相も変わらず目の前で繰り広げられる光景に、モーゼ・ヘルツローズは困り果てたような顔で、軽く笑っていた。
「貴様などモーゼ様が拾わなければ路頭に迷うだけだ!」
「ちんけな挑発で俺を煽っても無駄だぜ、無能ちゃん」
何だと、と狭い空間に怒号が響く。
赤い髪を揺らしながらヴェルダリアはモーゼの信者とも呼べる男にヘラヘラと笑っていた。眉尻を下げ、肩をすくませ、溜め息混じりに呟くものだから、彼のプライドを引き裂いているようだ。藍色の瞳がヴェルダリアの挑発に乗るように、キッと睨み付けられる。対する彼は、余裕そうな表情で腕を組んだまま笑っているのだ。
長居は無用。そう言いたげにモーゼは「戻っていいよ」と呟くと、彼ら二人を除く〝教会〟の面々はゆっくりと席を立つ。
恐らく彼らもこの光景は見飽きてしまっているのだろう。確かに彼らはモーゼ側の人間で、従わないヴェルダリアをよく思っていない。しかし、毎日同じような光景を繰り広げられてしまえば、自ずと飽きが来るというもの。
解散を言い渡された他のメンバーは揃ってその場を後にした。
集会は相変わらず人の少ない早朝に行われがちだ。中には欠伸をする者もいて、少しばかり申し訳ないなどと思うモーゼはいる。自分自身はろくに眠らずとも、体が慣れてしまったのだろう――欠伸をひとつもすることなく、うぅん、と考え込むように首を傾げた。
夏が終わってからというものの、それとなく気温の変化を感じやすくなる。日の出は遅く、暗闇が長く続く朝ではかぶる布団が酷く心地好く思えてしまう。そうとなれば自ずと眠気が募るというもの。勿論、それは〝教会〟の面々も例外ではなく――。
今年の収穫祭について話し合う間に、何度眠たげな顔を見掛けただろうか。
未だに出入り口付近でわあわあと声を荒らげる二人を他所に、モーゼはどうにかできないものかと頭を捻る。彼らは好きでこの集会に顔を出しているようだが、それも限度が見られる。
やはり少人数で会を開くか、日中に行うのが適切なのだろう。
夏の頃は地下の方が涼しかったのだが、季節が変わった以上地下は寒くて仕方がない。少しでも暖かみのある場所へ行くのが彼らへの礼儀となるだろう。
「……よし」
己を鼓舞するように一言呟きを洩らし、机に手を突いて席を立つ。ガタン、と音を立てて引かれた椅子を戻し、未だに口喧嘩を繰り返す二人の肩を叩いて「退いてくれ」とひとつ。ハッとした様子の二人――ヴェルダリアは面倒くさそうに――は渋々喧嘩をやめると、モーゼに道を譲った。
それを切っ掛けに喧嘩も収まり、地上へ戻る頃には各々がやりたいことをやりに行く。大半は朝の祈りを捧げるために聖堂へ集まるのだが、神など進行していないヴェルダリアは、素知らぬ顔をしてその場を後にした。
向かう先はどこかと薄ら考えてしまうのを隅に追いやり、モーゼもまたその場を後にする。彼が祈りを捧げるのはあくまで神が対象ではないのだ。
そのままの足でモーゼは教会内を歩き、部屋を物色する。教会は教会らしく罪を懺悔する告解部屋なんてものがあったり、梯子で屋根辺りまで上った先にある黄金の鐘の真下へと躍り出る場所もある。意外にも広い筈の教会は、何故だか部屋が埋まりつつあって、モーゼは眉を顰めた。
祈りの時間は酷く静かなものだ。歩くときの足音でさえやけに耳障りに聞こえてしまう。祈りを捧げる身内が多少眉を顰めたのを視界の端で見やりながら、モーゼは部屋を見て回った。
告解部屋の他に二つの部屋がある。ひとつはヴェルダリアが気にかけている女――レイン、もといレイニールの部屋だ。女ということもあって一人部屋を与えたのだが、彼女が部屋を持て余していることは重々に承知している。本を与えようが何をしようが、寝具の上で時間を潰してあるのだ。
そしてもう一部屋は――。
「やあ。先程ぶりだね」
「…………ノックぐらいしろよ」
ノックもなく、何気なく扉を開けた先にいたのは、つい先程まで〝教会〟の人間といがみ合っていたヴェルダリアだ。
彼もまた寝具の上で暇を持て余している。流石に朝から何かの行動を起こすことはないのか、一度欠伸を溢して鬱陶しげにモーゼを睨む。金色に輝く瞳が鋭く細められ、モーゼの体を針でつつくように射抜いた。
彼を特別扱いをしているわけではないが、元々ルフランの住人ではないことが原因として教会の中で過ごすことを許している。レイニールよりも広く、家具も充実していて、中でもソファーは良いものを使っている。机や本棚も用意してあるが――ヴェルダリア自身が本を読んでいる様子をモーゼは見たことがない。
この男もまた部屋を持て余しているのだと分かり、モーゼは軽く頷いた。
うん、なるほど。そう言って腕を組み、にこりと微笑む。その様子があまりにも不気味で、ヴェルダリアは更に顔を顰めた。「何だよ」と呟いてやると、モーゼは何も言わずに踵を返す。
部屋をはしごして、もうひとつの部屋に顔を出し、寝惚け眼のレイニールに一言。「ついておいで」と言って、声を掛けてから彼女が後をついてくるのを待った。
扉の向こうから来たレイニールは「すみません」と言いたげに頭を細かく下げて、いくらか背の高いモーゼの顔を見る。
特別愛らしいとは思わないが、ヴェルダリアがやたらと気にかける女だ。モーゼはレイニールと一度視線を交わらせると、軽く微笑んで再び踵を返す。言われた言葉通りに彼女はモーゼの後をついて歩いた。
聖言が響く聖堂がやたらと気になるのだろう――モーゼが何気なく視線を動かすと、視界の端に映るレイニールが物珍しそうに辺りを見渡していた。
見た目は成人に達したであろう女の姿だが、中身は随分と少女のように純粋だ。そんな女が、性格がひねくれたようなヴェルダリアについて回るのだから、世の中は不思議なものである。
――そうしている間に彼はヴェルダリアのいる部屋に辿り着き、再びノックもせずに扉を開ける。その先にいるヴェルダリアはやはり鬱陶しそうに表情を歪めていたが、傍らにレイニールがいることに気が付いて、表情を険しくした。
「ヴェルダリア。君はレインと――」
ふ、と息を吸って言葉を紡ぐと、途端にモーゼの顔すれすれを何かがすれ違う。チッ、と音を立てて切れた髪に男の藤色の瞳が僅かに細められた。仄かに怒りを灯しているような瞳ではあるが、それよりも強く睨んでいるヴェルダリアは、モーゼに臆することもない。
遠くではトン、と静かな部屋に何かがぶつかるような音がした。堪らず〝教会〟の一人がちらりと視線を向けると、壁に突き刺さっているのは刃渡り数十センチの鋭い短刀だ。一体どこに隠し持っているのかと問いたくなるそれに、聖堂が僅かにざわめく。
しかし――
「お前がその名前を口にするんじゃねえ」
――聖堂内のざわめきも何のその。
ヴェルダリアはモーゼの言葉が癪に障ったのだ。
「……おっと失礼。レイニールだったね」
愛称の方が個人的には呼びやすいのだがね。モーゼはそういうとコホン、と咳払いをする。
レイン、もといレイニールの名前はヴェルダリア自身がつけたものだ。
それはとある雨の日の話。嫌がらせを受けていた彼女を拾ったあの日。別々に行動するかと思えば、彼女はヴェルダリアの後をついて回るようになった。話を聞けば行くあてがないのだと、彼女は言う。
行くあてがないのは彼も同じだった。目的もなく気の向くままに歩いては夜を過ごして、日中にまた歩き始める。そんな一日。その中に彼女が加わるとなれば、彼は寝場所もそれなりに気を遣わなければならなかった。
正直に言えば厄介以外の何ものでもない。自分のために探す寝床を、他者のために探すとなると気苦労は増えてしまう。野宿をしようにも女がいればそれも失礼にあたる。気紛れに宿を取るときは部屋を二人分にしなければ、世間の目が物を言う。
彼にとって彼女の存在は疫病神のようなものだ。
だからこそヴェルダリアは丁重に断ってやろうと口を開いた。――しかし、彼女が言うには人の姿でいるのは滅多にないと言うのだ。
人である時間が長ければ長いほど、自分自身も疲れきってしまう。だから普段は人型にはならない――。
その言葉を聞いて、彼は再度考え込んだ。
確かに人でなければ、先程まで懸念していたことは杞憂に終わるだろう。寝床は最悪自分の膝の上でもいい。大して食事を必要としない便利な生き物だ。どこかの穴蔵に身を潜めたときは、自身の力をもって明るさも、温かさも補ってやると言う。
特別明るさや温かさに困ったことはないが、連れて歩いて金が掛かることはまずないのだろう。彼女に利点があるとは思えないが、ついて行きたいと言うなら好きにするのも手だろう。
加えて彼女は自分の身もろくに守れないのだと言った。
精霊という生き物は世の中が栄えた今でも未だに得体が知れないもの。一度人間に捕まれば、先程と同じように何をされるかも分からないのだ。
そんな自分の身を気紛れでもいい――匿ってもらえたら、と彼女は彼に告げた。
「……なるほどなぁ……」
ぽつり。小さく呟くと、彼女は燃えるような髪を揺らしながら、じっと見つめ始める。断られるのだろうか。そんな気持ちが込められた眼差しだ。その視線はヴェルダリアの心を動かすようなものではないが、彼女の実体が、彼の心を揺れ動かす。
ヴェルダリアは人間が嫌いだ。人間が嫌いだが、反面動物の類いを好んでいる節がある。彼女の実体はそれによく似ていて、連れて歩いていれば少しは癒やしにもなるだろう。万が一人間に手を出されれば、ストレスの捌け口として、相手に手をあげることも正当化されるのではないだろうか。
ヴェルダリアはんん、と唸りながら彼女を見つめ返してやる。彼女はヴェルダリアと目が合うと、即座に目を逸らしてしまった。僅かに頬が赤く見えるのは気のせいだろう。――そんな彼女を連れて歩く利点を考えなくもないのだが、「これは自分のものだ」と証明するためのものがあれば尚更正当化されやすいだろう。
そのためには一体どうしたものか。
そう頭を捻っていると、彼女はヴェルダリアに対してこう言った。
――私に名前をつけてほしい、と。
それは、彼女にとっては人生を左右するものであると、彼は薄々気が付いていた。
精霊にとって名前というものは契約と同等の意味を持つ。ただ一人に個を指し示すものを与えられ、ただ一人に忠義を尽くす――そんな役割がある。契約を交わす際には精霊に認められることが最条件なのだが、例外もあるようだ。
ヴェルダリアは彼女の言葉に対して「何を言ってるのか分かってんのか」と呟いた。博識ではないが、彼とてそれなりの情報は頭の中に留めてあるのだ。精霊の方が名前をつけてほしいと言うことは、あってはならないことと同義だと言っても過言ではない。
――そう気難しそうに顔を顰める彼に対し、彼女は花が綻ぶように柔らかく微笑んだ。まるで、「それこそが幸せ」だと言いたげな表情だ。少女のような振る舞いをしていたと思えば、娼婦のように微笑むものだから、流石の彼も面を食らう。
見た目以上に強く思えたのは、炎のように燃える瞳が瞬いたように見えたからだろうか――。
「――しゃーねぇ。名前をくれてやるよ」
「……!」
有難うございます、と言いたそうに頭を下げた彼女を、彼は溜め息を吐きながら眺めていた。
この出会いは雨が降る日のことだった。だからこそ、彼は彼女にふたつ、名前をつけてやった。愛称とするものは、出会いの記念にという気持ちを込めてレインと――。
――その記憶が踏みにじられてしまうようで、ヴェルダリアは自分以外に彼女の愛称を呼ばせたくはなかった。
何だ何だ、と祈りもそこそこに騒ぎを増していく聖堂を背に、モーゼはふ、と笑う。何てことはない。子供が癇癪を起こし、自分に八つ当たりしたのだと思えば、余計な腹立たしさは覚えない。微かに呼吸を繰り返し、服に落ちた髪を払い、男は気を取り直す。
「お前、これからこの子と同じ部屋で過ごしなさい」
「……は?」
「ッ!?」
トン、とレインの背を押しながら、モーゼは彼に語った。
冬に備えて暖かい部屋で話し合うには、ひとつ、部屋を空けるしかなかった。だが、生憎教会の部屋は埋まってしまっている状況だ。空き部屋だった場所にいたのはヴェルダリアとレインの二人で、どちらも部屋を持て余しているのが現状である。その中でモーゼがレインを移動させようと思ったのは、単純に家具が少ないからだ。
モーゼの言葉を聞いたヴェルダリアは目を丸くして、レインは慌てるように二人を何度も見返す。男女二人、ひとつの部屋に身を寄せ合うのが恥ずかしい、と言いたげな様子は、まさに乙女そのものだった。
頬を赤らめて両の手で顔を覆う女など、この教会内にはまずいない。彼女を視界の端に納めるモーゼは、興味こそは抱かないが珍しいものを見たと言わんばかりに笑った。
ヴェルダリアがそれをよしとしないように「何言ってんだ」と口を挟む。種別こそ違うのだが、現状二人は「男女」の部類に入るのだ。年齢を例えればいい年をしている大人が、ひとつの部屋に身を寄せ合うなど、常識的には考えられないだろう。
特に恋仲でもない間柄であれば尚更だ。
「間違いがあるとは思えねぇが、普通に考えて無理だっつの」
あくまで正論を述べるヴェルダリアに、モーゼはふぅん、と生返事を返す。
「つまりお前はこの子といるのが嫌だと」
「は?」
「……!!」
煽り言葉に買い言葉。モーゼの言葉にヴェルダリアは眉間にシワを寄せる。ピリピリと殺気にも似た苛立ちが、レインの頬をつついた。
挑発されていることには十分気が付いているのだが、どうしてもそれに乗ってしまうのがヴェルダリアという人間なのだろう。明らかに乗せられていると思えているのだが、見当違いの言葉を投げられるのが気に食わないのだ。
モーゼ自身、彼が言わんとしていることを理解しているのだが、敢えて見当違いの言葉を投げている。そうすることでヴェルダリアが自分で自分の首を絞めている状況を作り出し、逃げ道を塞ごうという魂胆だ。血の気が多く、挑発的な態度を取る彼だからこそ、自分より優位でいる人間が許せないのだ。
――そんな二人のやり取りを、レインは見つめているだけだった。
気が付けば聖堂での祈りは終わり、野次馬と化した〝教会〟の人間達がヴェルダリアとモーゼの二人をじっと見つめている。時折レインに「また厄介事に巻き込まれたんですか」と声を掛ける者がいて、ヴェルダリアに睨まれたのは言うまでもないだろう。
二人の間にはバチバチと音を立てて閃光が走っているようにさえ見える。それほどまでに彼らの――もとい、ヴェルダリアの機嫌は悪く、反対にモーゼは随分と柔らかな表情を湛えていた。
一体どちらが折れるのだろうか。――そう思ったとき、ヴェルダリアが小さく舌打ちをする。
「はっ、いいぜ。レインと同じ部屋で過ごしてやるよぉ!」
よろしい。そう言って素直に折れたヴェルダリアに、モーゼは満足げに答えた。