めていると、不意に終焉と目が合った気がした。
 ぱちりと交差する視線。見たこともない、青空色の瞳。返り血塗れの顔で青い瞳はやけに輝いているように見えて、ノーチェの背筋に悪寒が走る。
 恐怖――というよりも、本能的な警戒が体に「逃げろ」と命令を出した気がした。
 何故終焉と目があったのか――それは、ノーチェの視界の端に映る男が原因なのだろう。
 関節から先がない腕を庇いながら、男が彼に向かって走る。動揺が隠せない足取りは絶えずよろめいていたが、その目はしっかりとノーチェの姿を捉えている。未だに無事である左手を差し出して、彼の胸ぐらを掴もうとする意志がはっきりと分かった。

 あくまで被害のないノーチェを人質にするつもりなのだ。

「なん、」
「こんな化け物、まともに相手してられっかよ……!」

 立ち上がり損ねたノーチェの襟を掴み上げられる――が、その動きが妙にぎこちなく、急に止まってしまう。まるで誰かに体を縛り付けられたようなぎこちなさで、次第に動くことができなくなった。
 掴まれたノーチェでさえもその状況に驚いて、瞬きを繰り返す。彼ほどの力を持っていれば振り解くことなど簡単な話だが、妙に動かない相手の体に違和感がある。
 懸命に辺りを目で探ると、目一杯男が映り込む視界の端に、終焉の姿が見えた。
 まるで何かを締め付けるかのような素振りを取っていた。手を握り締め、ゆっくりと歩みを進め始める。一歩一歩確実に。
 近付いてくることで漸く視認できる終焉の顔は――笑みではなく、怒りが滲んでいるように見えた。

「うわ、何……!?」

 ノーチェが終焉の表情に呆気に取られていると、動けない男が驚いたように声を発した。
 何かと思って注視すれば、男の体が少しずつ地面へ沈み始めている。――いや正確に言えば、自身の影に呑み込まれ始めているのだ。
 一体どういう原理だとか、何が起こっているのかだとか、何度頭を働かせようとしたのかは分からない。みしみしと音を立てて沈んでいく男に意識を取られ、どうにも思考が働かない。
 まるで流砂に呑み込まれて行くような光景に、彼は言葉を失ってしまった。
 助けて、と縋るように洩れてきた言葉を遮るよう、黒い影が男の顔にまとわりつく。触手のようにべっとりと身体中にまとわりついて、ゆっくりと呑まれていくのを彼は黙って見守るしかなかった。
 足を始めとして、次に腰。胴体が呑み込まれて、襟を掴んでいた手がノーチェから離れる――それも最後まで見届けることは叶わなかった。

「――ノーチェ」
「……ッ!」

 静かに紡がれた名前に、ノーチェは目を丸くする。
 足元を見ていた筈の顔を終焉が半ば無理矢理上げたのだ。頬を血に塗れた手で包み、地面から空へ――終焉へと視線を向けられた。両頬から伝う鉄の香りに、彼は思わず顔を顰めてしまう。――なんて血生臭いのだろうか。
 いつの間にか間近にいた終焉に呆気に取られながらも、彼は降り注いだ呼び声に応えるように言葉を紡いだ。

「……何」

 彼自身、終焉がまともであるようには見えていない。なるべく男を刺激しないように穏やかな声色で、彼は返事をする。
 終焉の瞳は未だに青く、爛々と煌めいている。それは大事に取っておいたお気に入りの玩具を見つめるような瞳で、子供のようでありながら、獣の鋭さを兼ね備えている。赤よりも青の方が強い威圧感を得ることはないが、正気ではないような気がして、ノーチェの額には汗が滲む――。

「――いっ!?」

 ――不意に、終焉の血に塗れた指先が、頬についたノーチェの傷口を抉るように入り込む。
 ぐっと抉るような指に、ノーチェの視界が滲んだ。

「ああ……ふふ……私、私の……」
「や、やめ……いた……っ」

 血が溢れるほど深く、傷口を開くように差し込まれた指に彼は声を上げる。
 しかし、終焉の耳はノーチェの言葉など聞き入れてはくれなかった。
 ――よく見れば終焉の息は荒く、顔には汗が滲んでいる。肩でふうふうと息を繰り返してしまうほど疲労しているのが目に見えて、ノーチェの胸には得体の知れない罪悪感が募り始める。

 もし、もしも、こうなってしまっているのが自分の責任だったら。疲労してしまっているのが自分の責任だったら――。

「ごめ、な……さ、」

 思わず謝罪の言葉を口にしたのと、くち、と嫌な音がノーチェの耳に届いたときだった。
 終焉の顔すれすれを、黒い蝶がひらりと飛び交った。
 気が付けば、辺りには光をも通さないほどに黒く彩られた蝶がひらひらと飛び回っている。まるで終焉の意識をノーチェではなく、蝶自身に向けるように。
 彼もそれがただの蝶ではないのは、何となく気が付いた。
 ひらひらと踊るように。時には終焉の指先や、ノーチェの鼻先に止まって羽を休め、気が向いたら再び彼らの周りを飛び回り始める。
 その光景を見つめていると――次第に緊張が解れるような気がした。ノーチェの頬を包む終焉の手の力が、次第に抜けていくのが彼には分かる。傷口に入り込んでいた指先から力が抜けて、顔には笑みが消え失せる。その目元は疲れ切った色を浮かべていて、今にも眠ってしまいそうなほどだった。
 相変わらずその瞳は青いまま。
 ――だが、その目付きは今まで見てきた終焉のもののように見えて、彼はゆっくり、話し掛けた。

「別に、寝てもいい……」

 ――そう呟くと、終焉の瞼が鉛のように重く、閉じていくのが目に見えた。
 ゆっくり、ゆっくりと、男の意識が闇の中に落ちる――。

「何だか大変な目に遭ってるわねえ」

 意識を失った終焉の体を支えながらほう、と息を吐くと、女の声が響くように木霊する。普段よりも柔らかく、風鈴が鳴るような響きに堪らずノーチェも眠りに身を委ねかけてしまう。
 それに抗うよう「これ、アンタのお陰……?」と負けじと言葉を呟けば、煙草の煙と共に女が言う。

「そうねぇ……ちょっと大変そうだったから、悪戯させてもらったわよ~」

 金の髪と黒いドレスを小さな風に靡かせながら、リーリエは軽くほくそ笑んだ。黒い手袋が嵌められた指先には白い煙草がひとつ。赤い瞳を力強く輝かせて、終焉とノーチェを見下ろしている。
 その視線が普段よりも力強く、頼もしく見えたのは気のせいではないだろう。

 真っ青な青空が白い雲の隙間から見え隠れしている。隙間から溢れる太陽の光に、リーリエの金の髪が照らされて小麦畑のように光り輝いていた。

「取り敢えず屋敷に戻りましょうよ。少しくらい、私もお話に付き合ってあげるわよ」

 血生臭いのは嫌でしょう。
 ふふふ、とリーリエは軽やかに微笑む。その顔は、先程まで血生臭さが沸き立っていたこの場所では酷く似つかわしくなくて、――ノーチェは意識を失った終焉の体をぎゅうっと抱き締めた。

 ――風呂を沸かそう。この血生臭さが、この人からなくせるように。