ステンドグラスの向こう、酷く淀んだ雲が教会の真上をゆっくりと通過していく。太陽が差し込めば綺麗な筈の礼拝堂はまるで幽霊屋敷のように不気味さを湛え、マリア像は無機質に両手を合わせている。
そのマリア像に隠されているあるものをいじると、隅にある本棚が重そうにずずず、と音を立てながら横へ移動した。
現れたのはひとつの扉で、そこに手をかけ押し開くと暗闇の中に階段が顔を覗かせている。それをひとつひとつ丁寧に下り進め、床に足を着くと辺り一面は暗闇で密閉されたかのような圧迫感を覚える。
そこから逃れるよう歩を進めた先にあるのは再び閉ざされた扉で、先程と同じように手をかけ押し開くと、この世のものとは思えない光景が眼前に広がった。
例えるなら一面を多い尽くす透き通る青。ありのままに言えば透明や紫など寒冷色をその身に抱えた氷の世界が広がっている。仄かな灯火を下から当てたような青や紫、水色の氷は見れば見るほど幻想的で、白昼夢でも見ているような感覚に陥る。
氷は結晶のように生えているだけではなく、床や壁、天井にまで生え渡り妖しげな煌めきを放っている。当然空気は肌を刺すような鋭いもので、長時間そこに居ては凍傷も免れないだろう。
その中を悠然と、「相変わらずだな」と小さな呟きを洩らしながら進んでいった。時折氷柱のように天井から下がる氷が頬に当たり、思わず体を仰け反らせる。それでも諦めることなく燃えるような赤い髪を靡かせながら歩くと――、漸くそれに巡り会えた。
「よお、モーゼさん。なかなかこれは……イカれてんじゃねえの」
先程の氷とはうって変わって足元に広がるのは赤――部屋を多い尽くすほどの赤だ。氷の道を歩いてきたヴェルダリアは眼前に広まる燃えるような赤い光景に口許を引きつらせ、半ば睨むようにそれを見やる。
ヴェルダリアの見つめる先に居るのは勿論モーゼだ。モーゼは赤に埋もれた椅子に腰掛けながら本を片手に「やあ、遅かったね」と声をかける。黒い表紙の本を見せるように振って「少し確かめたいことがあってね」と笑った男の目線の先には、棺が転がっている。
「……まあ、ヒントくらいのもんなら教えてやってもいいけどよぉ……何だ、これ、バラか?」
ヴェルダリアは足元に転がる赤を爪先でいじった。すると、くしゃりと音を立ててバラだと思えるその赤は脆く崩れていく。足先に微かに伝わったのは生花を踏み締める柔らかなものではなく、氷のような何かを踏み締めた感覚に酷似していた。
バラの花が凍りついているのだ。それも数百、数千の数が隙間なく一斉に。霜が降りるほどの冷たい空間に投げ込まれた所為だろうか――それは朽ちることなく、美しい造形を保ったまま氷付けにされている。
常軌を逸脱した幻想空間にヴェルダリアは軽く引いた。
モーゼ曰くこの花は毎日一本丁寧に棺へと捧げているそうだ。花祭りの春や特別な日には百の赤いバラを捧げ、数時間絶え間なく愛を囁く。時間が来れば棺に別れの挨拶を告げ、表向きの日常へと戻る――その日課のひとつなのだという。
欠かされることは一度もないようで、床に敷き埋まったバラがそれを確かに物語っている。恐らく棺へ近づけば近づくほどバラは生花であった頃の柔らかさなど忘れてしまい、剥製のような硬さを持っているに違いない。
その集大成をヴェルダリアは気味の悪いものを見るような目付きで眺め、モーゼとの距離を取った。モーゼもまた自分の行動の意味を知られたいと思っているわけではないようで、「分かり合えなくていいよ」と柔い笑みを浮かべる。そんなことより話をしようか、と切り出す男の瞳には仄暗い闇が宿る。
「ヴェルダリアは〝永遠の命〟の存在を信じているかい?」
それは朽ちることのないただひとつの命。信じているものは少ないが、それが本当に実在しているのか確かめた者もまた少ない。
モーゼもまたその中の一人だった。正確に言えば半信半疑。あってくれたらいいなあ、という程度で、心から信じているわけではない。どのようなものに宿り、どのように機能するのか――何を基準に宿るのか、それすらも解明されていないのだ。信じようにも信じるための切っ掛けがどこにもない。
そんなモーゼがヴェルダリアに〝永遠の命〟の存在を訊いた。自分はろくに信じていないが、自分自身のことをよく思っていないヴェルダリアが一体どう思っているのかが気になったのだ。
勿論彼は答えることはしなかった。その代わりに「アンタはどう思ってんだぁ?」と挑発するように呟く。謂わば腹の探り合い――モーゼはそれに乗って、「半信半疑といったところさ」と正直に述べる。
「だって、ねえ? 確かめようがないじゃないか。間違えて殺してしまえば殺人になってしまうからねぇ」
黒い本で口許を隠し、目は弧を描く。その様子を見て笑っているのだと彼は悟る。その姿はまるで人を殺めることに罪悪感など抱いていないという様子で、「流石イカれ野郎だな」とヴェルダリアは肩を竦めてみせる。
確かめる方法は単純、「殺す」ことで全てが分かるのだ。
殺した後、蘇生にどの程度の時間がかかるかは判明されていない。ただ殺した後に生き返るという話があるだけで、信憑性など皆無に等しい。命を持つものは死ぬまで自覚することなく、ただ普通の人間と同じように暮らしているのだ。
――だが、そんな話を何故モーゼは半分信じているのだろうか。
その理由も簡単――モーゼが持つ黒い古書に秘密があった。
「今まで見つけた本の数は軽く三十を越える。その中で、この本が最も『現在』に近いような気がしてね、読み進めていたよ」
モーゼは携えた本を開き、パラパラとページを捲る。黒い表紙を持つ本の中身も黒く、白い字で書かれたそれは見慣れない言語だった。その本を読み進めるのに一体どれほどの時間を費やしたのか定かではないが――ヴェルダリアは確かに頭が上がらなくなるほどに呆れさえも覚えた。
男の〝永遠の命〟に対する渇望は最早人間の範疇を越えている。行動にすれば昼夜問わず寝食さえも忘れて古書の解読に専念し、命を捧げなければならないと言われれば他人を殺めることも容赦しないだろう。自分の体はおろか、他人の犠牲も省みないほど、モーゼは半信半疑ながらも〝永遠の命〟を欲している。
その原因はモーゼの傍らにあるバラに埋もれた棺にあった。
思えば気が付くべきだった、モーゼは小さく口を溢す。黒い本の中身を軽く撫で見つめる様はまるで父親のよう。一人娘を愛でるかのような様子で男はその色を注視する。
「実はね、私は〝終焉の者〟をこの目で直に見たことはないんだよ」
突拍子もない話にヴェルダリアは興味なさげに「へぇ」と呟く。見たことがないという割にモーゼが〝終焉の者〟を認識しているのは、その手に収まる黒い本を読んだことにあるのだろう。ただでさえそれに対する言い伝えは仄かに街に浸透していて、最早知らない人間など居ないほど。
そんなモーゼが理由もなく話を切り出す筈もなく――「お前達は凄いね」と小さく褒め始める。
「私はあれが恐ろしい。恐ろしい――巨大な化け物に思える。それも直で見なくても、気配で何となくそう思えるほどに」
「そんなものにお前はよく剣を振るえるね」――そう呟いたモーゼに、ヴェルダリアは漸く興味を示し始めた。
恐らくモーゼは無意識のうちに黒衣の男がまさに〝終焉の者〟だと知っている。実際のところ〝終焉の者〟だと名乗ったところを見たことはないのだが、ルフランでは見かけない『黒』に、一直線に殺意を向けるヴェルダリアの姿を見て確信を得ているのだろう。
この街は黒を好む人間を無意識に〝終焉の者〟と結びつける傾向がある。それに畳み掛けるよう、住人から信頼を得ている〝教会〟の人間が敵意を向ければ尚更だ。〝終焉の者〟の情報は〝教会〟がそれとなく広めた所為だろう――何の力も持たない住人でさえもそれを認識すればあからさまな悪意を向ける。
その誰も彼もが〝終焉の者〟をしっかりと見ていたのだが、唯一モーゼだけは一度もその姿を目に納めたことがないという。
しかし、多少の印象は頭の中に叩き込まれていた。
「黒い髪に黒い服装……内容を抜粋したが、まるでこの本と同じだ。年齢は分からないけれど、声を聞く限りでは成人はしているね」
つい、と本を指の腹で撫でて、モーゼは柔らかく微笑む。〝永遠の命〟からかけ離れた話題にヴェルダリアは軽く首を傾げ、小さく溜め息を吐いた。何かを期待していたわけではないが、興味を持つほどのことではなかったと落胆が隠せなくなる。
その様子をモーゼは子供をあやすように「まあまあ」と呟いて、――目の色を変えた。
「分かった分かった、単刀直入に訊くよ。〝永遠の命〟は存在しているかい?」
にこりと微笑んでいるが、目が笑っていない。腹の底を探るような面持ちで男はヴェルダリアから目を逸らさずに黙って見つめている。
それにヴェルダリアは「何で俺に訊くんだよ」と溜め息混じりに呟いた。彼は〝永遠の命〟などにはこれっぽっちの興味がない。誰に与えられていようが、誰が与えていようが、彼はそれを〝教会〟に告げるつもりがない。
元々彼はモーゼの解読が行き詰まっていると思い、赴いてやったのだ。礼拝堂に隠された奇妙な地下室にまで下り、行き詰まっているであろうモーゼをからかい、然り気無くヒントを与えてやる。地獄の底でたむろする人間達に蜘蛛の糸を垂らしてやるような心持ちでやってきたのだ。
そもそもの話、ヴェルダリア自身ろくに〝教会〟を好いていない。そんな奴らに直接的な助言を与えてやるなど、彼の自尊心が許さなかった。
「勿論答えなくてもいい。――彼女がどうなってもいいならね」
その言葉にヴェルダリアはあからさまに顔を歪め、小さく舌打ちをする。弱味を握り、それをちらつかせてくるモーゼには酷く嫌気が差した。モーゼは教会に居ながらにして平然と生き物を殺すことのできる人間だ。それに何かをされるなど、気味が悪くて仕方がない。
ヴェルダリアはゆっくりと息を吐き、小さく吸い込んだ。氷のように冷えきった空気が喉を通り、肺の中に溜まる。体が中から冷えていくような感覚を味わいながら自分の揺らぐ自尊心を保つ。しなやかに伸びる雑草のようにどこまでも根深く――しつこく、苛立たせるような自尊心はヴェルダリアの象徴。失わないよう、ほんのり口角を上げる。
大人しく手の中で踊るような存在ではないことを知っていた。モーゼは挑発的に笑いを浮かべるヴェルダリアを見て「そうこなくちゃね」と褒めるように呟く。
「私はね、〝終焉の者〟と同じようにふらりと現れたお前の言葉は、他の誰よりも信憑性があると思っているんだよ」
燃えるような赤い髪。青い部屋の中でヴェルダリアが呟く言葉に、モーゼは満足げに笑った。
「――俺が本当に殺せてると思ってんのか?」