「モーゼ様、お時間よろしいですか」
レインの部屋の移動を見守っていたモーゼに、男が声を掛ける。低く、それでいてどこか大人しげな声色だ。それに「何かな」と振り向きながら答えるモーゼの瞳に、神妙な面持ちの男がいた。
彼の名前を――モーゼは少しも覚えていない。というより興味がない。彼は何故だかモーゼに心酔しているように肩を持つことがある。つい先程まで、彼はヴェルダリアといがみ合っていた理由も、モーゼに反抗的な態度を取るから、だ。
そんな彼を、モーゼは少しも気にしたことがない。それでも慕われるというのは心地がよく、「そんな顔をしてどうしたんだい」と問い掛けてやる。
背後からはレインにあれやこれやと何かを言うヴェルダリアの声が聞こえた。「俺がやっておくから座ってろ」だの「余計な手出しをするな」だの、身を案じるようで可笑しな言葉が聞こえてくる、その様子を目に留められないというのは少し――
――少し、惜しく思った。
「モーゼ様は、その……アイツをどう思っておられるのですか」
アイツ、というのはヴェルダリアのことだろう。モーゼを見つめる瞳がちらりと後方へ向かい、ほんの僅かに、嫌そうに細められた。彼はヴェルダリアのことが嫌いなのだと、今の素振りから確かに窺える。「どう、とは?」と何気なく問い掛けてみれば、男は口にしにくそうに視線を泳がせた。
しかし、意を決したように拳を握り締めると、モーゼに言う。
「いつまであれをここに置いておくつもりですか? あれはモーゼ様に反抗的な態度ばかり取ります。正直私は、それが気に食わないです……あれが本当に貴方のお力になっているんですか? それに……」
――口早にそう言った後、彼はぐっと口を噤んでしまう。眉間にシワを寄せて、奥歯で言葉を噛み締めるような様子から、モーゼは彼が何を言いたいのか、分かったような気がした。
それに、アイツは本当に奴を殺せるのですか
――彼が言いたかったのはその言葉だろう。あれだけ高圧的な態度を取っているくせに、〝教会〟は〝終焉の者〟を殺した様子をまるで見たことがない。
そもそもの話、見付けたことすらなかったこのご時世に、突如現れた存在があまりにも信用できないのだろう。
かくいうモーゼも、ヴェルダリアに対しては不信感を抱いているのも否定はできない。自分の背丈ほどもある大剣を軽々と振るえる姿は、確かに圧倒されるものがあるが、それが〝終焉の者〟に対抗することができるのかは定かではないのだ。
それでもモーゼがヴェルダリアを傍に置いておくのは、単純に「自分を信用しないから」だ。
「私は特に態度については気にしたことがないよ」
彼の問いに、モーゼはやんわりと答えてやる。勿論、それは本心から来るもので、男はヴェルダリアの態度については嫌気を覚えたこともない。寧ろ丁度良い距離感とさえも思っているほどだ。
二人にとってお互いは利害が一致しているような関係値。その間柄に信用など、必要性がない。
そんなことも露知らず。彼はモーゼの答えに納得がいかないと、首を横に振る。「モーゼ様がよくても私がよくありません」と言って、男の言葉に反抗した。
彼は根っこからヴェルダリアと性格が合わないようだ。ヴェルダリアの性格を良しともせず、何かがある度に突っ掛かってしまう。しまいにはこの〝教会〟から追い出してほしいと言うほどだ。あくまで彼一人の意見ではなく、数人の意見を、彼は述べているという。
ヴェルダリアの存在は彼らにとってストレス以外の何ものでもないようだ。高圧的な態度も、ふんぞり返る様子も彼らにとって癪に障るもの。そんな男について回るレインの存在ですらも、稀に否定することがある。
あんな男について回る存在の気が知れない、と数人が述べるのだ。
彼はモーゼにヴェルダリアの対処を変えるように求めた。少しでも厳格な態度で、自分の立場を分からせてやってほしい、と懇願する。余所者は余所者なりの自覚をさせるべきだと、彼は言うのだ。
――ああ、面倒だな。
ぽつりと小さく呟かれてしまった言葉を、彼は聞き入れることは叶わなかった。
この短時間でモーゼは彼に対する印象を固めた。
彼は酷く正義感が強い。それこそこの〝教会〟に相応しいほど。彼は〝教会〟に務めていなければ、また別の職を見付けて、家族を養って生きていただろう。子供の面倒見はよく、死ぬまで家族を大切にしたに違いない。
モーゼがいなければ、きっと彼はこの〝教会〟を強く支えただろう――。
「……そうだな……じゃあ、君には行ってほしい場所があるんだけど、いいかな?」
「行ってほしい場所、ですか……?」
男は小さく頷いて、幾ばくか背の高い彼を見上げた。彼はモーゼの言葉に驚くように瞬きをして、モーゼの言葉を待つ。彼がその場所へ向かっている間に、ヴェルダリアを言い聞かせておく、という口約束をして、にこりと微笑む。
「街の外れに大きな屋敷がひとつある。そこへ行ってきてくれるかい?」
男の言葉に、彼は目を輝かせながら大きく頷いていた。
――秋の香りを漂わせる空。冷たい風が仄かに頬を撫で、ヴェルダリアの赤い髪が揺れる。
「――馬鹿な話に乗りやすいのも、馬鹿の証明だよなあ」
そう呟いて、箪笥の中の衣類をまとめて抱えた。